「おまえの心を打てたのか」
鍛冶屋アポロの朝は早い。
彼の朝はまず、釜戸の火を焚くところから始まる。
薪にしているのは皇国を覆う森の木々で、燃やすと橙色の温かな火を灯す。
鉄をドロドロに溶かすほどの高温にまで燃え上がるのは時間がかかるため、アポロはずっと火を見つめる。
火の色合いが変わる頃合いを見計らって薪を
背後に誰かいるとわかっても、一切目を放さない。
火の色は鍛冶仕事をする上でとても大事なものなのだと、人間から教わったからだ。
「よぉ。また随分と、珍しい客が来たもんだ」
振り返らずとも、アポロには背後にいる人が誰なのかわかっているようだった。
いや実際、アポロは背後にいるのか誰だかわかっていた。
しかしそれでも、もっと違う反応があってもいいはずである。
何せ背後に立っているのは、もう二度と自分の背後に立つはずなどない、今は亡き婚約者なのだから。
水を模したデザインの、たくさんのフリルが波打つ青いウエディングドレス。
水色のヴェールの下で光る黄色の双眸で、優し気な微笑を湛えて彼を見下ろしていた。
「今日は冷えるからなぁ。ここにいな。そのうち、あったまるからよぉ」
互いに、会話はない。
アポロは絶えず火の色を窺い見て、花嫁はアポロを見下ろしている。
アポロも花嫁もその場から、視線すら動こうとしない。
しかし会話がないだけで、アポロの口数は多かった。
花嫁は、ずっと静かに頷いたり、微笑を湛えるばかりである。
「憶えてるか。おまえ、突然俺のところによ、好きになっちゃいましたって、わざわざ言いに来たんだぜ? あんときは、初めての客かと思って心臓バクバクしてたのに、まったく、勝手な奴だなって思ったよ。だから俺ぁ、迷惑だって断ったよな。そんときのおまえのガッカリ顔、よぉく憶えてるぜ」
「そうしたらおまえ、ここに通いだしたよな。毎日毎日、俺の後ろで俺のことずぅっと見てるからよ、最初は邪魔だったんだが、気付けばおまえがいるときの動線の方がスムーズに動けるんだ。今だって、おまえがいる場所は避けちまうよ。調度、今おまえがいるところだ」
「おまえは俺が、熱意に弱いって知ってたのか? お陰で俺は折れて、おまえに付き合った。皇女様が国から出るわけにはいかねぇって、国中歩いたよなぁ。同じ場所ばっかり歩いたのに、おまえは毎度毎度、新しいものを見たような反応で、お陰で退屈したこたぁなかった」
「だから俺は、おまえがプロポーズしてきたとき、オーケーしたんだ。おまえといると、ずっと退屈しそうになかった。おまえと一緒なら、どこでも楽しくやれそうな気がしてた。おまえなら、俺と一緒にいてくれる、そんな気がしてたから」
「それは、私も同じです」
ここでようやく、二人の会話が成立した。
水色のヴェールの下で、彼女は微笑を湛える。
同時、瞳からは小さな雫が一筋、零れ落ちた。
「貴方を初めて見たとき、貴方はここで黙々と鉄を打っていました。おかしな人だなと思っていたけれど、毎日毎日鉄を打つ貴方の姿に段々惹かれて、気付けば毎日通っていました。だから必然だったの。唐突ではなかったの。私は、一生懸命に鉄を打つ貴方の姿を、好きになってしまったの」
「だから交際を申し込んで断られたとき、とてもショックだった。でももう告白もしてしまったし、踏ん切りもついてしまって。だからまずはお近づきにならなくちゃと、毎日通って、毎日話しかけた。それでもなかなか振り向いて貰えなくて、とても悲しかったけれど、貴方は次第に、振り向いてくれるようになった」
「交際が始まって、私には世界が変わって見えた。普段何度も通っていた道だって、何回通っても私にとっては花が咲いていたし、何度食べたご飯も私にとっては新鮮だった。日々を重ねる度、時間が経つごとに、私はますます、貴方を好きになっていった」
「だからプロポーズを受けてくれた時、私は本当に幸せだった。これからの毎日が、今まで以上に色彩豊かで、味わい深くて、とても楽しいものになるのだと思ったら、私は、それだけでもう、幸せだった」
「だが、俺はおまえを幸せにできなかった」
アポロは思い出していた。
彼女の葬式に参列した日、ものの見事に大雨に振られ、悲しみから傘を差す気力すらわかず、ずぶ濡れになっていた。
目の前には漆黒の棺桶。
中には、国民から送られた大量の花々に抱かれて眠る彼女。
棺桶を抱き締めるようにして泣きじゃくるのは、義理の妹。
自分の代わりにワンワンと泣く妹に、義理の兄たるアポロはかける言葉が見つからない。
ただひたすらに沈黙。黙るしか、できなかった。
「おまえが病に苦しんでいても、俺には何もできなかった。薬を買ってやることも、治す方法を見つけることも、何も……俺はただ、鉄を打ってただけだ。ひたすらこの工房で、売れるはずもねぇ鉄を打ち続けてただけなんだ……俺は……おまえを幸せになんて、できなかった」
「いいえ、私は幸せだった」
花嫁は首を横に振る。
「最期に、約束をしてくれたじゃない。貴方はそれを、今も守ってくれているのでしょう? だから、私は今も幸せなのよ」
「そうだ。おまえはそう言って、ずっと俺を励ました。病気にかかってるのは自分だってのに、俺を守ってくれてたんだ。だから、だからよぉ……約束を守るのは、当たり前なんだよ。俺が! 俺がおまえに与えるべきだった幸せは、もっと――」
――そんな悲しそうな笑みを、おまえにさせるものじゃねぇんだよ
しかし言葉は遮られた。
炎の色の変化を見逃したことに、気付いたからだ。
薪がすでに燃え尽くされて、火の勢いが弱まっている。
アポロは急ぎ、新たな薪を焼べて息を吹き込んだ。
すると花嫁から、吐息が漏れる。
「貴方はまさに、私にとって風だった。私という炎を燃え上がらせてくれる、命の風。貴方は私という炎を使って鉄を叩き、素晴らしい作品を作ってくれる。貴方は、私にとっての風だったの」
ヴェールを被るため、折りたたまれていた花嫁の耳がゆっくりと立ち上がる。
ドレスの下に隠れていた長い尾が、ドレスの裾を持ち上げて顔を出して、おもむろに揺れる。
「私は幸せだった。貴方という風を受けて、私という命を燃え上がらせることができた。病に負けることのない気持ちで、病と向き合うことができた。だから、責める必要などないの。許していいの。他の誰でもない、貴方自身を」
「それが、おまえの言いたかったことか?」
「えぇ。貴方が未だに鉄を打ち続けていると言うから、その姿を見たくて。そして、お礼が言いたくて」
「ありがとう。私を幸せにしてくれて。そして今、妹まで幸せにしようとしてくれて。私はもう……何も、言い残すことなんて、ないの。ただちょっとだけ未練があるとすれば、貴方が私のことを、名前で呼んでくれたことが、なかったことくらいかな」
アポロは頭を掻き回す。
頭を覆っていたタオルを取ると、花嫁に背を向けたまま、汗と一緒に涙を拭った。
「なんだよ。名前、呼んで欲しかったのか……」
「当然。愛する人から、下の名前で」
あぁ、そうだったのか。
ならいくらでも、いくらでも呼んだのに。
そんなことにも気付かないで、ずっと鉄ばかり打っていた。鉄とばかり向き合っていた。
結局、また自責の念に駆られるばかりだ。
男ってのはどうしても、察することにあまりにも疎い。
「アルトリア」
薪の割れる音が、二人の間で残響となって響く。
火の焼ける音が、短く、細かく鼓膜に届く。
そんな静寂の中で放たれたただの一言は、花嫁を涙と笑みで彩った。
「ありがとう。私をアルトリアと呼んでくれて。そしてごめんね。私じゃないアルトリアを、そう呼ばせてあげられなくて」
「礼を言うのはこっちだ。ありがとよ、俺にあいつの名を呼ばせてくれて。俺にあいつを、与えてくれて。だが返すぜ。俺は不器用でな。一つのことにしか、一人だけにしか、向き合えねぇ」
「そうだったね」
「だから私は、貴方を好きになったんだわ、アポロ」
鉄を打つ音が響く。
男はただひたすらに、鉄と向き合う。
その背を、緑髪は眺めていた。
そこにはたった一人で、人間の冴えたる技術と、一本の鉄に向き合う男がいた。
「よぉ、ティー。今度はおまえか。っていうかおまえか? 俺のとこにあんなの寄越したのは」
「正確には、私の主が作った。不満だったか?」
「いいや、むしろ感謝してる。だがもう、やめてくれ」
アポロは側にあった布に包まれたものをノールックで投げる。
緑髪が受け止めると布が剥がれて、一本の剣が姿を現した。
「俺のお客様第一号だからな。最高傑作に仕上げておいた。無論、最高傑作は今後も更新する予定だが? 今のところはそれが一番だ」
「そうか……代金はいくらだ。支払おう」
「何言ってやがる。あれは先払いってことだろ?」
「……アポロ」
アポロの手が止まる。
鉄を叩いている最中で、彼の手が止まったところを見たのは、少なくとも緑髪は初めてだった。
「彼女は、おまえの心を打てたのか?」
アポロは黙る。
ただ汗を流し、鉄を睨む。
燃え盛る炎が唸る中、アポロは静寂を打ち破らんとして、大きく槌を振りかぶる。
「だから今、俺は鉄を打っている」
「そうか……この国の皇帝とうちの魔術師が、取引相手になった。また会うこともあるだろう。それまで、これは使わせてもらう」
「おぉ、持ってけ持ってけ! 次ぎ会うときにゃあ、もっとすげぇの作っといてやるからな!」
「ではな……幸せになれ、友よ」
「てめぇもな、ダチ公」
皇国と博士の取引が成立したことで、皇国は少しずつ、同族の奴隷を取り戻していくこととなる。
同時、博士の作る獣人、人獣のホムンクルスをも受け入れ、国は少しずつ大きくなっていくのだが、まだまだ先の話。
だが皇国の皇女が、しがない鍛冶屋と結婚したという話が緑髪の耳に届くのはそう遠くない話。
同時、見捨てられた樹海に虫を操る強大なモンスターが住み着いたという噂も聞いた。
まさかそれが、すでに死んでいるはずの第一皇女のホムンクルスだとは、誰も思うまい。
そして誰も考えないだろう。
かつての恋人と愛する妹の平穏を人間達の手から護るため、彼女自ら、博士と取引し、自ら寿命を縮める禁忌に身を染めたことなど。
だが緑髪も知らない。
彼女――アルトリアが決心した理由を。
まさかアポロが別れる時に打っていた鉄が、妹の指輪だったのだなどと、気付くことはない。
だが緑髪は言い切る。
魔蟲の姫君は、確かに彼の心を打っていたのだと。
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