「禍を転じて福と為せ」

 わざわい

 わざわい

 災い。

 わざわい。

 ワザワい。

 死の奥底、冥府を司るこの絶唱を、人々は形を変えても尚そう呼び続けた。

 我の行く先に殲滅はあれど戦いはない。

 我の行く先に全滅はあれど諍いはない。

 人々は我に歯向かう術もなく、ただ死滅するだけの生き物だ。

 故に信じられぬ。我もまた、かつてはただ死に逝くだけの人の子であったということを。

 母の顔は知らぬ。父の顔も知らぬ。

 ただ我は生まれ出でて、掃き溜めのような場所で育ち、人としては扱われぬままに生きてきたことだけは記憶している。

 そう、我は俗にいうスラムで生まれ育ち、その声で人々に癒しを与えてきた。

 我の声に、人々は天女の歌声と賛美を送った。

 それがどのような類の民間療法だったのかは知らないが、しかし素晴らしい歌声には人を癒す力があるのだという。

 幼き我の歌はまだ拙い練習曲エチュードであっただろうが、次第に多くの歌を覚え、多くの言葉を覚え、我は歌によってスラムの人々を癒してきた。

 母もない、父もない。

 星より産み落とされた子供として、我は崇拝された。

 それこそ我を中心とした教団が形成されそうな勢いで。

 しかし我は未だ人の子であった。我にも抗えぬ力があった。そのとき我は、まだ人の子であったが故に。

 我は勝てなかった。我は救えなかった。

 我の歌声は、誰の心も体も救えなかった。

 スラム全体を襲った大規模な疫病災害は、我らの体を悉く蝕んで多くの命を散らして逝った。

 だからなのだろう。それ故なのだろう。

 人々は我を本物の神祖に仕立て上げようとした。我を神の子にしようとした。

 体に幾重もの魔術刻印を刻み、数々の魔術を行使して我を神祖に仕立て上げようとして、我という怪物が生まれた。

 スラムを苦しめた災厄を、我自らが取り込んだ。

 皆も、そこまでは計算の範囲内だったのだろう。

 しかしその後、など、誰にも想像できていなかったに違いない。

 我という怪物を――いや、我という災禍の化身を生み出してしまったのは、他でもない彼ら人間だという事実を、彼らは受け入れることができなかった。

 我自身が瘴気を放ち、我自身が疫病となり、我の歌声が鎮魂歌レクイエムと呼ばれるようになったのは、彼らのエゴだというのに。

 我の歌声に、そもそも人を癒す魔術など存在しなかった。

 我の歌声はただ、人を精神的に癒すだけのもので、治療するようなものではなかった。

 心を癒すことはできても、病そのものを治す能力などなかったというのに。

 我の歌声はただ、人々を癒す。人々に、一時的な至福を与える。それだけでよかったというのに――

 我は災禍。

 災禍となってしまった。

 我にとて欲はある。食欲に従って喰い、睡眠欲に従って眠る。

 ならば性の欲とて存在し、誰かの温もりを求めることだってあるが、我は疫病となってしまった災禍であり、我の瘴気は人々を狂わせる。

 人々の魔力は暴走し、自我を保つことすらできない。

 それこそ、我と同じ怪物か、そもそも人でない存在でない限りは。

 我は、誰かと会話することすらままならぬ。

 災禍たる我と会話をしようとする者すら、そもそも存在せず。

 時折人が舞い込んで来れば、皆が剣を持ち槍を持ち、弓を番て銃を向ける。我と、対話を試みてくれる者など、もはや存在しないのだろう。

 我を、一個の命として見てくれる存在は、もういないのだろう。

「ならば与えてやろうじゃないカ。おまえをおまえとして扱ってくれる、特別な存在という奴をサ」

 その男は我を見上げてそう言った。まるで我を見下し、保護区の動物でも観察するかのような眼差しで、我と対面してくれていた。

 我はもはやそれだけで嬉しかった。

 我と対峙ではなく、対面して話してくれる。それだけで我の心は満たされた。

 だというのに、彼はさらに我に番を用意してくれるとまで言ってくれた。

 我は歓喜した。涙こそ流せない体になってしまったが、しかし我が心は歓喜の中で震え、涙し、嗚咽さえ漏らしていたかもしれない。

 我は歓喜していたのだ。これでもう、一人ではなくなる。そう思っていたが、道のりは遠いのだとすぐに知った。

 最初の花嫁は我を恐れ、我の瘴気に忽ち呑み込まれた。

 次の花嫁は自らの炎で自らを焼き、拒絶してしまった。

 その後もその次もさらにその次も、我と対面してくれる者は現れなかった。

 それこそ、我は諦めさえした。我と共にいてくれる存在など、もう現れはしないのではないかと。我は諦めたのだ。

 だがあの男は、決して諦めようとしなかった。

「馬鹿だネェ。この星に一体何億の命があると思ってるんだイ。さらに言えば、我々は新たに造ろうとしているのだヨ? 出会って別れてを繰り返し、結ばれたとしてもやっぱり違うと別れる人間が多いというのに、数十回失敗した程度で何を泣いているのだネ。私が今に作ってやるから、待っているんだヨ」

 これは私の戦いでもあるのだからネ、とも言っていた彼との付き合いは、そこから確かに長くなったものだ。今だって続いている。

 彼は言っていた。

――禍を転じて福と為すことができるのなら、災禍となったおまえは福となれ。それがおまえの幸せなのだからネェ

 と。

 なるほどもしもそれが可能ならば、不幸中の幸い。禍も転じれば福となすことができるのだと、体現できるわけだ。

 そういう意味では、我は唯一無二の存在となれるのやもしれない。

 我の番となれるその者は、唯一無二の存在であってくれるのかもしれない。

 そう思うと我は心が弾んだのだ。両親の愛情も知らない我が、愛情を知ることができるやもしれぬと、淡いながらも期待を抱いたのは嘘ではない。

 我は願った。我は懇願した。

 我は世界の何を敵に回しても、世界の理すら外れたとしても、どうしても、愛というものを獲得したかったのだ。

 愛とは難しい。愛とは、この手に掴めそうでしかし掴めない。

 愛とは、一体――

「こんな場所に、あの男以外の客とは、まさに珍客よな」

「そうか? そりゃあそうだろうな。俺は何せおまえを狩りに来た、しかしておまえと対峙するに値する者だ。俺の名はルックス・ペンドラゴン。世界は俺を天才と呼び、【神童】と称する」

「して、その他称【神童】が我を狩ると?」

「その通り。何、国が多大な懸賞金を掛けているというのに、一向に進展する気配がないのでなぁ。後輩達に手柄をやろうと思っていたのだが、俺が出るしかないらしく、こうしてわざわざここまで来た次第だ」

「なるほど我が瘴気に当てられて平然としている辺り、ただの人間ではないらしい。しかし我を狩るなどと、傲岸不遜もいいところ……我が災禍と成り果ててから幾年月、我に傷一つ付けられた者はない」

「そうか。ならばその武勇伝も今日までの話。俺という天才かつ神童によって、今日おまえは倒される運命にある」

「汝がどれだけの魔術師であろうと意味はない。我は災禍にして、魔導の深淵、その奥地。それそのものであるぞ」

 一方その頃、天空の施設。

 外道の魔術師は再び研究室に籠り、ホムンクルスの作成に労力のすべてを費やしていた。

 オレンジへの龍族血液投与実験は、投与だけを終えてあとは経過待ちとなった。

 普段は投与直後も様子を見るのだが、最近は大きい変化もないせいか、ホムンクルスの作成に忙しい博士は特別何もしないままに部屋に籠ってしまった。

 最初こそ喉の渇きから始まり、嘔吐、食欲喪失、発熱などの症状があったものの、この頃の彼女の容態はとても安定していて、特別措置を施す必要もなかったのだ。

 とはいえ、扱いをおざなりにされると少し不安にもなる。

 オレンジはわずかに、自分への興味が尽きたのではないかという不安に駆られる。

 しかし青髪ら他のホムンクルスが励ましてくれて、オレンジはいつも通り家事に勤しむこととなった。

 雲の上なので極寒の冷気に晒される洗濯物は、屋上に干すと何故かよく乾く。

 青髪らホムンクルスもよくは知らなかったが、おそらく博士が結界か何かを張っているのだろうとのことだった。

 故に太陽光のみをよく通し、よく乾く。

 オレンジもそうだが、青髪はよく屋上で昼寝をしていた。

「気持ちいいねぇ……」

「そうですね」

「オレンジもちょっと休んだら? 突然倒れられても困るしさぁ」

「青髪さんも、風邪治ったばかりなんですから。少しは温かくしてください」

「もう充分温かいよぉ」

 とは言っているが、春に入ったということもあってこの頃のホムンクルスらの装いは薄くなって――唯一、金髪の全身甲冑だけは変わっていないが――青髪に至ってはへそ出し足出しの露出の増えた装いに変わっていた。

 病み上がりなのだからもう少しちゃんとした服を着て欲しいと思うところなのだが、自分のファッションを曲げたくはないらしい。

「オレンジも次下界に降りたときは服、買おっか。いつまでも同じ格好ってのもねぇ」

「い、いえ……私は別に、赤髪さんみたいに意中の方がいるわけではないですし。青髪さんや黒髪さんみたく、スタイルがいいわけでもないですし……」

「オレンジはこれから成長するんだよ。僕らにはないからなぁ、そういう肉体的な成長っていうのは」

「紫髪さんとか、まだ成長するかと思いますけれど」

「そだね。ただ僕らは、体の成長はあまり見込まれないんだ。元々薬品で作られた体だから、人と同じ成長はあまりしないんだって」

「つまり……?」

「僕らは、人間みたいな年の取り方をしないってこと。人間みたいに歳を取って、背が伸びたり、おっぱいが大きくなったり、シワが増えたり、そういう人間の成長をほとんどしない。だから博士は言うよ。僕らホムンクルスが受け入れられるのは、最初だけだって。歳を取れば取るほど、一緒にいればいるほど、その異質さに気付いて行く」


「僕らが、人間じゃないってことに」

 青髪の言葉は重かった。

 自分達はホムンクルス。人型であって、人間ではない。

 おそらく幾度となく、同じ境遇を見てきたのだろう。

 花嫁はあくまで代用品であって、彼女達本人ではない。そのことは、博士自身依頼人に幾度となく突き付ける現実だが、彼らがそれを実感するのは数年、数十年先の話なのだ。

 そのときはそれで構わないと思っていても、どれだけ彼女達を愛していても、いずれ気付く。

 自分達が花嫁にしたのは、かつて愛していたその人ではなく、その人の皮を被った化け物であるという事実に。

 彼女達が人間ですらないという事実に、彼らはとてつもなく遅れたときに気付く。

 青髪はそれを幾度となく見てきたのだろう。

 言葉の最後の一音に、耐えがたい現実の重さのすべてが圧し掛かっていた。

 認めざるを得ない事実が、受け入れがたい現実が、一句の一言の一音の、ほんのわずかに籠められているのを察したオレンジは、なんとも返せなかった。

 気付いた青髪は「ごめんごめん」と体を起こす。

「重い話になっちゃったね。でもこれからきっと、そういう場面にも出くわすと思う。だから覚悟しておいた方がいいかもしれない。でも大丈夫、君にはきっと、素敵な恋が待っているはずさ」

 青髪はそう言ってくれたけれど、オレンジは不安を抱いた。

 それこそ自分には記憶がない。

 何者なのかもわからない。

 自分こそ人型の化け物なのかもしれないと、思ってしまう瞬間は否めない。

 青髪や赤髪や、緑髪や黒髪や、金髪や銀髪や紫髪とも違う形の怪物かもしれない。

 そうだという証拠はないが、そうではないという証明もできない。

 自分は一体何者で、どこで生まれてどのようにして生きていたのか。それを知ったとき、果たして自分は受け入れられるのか。周りは受け入れてくれるのか。

 不安で仕方ない。

 だけど自分にできることなんて何もなく、今はただ炊事に勤しむことしかできない。

 もしも自分の正体が怪物だったそのとき、果たして皆は受け入れてくれるのだろうか。

 そのとき、博士はなんと言うのだろうか――

「オレンジ! すぐに支度して!」

 と、青髪が舞い戻って来た。

 慌てふためいた様子で、予期せぬ事態が起きたと見える。

 洗濯物を取り込むのをやめ、すぐさま青髪と共に出入り口へと駆け降りると、他のホムンクルス全員に博士までもが集結していた。

「ど、どうしたんです、か……?」

「出勤だヨ」

「出、勤……?」

「災禍に指定されている奴が街へ降りたと連絡があったからネェ。私も責務を果たす必要がある。ま、死体が大量に手に入るからいいけどネェ。国自体に滅びられても困る。そういうわけだ、おまえも来るんだヨ、オレンジ」

「わ、私も、ですか……」

「当然だろう。おまえはもう充分戦力になれる。だから剣も持って来たんだろう?」

 確かに何か一大事だと思ってわざわざ取りに行ったが、災禍と呼ばれる相手に自分が役立つとは思えない。

 不安は募るばかりだ。

「ぐずぐずするんじゃあないヨ。おまえは大事な実験体だ。死に場所を与えるつもりなど毛頭ないんだからネェ」

 相変わらずの博士の言い回しは、安堵を誘うようなものではない。

 やはり不安は募り、積もっていく。

 それでも断ることはできず、オレンジは災禍の暴れる街へと降り立った。

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