「ただそれだけの願いのために」

 そろり、そろり。

 博士に花嫁を追えと命じられた人見知りな金髪は、最下部の出入り口へと赴く。

 自分が逃走経路を教えてしまったのだから仕方ないことだが、当然の如く彼女が飼っているモンスターがいなくなっており、花嫁がモンスターに乗って地上へ降りていってしまったことを語っていた。

 他のホムンクルスも出払っているため、モンスターは博士の狼しかいない。

 だが博士にしか懐いていないこのモンスターを乗りこなせる自信はなく、金髪は下界の術がなくて途方に暮れる――などと思った者がいれば、それは間違いである。

 始めに言っておくが、ホムンクルスに飛行能力など搭載されていない。

 故に金髪は飛べるわけではない。

 だが金髪は盾を持ち、二、三度深呼吸を繰り返した直後に、一切の迷いなく施設から飛び降りたのだった。

 ごぉう、

 っと風が装甲の隙間を吹き抜けて、体の底から肝を冷やしていく感覚を味わいながらも、気恥ずかしさの方が勝って、金髪は一切悲鳴を上げない。

 無言のままに雲を突き抜けて、盾を地面に構えた状態のまま重力加速度に身を預けて落ちていく。

 渡りの途中である鳥の群れが彼女を避ける。

 空気との摩擦で盾は若干熱を持ち始めた。

 甲冑の重さを合わせ、百キロを超える超重量級の人型物体の落下は、空を見上げた人々の誰もが目を疑う光景と化していく。

 それはまるで流星が如く、青白い熱を帯びて落ちてくる。

 盾を常に前にかざした状態のまま、自由落下してくる鎧の騎士など誰も予期できているはずもなく、国中が騒ぎになった。

 それこそ、貴族クロムウェル家にまで伝わるほどに。

「あの外道め、何をし始めた!」

「わかりません。ですが鎧の騎士は森へと落ちました。あそこには今、レゲノム王子が……」

「あのお方の身に何かあれば、我々の首が落としかねん! すぐさま向かうぞ!」

 本人が知れば卒倒、もしくは自決してしまいそうになるほどに、騎士の落下が国中で騒がれておよそ二分後、騎士は森の中へと落下した。

 森で狩りを行っていた隣国の王子、レゲノムは騎士の落下地点へと馬を走らせる。

 肥えに肥えた太った体を乗せられて、馬は走る度に過度に息を切らす。

 落下地点には隕石衝突並みの衝撃によって木々が倒れ、クレーターのような大きな穴が開いている。

 以前北の国で博士たちが採取した隕石が作ったものよりずっと小さいものだが、鎧と盾の重量もあって相当な深さまで沈んでいた。

「この下にいるぞ。見つけて捕えて来い、おまえら」

 背が低く、丸々と肥えた太い体。

 十人以上の奴隷を飼い、奴隷を孕ませてはその首を斬り落とすという悪趣味な趣向が知れ渡り、見てくれも性格も最悪な王子として、レゲノムは伝わっていた。

 彼はその評判が我慢ならず、最初に自分をそう伝えた新聞記者を殺し、新聞会社を権力で潰したほどである。

 その際、社長の娘を奴隷として買ったのだという噂すらある。

 女と肉と金の三つが何より好きで、興味を持てばそれが手に入るまで金も権力も惜しみなく使って、例え人のものだとしても必ず強奪する野蛮人。

 自分の行いが自分を貶めているというのに、自分が悪く伝わっているのは世間のせいだといちゃもんをつく彼に、家臣も毎度困っていた。

 彼に仕えているのは、金の羽振りがいいからというだけの者の方が多い。

 何より悪いのは、彼の悪行を父である王が黙認していることで、実の息子にとことん甘い王が生んだ、怪物とさえ呼ばれている。

 そんな王子レゲノムの指示を受けて穴に飛び込む奴隷達。

 彼らが言うことを聞くのはやはり、殺されたくないからだ。

 褒美こそ与えられないが、レゲノムの機嫌さえ取っていれば殺されることはない。

 故に彼らは文字通り命を賭けて、穴へと飛び込む。

 レゲノムなど比べ物にならない怪物を相手にしているとは、考えもせずに。

「ん? なんだ」

 大穴に一番に飛び込んだ奴隷の悲鳴が響く。

 その数秒後、おそるおそる穴を覗き込んでいた奴隷の脚を、鋼の腕が握り締めた。

 恐怖で竦む奴隷を引きずり込んで、代わりに鎧の騎士が穴から這い出てくる。

 落下の衝撃のせいか少々フラついており、足元がおぼつかない。

 盾を杖代わりに大穴を上って来る騎士は周囲を見て、自分が注目を浴びていることに恥ずかしさを隠し切れないらしく、誰にも聞こえない声で「大丈夫大丈夫」と呪詛の如く繰り返す。

「モンスターか? 人間か? 空に浮かぶ島から落ちてきた変異種か?」

「さ、さぁ……ともかく危ないです王子! お逃げください!」

「バカを言え。俺はあれが欲しいのだ。あれからは女の匂いがする……甘く香しい女の匂いだ。是非今晩のおかずにしたい……」

 舌なめずりをする王子はニキビ塗れの頬を掻く。

 奴隷の首輪と繋がっている鎖を引いて奴隷に命じる様は、軍師を気取っているようにすら見えるほど太々しく、どこか受け入れがたいものがある。

 無論、そんな腹の内を晒せば、打ち首は免れないだろうから言うことはないが。

「さぁ、おまえたち! あの騎士を捕まえて来い! 捕まえた奴は解放してやろう!」

 王子にそんな気などない。

 ただそう言ってまで、目の前の美しい甲冑に身を包んだ中身が欲しかっただけのこと。

 だが奴隷からしてみればその嘘ですらわずかな希望。

 捕まえれば勝ち取れる自由を求め、死に物狂いで騎士に向かう。

 一方の騎士は自分に向かっている奴隷にどう対処すべきか考えるほど、一応は冷静であったが、何より注目を浴びていることに関しての恥ずかしさが勝って、その思考はどこか疎かな部分が強い。

 そして奴隷が全員、軽装とはいえ武装しているのを見て、騎士は対応を決めた。

「主よ、純潔なる我が身に御身の光を……“騎士道精神キャバルリィ”」

 騎士は静かに、短い呪文を唱える。

 すると騎士から眩い光沢が放たれて、博士から与えられた名の由来たる金髪が兜の下から躍り出た。

 陽光を浴びて、天女が羽織る衣のような美しい金色の長髪に、レゲノムは目を奪われる。

 同時に奪われたレゲノムの心は、彼女を犯したくて、穢したくてたまらなくなっていた。

 彼女の首だけは落とさない。何があっても落とさない。

 そんなもったいない真似ができるものか、あれは俺の所有物だと、彼の心は今までにないほどの跳躍を見せる。

 だが直後、その美しい金髪の騎士から、怪物の一面を見た。

 何十キロあるのかもわからない巨大な盾を振り回し、自分を攻撃してくる斧や剣を粉砕し、それらを振る奴隷の骨をも粉砕し、押し潰し、叩き潰していく。

 遠慮も躊躇も一切ない。

 奴隷という種族を見れば、命の尊厳だとかを理由に躊躇し、その隙にやられる人間は多いものだが、彼女には一切の躊躇がない。

 奴隷も凡人も王族も、すべてを一介に伏すその動きは、まるで無慈悲な災害のよう。

 人の悲鳴も呻きも呑み込み、圧倒していくその様は、まるで一種の獣の如く。

 奴隷を奴隷とすら思っていないのか、それともある程度の慈悲を与えているつもりなのか。

 襲い掛かるすべての攻撃を躱し、防ぎ、盾の一撃で確実に気絶させる彼女の戦う姿は、どこか潔癖すぎる気もして、犯しがたいものですらある。

 レゲノムはそれこそ、感嘆と戦慄とが混じった感情から失禁した。

 奴隷は金髪の騎士に襲い掛かる度胸を失い、馬は王子を落としてまで逃げ惑う。

 失禁王子など誰も恐れていなかった。

 誰も視界にすら入れておらず、金髪の騎士から逃げるばかり。

 レゲノム王子はといえば、自身が失禁したことにも気付いておらず、金髪の騎士の美しさに見惚れて、迫り来る暴力すらも美化して見ているばかりで、ひたすらに固まっていた。

 金髪は奴隷の元締めが王子だとわかって、迷うことなく王子へと直進していく。

「なんて……なんて美しい……あぁ、是非ともその首筋に、胸に、太ももに吸い付きた――」

 王子が聞いた最後の音は、自分の首がねじり切れる音だった。

 だが王子の首を捻り切ったのは、金髪ではない。

 金髪に見惚れる王子の背後から、金髪を超える怪力を以て片手一本で首を捻ったのは、突如現れた赤髪だった。

 痛みもなく、気付くこともなく逝ったのだろう。王子のだぷだぷとした頭は、金髪に見惚れた恍惚の表情のまま、固まっていた。

「キモっ!」と赤髪は汚物を触ったと言わんばかりに投げ捨て、得意の炎の魔術で頭も体も燃やし尽くす。

 脂肪だらけの肉塊は、あっという間に大きな炎となって炭となり、崩れ去った。

「あんた、大丈夫だった? こいつになんかされてないでしょうね」

「だ、大丈夫……赤髪、ちゃん……早かったね」

「探してたモンスターの巣を見つけてね。一網打尽にできたから、早めに帰ってこれたのよ。ってかあんた、一人で外に出るなんて珍しいじゃない。あの外道になんか言われた?」

「は、花嫁が逃げて……それで、追って来た……の」

「花嫁が逃げた? あの外道が逃がすとか、初じゃない? ……まぁいいわ。私も探すの手伝ってあげるから、早く帰りましょう。でないとあの外道、何するかわかんないわよ」

「うん……」

 その頃、花嫁は森を通り抜けていた。

 金髪が周囲の注意を引いていたことで、誰も彼女に気付きもしなかった。

 ドレスには防水や防火などの加工が施されているが、それでも限度はある。

 花嫁の着るドレスはすでに至るところが切れて、泥だらけになって汚れていた。

 花嫁はそんなことも気にせず、ただひたすらに走り抜ける。

 不思議と体力が尽きる様子はなく、息遣いにも余裕がまだ見られる。

 昔は走れば胸や下腹部がキリキリと痛む感覚があったものだが、そんな感覚もまるでない。

 体はどこまでも軽く、まるで臓器も何も入っていないかのよう。

 心臓の鼓動もあるし、走っていることで早鐘を打っているはずなのに、まるで誰か他の人の鼓動を聞いているかのようだった。

 少し不思議で不気味だが、今なら行けるかもしれない。

「……もう大丈夫ですよ。ご主人様の下へ帰っても」

 と、花嫁の背後にはたんぽぽの綿毛のような雲のような、モコモコという表現が正しいくらいに柔らかでボリュームのある体毛の大きな羊だった。

 金髪の飼うモンスターで、トリック・シープという種類。

 体毛は軽く、風を受けるとそれこそたんぽぽの綿毛のように飛ぶことができるほど。

 金髪の飼う羊は人懐っこく、誰にでも引っ付いていく性格だった。

 故に地上に降りた時点で解放されたのだが、人懐っこい性格が故に花嫁から離れず、ついて来てしまった次第である。

 羊の体毛は大きく膨らんでおり、見つかる可能性すらあるため、花嫁としては帰って欲しいというところが本音だった。

 現に今、花嫁は羊の存在によって彼女に発見された。

 金髪の自由落下より遅れて地上に青髪と共に降りた、オレンジだった。

 いや実際、外に出たのは金髪よりも早かったのだが、金髪のように落下したわけではないので、到着が遅れた次第である。

 オレンジの背には、一応儀礼剣が差さっている。

 博士から、両腕両脚までは折っていいとは言われているが、さてどうしたものか。

 さすがに無抵抗の相手の四肢を封じるというのは、抵抗がある。

 とは思いつつ、オレンジはしっかりと隙を窺い、タイミングを計っていた。

 花嫁は直感的にそれを察している。

 オレンジは正直者で実直過ぎて、狙いを隠すというのをしなかったためである。

「……逃がしては、いただけませんか?」

 ダメ元で、花嫁は問う。

 オレンジの雰囲気から、そうしてくれないことは大体想像できていたが故に、半ば諦めていた問いだった。

 互いに次の出方をどうすればいいのか考えて、広がる沈黙の間。

 風が吹き抜けることでざわめく葉の揺れる音、枯れ葉の匂いが突き抜ける。

 と、オレンジが儀礼剣を抜こうとしたのと、花嫁が言葉を紡ごうとした瞬間が重なった。

「待って! やめて! 私はまだ、彼に何も――」

 儀礼剣に刃はない。

 だが龍の血の影響か、膂力が上がったオレンジの殴打は常人の骨など簡単に砕けるまでに強くなってしまった。

 ホムンクルスのそれとまではいかないが、しかしそれに準ずる規模の力を持ってしまった彼女の一振りは、同じホムンクルスの花嫁を沈黙させるに至る。

 腹部を襲う強烈な激痛に耐えかねて、花嫁は若干色素の薄い血を吐血する。

 悶絶するままに倒れ伏した彼女は、指先をぴくぴくと痙攣させたまま、立ち上がる力を起こすこともできずに、浅い呼吸をただ繰り返す。

 うつ伏せに倒れた花嫁をひっくり返して仰向けにしたオレンジは、儀礼剣を収めると青髪を探し始めた。

 花嫁の身長が高くて、小柄なオレンジでは力があっても運ぶのは難しい。

 金髪の騒ぎを聞きつけてそちらに行っている可能性もあるので、とりあえず金髪が落ちた方向を見渡すが、騒ぎは沈黙に伏して何も聞こえないし、何も見えなかった。

「お、ねがい……し、ます……おね、がい……しま、す……」

 聞こえてくるのは、懇願する花嫁のか細い声ばかり。

「私を……彼のところに、行かせて、ください……私を、彼の、ところへ……」

 同じ言葉ばかり繰り返す花嫁。

 どこか打ちどころが悪かっただろうかと、オレンジは少し心配になる。

「彼の、下へ……彼の、ところへ……」

「かれ、とは誰ですか? 私は、その人を知りません。そしてあなたを捕まえてくれと頼まれました。私に、あなたを見逃すだけの権利もありません……だから、彼には合わせられないんです……ごめんなさい」

 静かに突き付けられる現実の、なんと痛いことか。

 だがそれでも、花嫁は懇願し続ける。

 手足さえ動けば、今にも逃げ出してしまいそうなほど、何度も何度も何度も何度も、彼の下へと訴え続ける。

 オレンジには正直わからなかった。

 何故そこまで、彼女の言う彼の側に行きたいのか。

 彼女はすでに一度死んで、母親から預かった肉体は腐り果てていると言うのに、それでも尚仕組まれた結婚を拒んで、痛い思いまでして、何故そこまで、彼の側にいたいと願うのか。

 何故――

「何故……ただそれだけの願いのために、そこまで……」

 つい、言葉になって出てしまった。

 問うたところで、答えてもらったところで、理解などできる自信もないのに。

 だが花嫁は血反吐を吐いて尚、切れる息で尚、言葉を紡ごうとする。

 しかも懇願のためではなく、何も知らない少女の疑問に、応えるために。

「私が、彼に、恋をしてしまったから……誰にも、理解なんてされない、けれど、誰にも、わかってなんて、もらえない、けれど……それでも、私、は……恋を、したから……だから……」

「こい……? 恋、とは――」

 なんだ。

 そう問おうとした瞬間に、余りにも静かな空間に響く音。

 高々と響くのは、ずっと遠くの線路を走る、汽車の汽笛だった。

 同時、それを聞いた花嫁の目から、大粒の涙が滝のように溢れ出して、彼女は苦しみの中、嬉しそうに口角を上げた。

「帰って、きてくれた……」

 花嫁の右腕から、小さな火の粉が上がる。

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