『たった一人に愛されるのなら、あなたは誰にでも愛される』

 一週間――いや、もっと前だったろうか。

 博士とずっといると、どんどんと時間の感覚を失っていく気がする。

 いや、もしかすると彼のせいかもしれない。

 彼と話している間はそれこそ、時間という概念を忘れてしまうから。

「私の声が美しい、と?」

 どのような経緯いきさつからそんな話になったのかは、憶えていない。

 ただ少女は純粋に、怪物の声を称賛する言葉を投げかけて、それに対する彼の反応はと言えば驚愕したというのが近いだろうか。

 人間と異なる顔のつくりのため、オレンジもうまく読めないが、しかし少なくとも彼女はそう見て取った。

 他の人間ならば、美声から災禍にまでされた怪物レキエムに対して、このようなことは言わないだろう。彼は声が美し過ぎるが故に、怪物にされてしまったのだから、最上級の皮肉になってしまう。

 その先にある自身の死を思い描いてしまえば、例え大富豪に何億という金を積まれたところで、決して言いはしないだろう。金よりもずっと、命の方が大切に決まってる。

 そんな彼に声が美しいと言ってしまえるのは、何も知らないオレンジだからこそだろう。

 世界の常識から自分の経歴についてまで、一切の情報と知識を持たず、生きる上で最低限の能力だけを持って倒れていた少女は、レキエムという災禍を前にしても、嘘をつくという生きる術をまだ習得し切れずにいた。

 マズい、と遠くで見守っていた青髪はもしもの場合を想定して駆け出そうとする。

 その足を止めたのは、他でもないレキエムだった。

 ただしその理由としては青髪が竦むほどの殺気を放ったからでもなく、オレンジが先に殺されてしまったからでもなく、レキエムの怪物じみて細く伸びた指が、少女の頭についた塵を一つ摘まんで、取り払ったからである。

 それこそただの家族、もしくは親しい間柄の二人の間に交わされた行動のようで、青髪は想像の斜め上を行かれて驚かざるを得なかった。

 そして何より、オレンジが恐怖も抵抗も何も抱かず、甘んじて受け入れていることが信じられない。

 災禍と呼ばれている怪物の手だ。

 今まで何人と殺してきたかわからない手だ。

 それがたかが塵一つ払うためとはいえ、自分の頭に伸びていることに一切の恐怖を抱かずに待っていられるのは、彼女が純情無垢な少女だからか、もしくはただの無知だからか、それとも――

「汝の髪は、まるで炎の星が生み出す命の光のような色をしているな。これこそ、美しいと呼ばれるに相応しいものだろうよ。手入れは自身でしているのか?」

「いえ、青髪さんや緑髪さん達が手入れしないともったいないと」

「そうか……汝は皆に愛されているのだな」

「愛されて、いるのでしょうか」

「愛していなければ、わざわざ人の髪を手入れなどすまいよ」

 細く痩せて伸びた禍々しい指に橙色の髪が乗って、日の光を浴びて絹のような光沢を放っている。

 仕事でもないのにそれほどまでに丁寧に、人の髪を磨いてくれる他人などいるものか。

 だがオレンジにはそれが理解できない。

 自分を襲う獣の存在を知っている。自分達の命を狙って来る他人を知っている。人の命をこき使う人を知っている。人の命を売り買いする人を知っている。

 人の命が奪われること、奪う者がいることを知っていながら、その逆をちゃんとは知らず、実感したことがない。

 しかしそれは、言ってしまえば「灯台下暗し」。彼女のすぐ側に、彼女を大切に育ててくれている人達がいることに、彼女自身まだ気付けていない。

 皮肉なことに、彼女が今いる場所は死んだ人間から新たな命を作る場所で、すでに存在している命を大事に扱う場所ではなく、黒髪のホムンクルスが嫁に行ってもすぐに代理のホムンクルスが出来てしまう場所だ。

 そんな場所で命の尊さを問おうなどと思えば滑稽だろう。自分が特別大切にされているかなど、自覚できるものか。

 愛情など、理解できるはずもない。

 自分がもしも死んでしまっても、そのときは博士が別物を作り上げるだけで終わると、ある意味信じてさえいる彼女には、到底理解の届かない話である。

 故にレキエムの言葉に対しても、オレンジは首を傾げるばかりで、反応という反応を返せずに黙り込んでしまう。

 今度は青髪であっても、災禍の感情が見て取れた。

 愛も非情も区別できない少女に対する、憐れみの籠った目だ。

 一つしかない左目と、三つもある右目の合計四つの鋭い眼が、持ち前の命を狩る鋭さを欠いて無垢な少女を見下ろしていた。

 無垢に過ぎる少女は、自分が何故憐れむ視線で見つめられているのかさえ、理解し切れていないようだ。

 無垢――いや、この場合は無知の方が正しいのか。犯しがたいほどに潔癖で、純白で、温かなこの少女は果たして、今こうして災禍の腕に抱かれて会話を交わすのに値するのだろうか。

 いやそもそも、自分自身がこの少女と会話を交わす価値があるのか。彼女が無垢に過ぎて、また自身が穢れ過ぎて、レキエムは自分と彼女が正反対の位置にいることを改めて知った気がした。

 自分は存在自体を一度全面的に肯定された結果生まれた、否定され続ける怪物だ。

 だが少女は未だ全面的に存在を肯定されたこともなく、否定されたこともない。

 人はいつまでも無垢ではいられないものだし、そもそも無垢な状態で生まれてこない個体もいるものだが、彼女の場合はあり得ないほどに無垢で、純情に過ぎる。

 それこそ、聖女でもあるまいに。

「レキエムさん?」

「……よいか、オレンジ。汝は愛されている。少なくとも、汝の髪をこれほどまでに美しく整えてくれる者達は。そして、そうして誰かに好かれる人というのは、同時に別の人からも好かれる人物であるはずだ。その先嫌われることもあろうが、しかし先に好きになることはあるはずなのだ」

「私は……私は、好かれている、のでしょうか」

「少なくとも、ホムンクルスはそうだろう。外道の魔術師はどうかは知らぬが――とにかく、たった一人に愛されるのなら、汝には誰にでも愛される才能があるのだ。汝はそれだけの存在なのだ」

「私は、誰かに愛される存在に、なれるのですか?」

「その後嫌われる可能性は孕んでいようが、しかし一時的にでも永続的にでも、人から好かれ、愛される。汝にはその才能があろうことは、汝が未だ無垢であることが証明していると言える」

「……では、私は、あなたに愛されることはできますか――?」


 ▼  ▼  ▼  ▼  ▼


 少女は今、困り果てている。

 車椅子を押すこと自体に、苦難は感じていない。そもそも、苦難ですらない。

 問題は、車椅子に座っている女王の質問に、上手く受け答え出来ている自信がないことだ。

 博士には「期待はしてないが、努力はしナ。女王のご機嫌取りがおまえの仕事ダ」とだけ言われて来たが、果たして娘を失った母親の代わりなど務まろうか。

 それこそ自分の頭には、女王と王女の思い出も何もインプットされていない。

 そんな状態で人を騙しきれる演技など、期待されても困る――まぁ、だから期待してないと言われているのだが、だとすれば何故、この仕事を受けたのか。

「まぁ見て、ミケイラ。グレンカラスアゲハよ。珍しいわね、この時期に」

「そうですね、母上。ですが近年は暖かい日も続きましたし、きっと早く成長したのでしょう。火の粉のような鱗粉を放つ漆黒蝶、夜に見ればまた、素敵な一面を見られることでしょう」

「えぇ、そうね。きっとそうね。なら夜も一緒にお散歩しましょう」

「女王陛下、さすがにそれは御身に危険が多いかと思われます。夜分遅くの外出はお控えください」

 護衛騎士のしている心配は、女王と王女が一緒にいるところを国民に見られることだ。

 昼間こそ国民は観光客を相手に商売しているため、辺境の花畑になど来るはずもないが、夜になって羽目を外す時間ともなればやって来る可能性はある。

 ただでさえ、少女と王女は見分けがつきにくい程度に似ているのだ。宵闇の中で見れば、それこそ王女の幽霊が女王と共に散歩していたなどと噂が流れてしまう。

 どのような些事であれ、王族に不信感を生むような噂は避けたい。

「もう、コルトったら。せっかくミケイラとお出かけできるのですよ? そんな冷たいことを言わないでくださいな」

「御身を思えばこその進言です。ご理解頂きたく存じます」

「けれど――」

 王女がいるからなのか、聞き分けの悪い女王に守護騎士が再度注意を重ねようとしたとき、彼女の口は封じられた。

「母上、ここはコルトの意志を尊重しようではありませんか」

 彼女よりも先に、王女の口調を真似た王女そっくりの少女が、女王を宥めたからだ。

「コルトは母上の身を案じておられるのです。この国も平和とはいえ、他国の賊がうろついていないとも限りません。それにこれだけの漆黒蝶、宵闇を火の粉が舞い踊るかのように花畑を駆ける光景を、城の上から見下ろしたいとは思いませんか?」

 先ほどまでのぎこちなさはどこへ行った。

 先ほどまでの落ち着きのなさはどこへ行った。

 守護騎士は完全に、偽物の王女に斜め上からの覚悟で不意を突かれ、予想だにしていなかった衝撃を受けて言葉を紡げなかった。

 人が変わったかのよう――いや、まるで他人が乗り移ったかのようだ。

「そう、そうね。それもそうだわ。じゃあ夜は最上階で一緒に見ましょう、ミケイラ。コルトもそれなら、文句はありませんね?」

「は、はい……なんの問題も、ありません」

「では決まりですね! ミケイラ、それまでもう少し、周囲を見て回りましょう?」

「はい、母上」

 また、少女は偽物へと戻る。

 守護騎士は驚き、恐れすら抱いた。

 女王が少女を王女でないと見抜けないのは、度重ねた心労のせいだけではないのだろうか。

 自分の娘と同じ髪色をしているというだけの少女相手に、ここまで心を開くものだろうか。

 本当に、女王は彼女を王女だと思っているのだろうか。

 だとすれば。だとすれば、それは――

「コルト……」

 城から彼女の後姿を見下ろす王子は、彼女の背が震えたのを見る。

 いや、実際に目視できたわけではない。ただそう見えたような気がするというだけの話。

 が、見間違いなどとも思わない。

 それこそ誰かのように感受性に優れているわけではないと自負しているが、及ばないにしても、信頼を置く部下の心境を察するくらいの能力はあると思っていた。

 故に彼女が今、恐怖しているのは理解できた。

 だが、恐怖の起因が何であるかまではわからない。彼女の背に悪寒が走り、何か対処を講じなければなるまいと考えていることは察したが、何に対してどのような対処をしようとしているのかはわからない。

 だが隣にいる男には――外道の魔術師にはわかっているのか、王子と同じ視点で同じものを見ているはずなのに、彼の口角はほくそ笑んでいるように見えるほど歪んでいる。

 何がそこまで面白いのか、会話も何も聞こえない状況で、一体この先どんな展開を先読みした。その光景とやらはそれほどまでに、外道にとっては都合がいいのか。

「魔術師殿――」

「王子。あの守護騎士は強いて言えば、どちらだと思うかネ。目の前にあるものが害悪だとわかったとき、どうすると思う? じっくりと策を練ってから罠にかけて殺そうと企むか。それともその日の晩に闇夜に紛れて暗殺を試みるか。なんなら賭けベットでもするかネ?」

「あなたは本当に……外道と呼ばれるに相応しい人ですよ」

「お褒め頂き光栄だネ」

 あれだけ外道の魔術師を恐れていた王子でさえ皮肉を返したくなるほどに、博士という人は他人の心を容易に見抜く。見抜いたうえで、絶対に自分が勝つ賭けを持ちかける。

 これほど人を嫌いになったのは初めてだと言わんばかりに、王子は何も言わぬままに明らか不機嫌な様子で立ち去っていった。

 博士は知っている。

 たった一人に愛される存在は、誰にでも愛されるだけの才能を持っている。

 ならば人に愛される術を知っていれば、人に嫌われる術も知っている。理屈の上では、そんな計算式を組み立てることができる。

 だが彼女はその中でも異質で、例外的な存在だ。

 人に愛されるだけ愛されているのに、自分はそれを自覚せず、自覚せぬまま人に好かれることを呟いて人の好意を掻き集める。そしてそれを利用するでもなく堪能するでもなく、ただ持て余すだけの少女。

 まるで――いや、人形そのものだ。

 人の手によって作られ、生まれ、ただ人に愛玩されるだけの遊具であり、心の支えであり、架空の友人であり、偽物の幸福を生み出す願望器。

 愛されるだけ愛されて、自分からは何も求めてこない。

 物言わぬ愛玩人形は、ただ人に愛され続けて壊れ、廃れ、棄てられるという結末を辿るのみ。

 本来、人間ならば許されない行為だ。嫌がる行為だ。

 自分がそうすることも、そうされることも嫌がることだ。簡潔に汚い言葉を使えば、それはレイプであり、短く難しい言葉で上品にしても凌辱、恥辱の二文字が相応しい。

 人形はものを言わない。

 どんな扱いをされようとも文句を言わず、両腕を引っ張って血管わたが飛び出しても痛がらず、目玉ビーズを直接触れられても不快感を示さず、体液をかけられたところで侮蔑の言葉も返さない。

 だが人間は反抗する。悲鳴を上げ、時には暴力で迎え撃ち、殺してしまうことさえあるだろう。防衛本能かプライドの類か、果たしてどの部分が機能してそうさせているのかは人それぞれではあるが、皆同じはずだ。

 そんな機能が、人間である彼女にも備わっているはずなのだ。

 故にこの状況を利用して見定める。彼女は果たして人形か人間か。

 愛されるだけ愛されて終わるのか、愛されれば愛そうとするのか、殺されそうになれば殺されるのか、殺されそうになれば殺そうとするのか。

 以前のような暴走ではなく、彼女の意志に、問いかける。

 果たしておまえは誰にでも愛される人間か。それとも誰にでも愛される人形か――

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