「命の利用価値について語るには、それ相応の資格がいる」
ミノタウロスと呼ばれる人獣の入る牢は、他の剣闘士の牢とは明らかに違った。
そもそも剣闘士と呼ばれる人は、国にとっては罪人、囚人である。故に入っているのも、部屋ではなく牢と呼ぶに近い。
鉄格子で囲われた牢は、最低でも四人以上の囚人が入れられ、汚らしいベッドと共同のトイレが置かれているだけの簡素で、とても清潔とは言い難いものだ。
すぐ側を歩くだけでも、風呂なんてまともに入れさせて貰えていないのだろう囚人らの体臭が、鼻を曲げそうな勢いで臭って来る。
何よりここに送られる囚人は、血の気の多い者ばかり。あれこれと理由を付けた暴力沙汰が絶えず、もはや日常茶飯事らしく、時々血の鉄臭い臭いが鼻に届いて来る。
今まで王宮や、貴族の依頼人の屋敷など豪奢で、潔癖に過ぎるくらいの場所ばかり訪れていたオレンジにとっては、少々衝撃的な環境ではあった。
以前に博士に連れられて闇市を歩いたが、そこの比ではない。ここは、命の腐る臭いがする。
そんな中でミノタウロスの牢は完全に個室で、比較的という話ではあるが清掃が施されている様子が窺えた。人獣であるミノタウロス自身がまた酷い体臭だが、少なくとも他の囚人よりはまだマシである。
そして彼の牢は、他の囚人の牢からは明らかに距離を置かれた場所にあった。そのお陰か他の牢よりも、鉄格子付きのはめ殺し窓から日の光が差し込んでわずかにだが明るく感じた。
そして先に語った通り、他の牢には汚らしいベッドと共同のトイレしかない。
対してミノタウロスの部屋には特注なのだろうか、彼の身の丈にはあっているバカでかい戦斧が立てかけており、部屋の壁には一枚だけだが、家族と思われる人獣達と一緒に写っている写真が飾られていた。
やはりというべきか、いつぞやの森の中にあった人獣と獣人の皇国が、彼の故郷らしい。
「そうか、それは大変だったな」
ベッドに腰かけたミノタウロスの膝に乗り、紫髪はバンバンと脚を叩く。先ほど大の大人を容赦なく捕まえた膂力で叩くので心配になったが、ミノタウロスは痛がりもしない。
むしろ紫髪が伝えたいことがわかると、嬉しそうに微笑みさえ返した。もっとも微笑みでも、傍から見ると威嚇して牙を剥いているように見えてしまうが。
「その、ミノタウロスさんは……」
「橙色の、悪いがミノタウロスは忌み名みたいなあだ名でな。俺の名前ではないのだ」
「忌み、名……?」
「要するに、悪口ってことだな」
「ご、ごめんなさい。私、世間知らずで」
「何、ちゃんと自己紹介もしてなかったしな、仕方ねぇさ。改めてよろしくな、俺はグーガランナ・ディアマンテ。まぁ青いのと同じく、牛さんでもいいぜ。ミノタウロスよりマシだ」
「その、ごめんなさい……ミノタウロス、というのはどういう意味なんですか?」
オレンジの問いに、グーガランナはわずかに疑問を抱く。
紫髪が彼の膝の上に立ち、胸板を叩くと身振り手振りで何かしらを伝える。それで伝わっているのだから、オレンジには本当に不思議な関係に見えた。
「ミノタウロスってのはな。まだ世界で獣人、人獣の存在も知られてない遠い昔に迷宮に現れたって怪物の名前さ。人間の体に牛の頭と尾、角を持った怪物で、迷宮の宝物目当てに侵入したコソ泥を片っ端から殺していった。最後にはどこぞの英雄様に討伐されたらしいが、まさしく俺の見てくれがそれにそっくりだから、そう呼ばれてるのさ」
「ご、ごめんなさい……」
オレンジの小さな頭に、巨大な手が乗せられる。
オレンジの頭蓋などいとも簡単に砕く握力さえ備わっているだろう大きな手は、少女の頭をそっと、優しく叩いた。
「記憶喪失じゃあ仕方ねぇさ。しかし不便だな、記憶がねぇってのは」
「え?」
そんなこと言ってないはず、とオレンジが視線で問う。
グーガランナはその返答とばかりに、膝の上の少女の頭を撫でた。
「こいつの伝えたいことはなんとなくだがわかる。言葉こそ使わねぇが、以心伝心の術は言葉だけじゃあねぇだろう? それこそ身振り手振り、表情、態度、伝える手段は色々あらぁな」
グーガランナはそういうが、オレンジが今までに紫髪の言いたいことを理解できたことなんて本当に少ない。
皿を持って来られればお腹が空いた。
汚れてしまった服を持って来れば洗濯して欲しい。
仕事の話のときに地図を持って来れば、次はここに行くんだよと教えてくれている。
その程度の理解力しかない。
グーガランナのようにあれこれと、細かいところまで理解するのは無理だ。
だがふと思えば一人だけ、紫髪の意図をごく自然と理解できている人間がいた。当然の話だが、彼女を作った生みの親たる、博士である。
「み、ミノタウロスに花嫁を?!」
「なんだネ、うるさいヨ」
「も、申し訳ありません。【外道】の魔術師殿」
宮殿内の庭園を散歩する博士に、王たるアロケインは直々に案内役を買って出て付き添っていた。その他にも美女のメイドが数人、博士の一挙手一投足に怯えながらついていた。
話の経緯は忘れたが、仕事の依頼人の名前が出た瞬間、王は王にあるまじき臆した声で叫び、メイドらは顔を真っ青に染めた。
無論、博士も依頼人がこの国でどのような立場にあるかは知っている。名前を出せば王もメイドも、臆することはわかっていた。
とはいえ、王の立場にありながら恥ずかしいくらいに狼狽えるので、元々低かった博士のアロケインという王に対する評価は、さらに下がった。
「しかしミノタウロスとは、これまた随分と大層なあだ名じゃあないかネ。奴はそれこそ人獣、獣人族からしてみれば神祖に近い存在だヨ? グーガランナ・ディアマンテ。仕事に必要のない情報は持ち合わせないのだが、どういう奴だネ?」
「い、いえ……【外道】の魔術師殿が興味を持たれるような者ではありませぬ。ただ人獣の平均をも超える巨体に牛の頭部と角から、そう呼ばれているだけでして――」
博士の眼光に射抜かれた臆病な王は「ただ」と続けた。
子供でもあるまいに、皇族にしては比較的やせ型の彼の肩は小刻みに震えている。目の前の魔術師に対して怯えているのか、それとも伝説の神獣と同じあだ名で呼ばれる人獣に怯えているのか、判断は難しい。
「剣闘士として、奴は最強の存在として君臨しております。その力は人間はもちろん、他の種族の剣闘士をも寄せ付けず、文字通り無敵の存在です」
「無敵の存在、か……それは、いいネェ」
博士はニタリと口角を上げる。
無論、いつも通り口はマスクに覆われているが、瞳が喜々として輝いていて好奇心に満ち溢れているのは明らか。ただし王には彼を見上げる度胸はなく、輝ける虹彩を見ることはできなかった。
ただしもしも見てしまったなら、幼少期より両親からずっと言い聞かされていた彼の所業を思い出し、恐怖に支配されていたことは確実で、臆したが故の幸運と言っても過言ではなかった。
このときの王の震えの原因は間違いなく、隣で好奇心と共に溢れる魔術師の魔力に違いなかったのだから、見上げてしまった場合は失禁もしくは失神していたかもしれない。
さらに言えば、魔術師の背後にいたメイドは王以上の恐怖に怯えていた。
王と違って目の前の魔術師について噂程度にしか知らないが、逆にだからこそ実態が掴めず、得体の知れない恐怖が心を蝕んでくる。
【外道】の魔術師については良くない噂ばかりが飛び交っていて、会えば魂を抜かれるだとか冥界に連れていかれるだとか、根も葉もないものもあるものの、それを嘘だと否定しきれる確証もなく、彼女達は怯えるしかなかった。
特に人間ではない異種族のメイドは、人獣であるミノタウロス――基、グーガランナに博士の興味が向けられていることから怯え方はすでに、泣きじゃくるのを必死に堪える子供のそれとほぼ同じだった。
「そ、それで花嫁はすでに用意できているので……?」
「なんだネ、気になるのかネ?」
気にならないはずはない。
嫁を迎えるのだ。つまりはその遺伝子が、後世へと繋がれていくということ。彼らが怯え、恐怖する怪物の血を持った新たな怪物が誕生するということを意味する。
神獣の名で呼ばれるような怪物だろうと、生物である限り寿命が存在し、寿命が尽きれば死ぬのがこの世の理。どれだけ長く生きる種族とて、抗えぬ運命。
しかし次の世代へ繋ぐことで、その血を絶やすことだけは防ぐことができる。
王族。貴族。皇族。種族問わず、国を背負う一族ならばそれこそ、自分達一族の血を絶やすまいと必死に世継ぎを残そうとするもの。だからこそ、王の理解は早かった。
怪物に子供が生まれるということは、怪物の脅威に晒される時間がそれだけ伸びるということ。さらにその子供が次の世代、次の世代へと紡いでいくことで怪物の血は何世代にも渡って帝国に影響を与え続ける。
怪物の永住が、まだ続く。
無論、生まれてくる子供がすべて親と同じ怪物とは限らない。だがその体に流れる血は紛れもなく、花嫁と、怪物の間に作られた血だ。怪物でなくとも、怪物の血を引く子だ。
存在だけで、充分脅威である。
二〇年続いた戦争を勝ち残った帝国に向かって来る国は、おそらくあと数十年は出てくることはないだろう。アロケインのように代が変われば考え方も変わるだろうが、歴史とは語り継がれているものだ。帝国の脅威を理解していない馬鹿でなければ、そう容易くは仕掛けまい。
そうなると、問題は外ではなく内部の脅威だ。
強国こそ謀略が渦巻く。それこそ臆病なアロケインは、大臣ら忠信と呼べる者達にさえ警戒を配り、寝首を掻かれないかと怯えながら過ごしている。
そしてもしも謀叛を起こそうとする場合、あの怪物は一番利用価値がある。
何せ闘技場の剣闘士――これまでに多くの人を殺した罪で捕らわれた囚人や、他国の戦犯などが束になってかかっても敵わない化け物だ。利用しないはずがない。それこそ花嫁を人質に、自分を殺しに来るだなんて可能性すら出てくる。
さらにそこに子供の存在が出て来れば、自分だけでなく自分の子孫にまで怪物の血に怯える暮らしを強いらなければならない。そんな生活に誰が耐えられるだろうか。
故に花嫁は脅威だ。なんとかしなければなるまい。王の思考回路は瞬く間に、事態の回避について考え始めた。
「【外道】の魔術師殿、その花嫁だが――」
「おいおまえ達」
博士は王の目の前にいなかった。いつの間にかメイド達の方へと向いており、高い身長から見下ろしていた。
見下ろされている二人は姉妹で、おそらく一卵性の双子。獣の耳を生やす髪の色も肌の色も、そして何より顔の形も体躯の形も、すべて同じで見分けがつかない。胸に付けられているネームプレートがなければ、王も判断がつかないだろう。
「おまえ達は何の獣人かネ? え?」
「え、えっと……あの……」
「た、タヌキでしゅ……!」
「ほぉ、タヌキかネ。これは珍しい。人獣は獣の特性が強いために種類は豊富だが、獣人は逆に人の特性が強く獣としての特性がより強い種類が多い。獅子だ狼だ熊だなんだと、肉食獣ばかり見てきたが、タヌキとはまた愛嬌のあるのがいるじゃないか。エ?」
喜々として語る博士の迫力は、初めての人からしてみればかなり怖い。
だがタヌキの獣人姉妹が怯えている理由がそれだけではないことは、博士からしてみれば明白だった。そういう人間はそれこそ厭きるほど見ている。
綺麗な装いの中に隠してはいるものの、手首には自殺未遂の痕跡。それが見えれば大体の想像は着く。博士はそれこそ勢いよく屈むと、姉か妹かはわからないが片方の腕を掴み、袖を捲って想像通りのものを見た。
人獣の男を怪物と呼び、恐れている時点で大体の想像は着くのだ。そもそも彼は自分を雇っていた王の息子なのだから、同じ考え方でも不思議ではない。
(まったく。獣人のメイドがいるから少しはマシかと思ったが、それ以下だったネェ……)
馬を早く走らせるため鞭で叩くように、言うことを聞かせるために彼女らも鞭で叩かれたのだろう。元々黒い肌だが、それでもわかる。古いのと新しいのと、一番最近だと昨日の夜か今朝か、青い痣が腕だけでも数か所出来ていた。
「おい、この双子を貰って行くヨ。タヌキの獣人なんて貴重な個体、逃す手はないからネェ」
「ど、どうぞ構いませんとも! しかしその代わりと言ってはなんですが、あの怪物への花嫁の譲渡はやめていただきたく……」
「馬鹿な。何を言ってるんだネ、おまえは。いつ私の仕事に口を挟めるようになったんだネ。ここにはそもそも奴の依頼を受けて来てるんだヨ? おまえのご機嫌取りのために来てるんじゃあないんダ」
「し、しかしあの怪物は危険です! 万が一にもこの国を脅かす存在を、それこそネズミのように生まれると――!」
「国が危ない、か? それとも自分の首が危ない、か?」
博士は王に詰め寄る。王は無様に後退し、花壇に躓いて土の上に尻餅をついた。博士に上から見下ろされて、それこそ喰われることを想像してしまった獣の如く震えている。
「今おまえはこの双子が取られるとなっても躊躇しなかったネェ。私が彼女の腕を捲った時点で、私が痣を見たのはわかっただろう? なのに躊躇しなかった。おまえは私が彼女達を殺してその血と臓物、皮から肉から骨から何まで研究に使う。だから問題はないと考えたのだろう?」
「おまえ、私を誰だと思ってるのだネ? 【外道】の魔術師でもなんでも好きに呼ぶのは構わないが馬鹿にするんじゃあないヨ。獣人だから殺す、人間だから生かすなどと決めつけたことはナイ。この国を救ったのは種族などという枠組みを超えて作られ、生まれた命の集合体ダ。それこそおまえ達が恐れ、怪物の異名で呼ぶ人獣など容易く殺せる怪物達なのだヨ」
「命の利用価値について語るには、それ相応の資格がいる。命を利用するからには、それ相応の覚悟がいる。国を救った怪物達の制作過程も知らないで、よくもこの私に作った命を殺せなどと言えたものだネェ」
「も、申し訳ありません……」
王は震え続けている。だがそのずっと後ろで、獣人姉妹の震えは止まっていた。他のメイドも、思わぬ事態にどう反応していいのかわからず困っているが、震えてはいない。
帝国を護るためにありとあらゆる命を使い、ホムンクルスの軍団を作り上げて他国を滅ぼす勢いで殺し尽した【外道】の魔術師。それは事実で、故の通り名であることは間違いない。
だが彼は人の道を外れただけであって悪魔ではなく、無論神ですらなく、王でもない。
故に人としての常識は通用せず、持ち合わせてもいない。
でもだからこそ、種族による差別もない。
天使でもなければ悪魔でもない。人間の枠を超えた【外道】という怪物が目の前にいるというのに、メイドらはどことなく安心感を感じていた。
「ではこいつらは貰って行く。私の仕事に二度と口出しするんじゃあないヨ」
姉妹の襟に隠れていた首輪を掴み、立ち上がらせる。同時、どのような魔術を使ったのか首輪を外し、戸惑う二人に「さっさと来ナ」と急かしてあっという間に連れて行ってしまった。
何もできず、震えるだけの王にもはや貫禄はなく、メイドらも向ける視線の色が変わる。
ただ震えながらも王は未だ、自らの命と立場を護る方法を必死に考え、思いつこうとしていた。
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