丁章 魅術師の助言――Advice from a Charmer
24. やまと人形の女
「あれ」
浮遊感のあとにきたのは、真っ暗な世界だった。一瞬、重力の感覚が消えて、それで真っ暗闇に落ちた。腰の下に、見えはしないが確かな地の感触。それだけが、落ちた証だ。
いや、ここは真っ暗とは違う。天まで覆う巨大な何かが林のように並び立っていて、日の光が届かない。ただ黄昏の暗さのなかにきりきり、きりきりと何かが蠢く音が絶えなくて、それがぼくの上に積み重なる空気を倦んで果てるほど満たしていた。
「生きて、いるのか」
おのずとそんな言葉が、口をついて出た。
いや、実際には、切れ切れの息の合間に掠れた声を搾り出すのがやっとだった。すつるべというあの灰色の侍にわけもなく斬りつけられてから、そうは時間が経っていないらしい。だがあの侍の姿はどこにもなくて、それどころか、つい今の今までいたはずのあのちっぽけな島は、どこへ消えたのか跡形もなくなっていた。
どうやら、助かったらしい。
まさに九死に一生を得たという状況だが、ふしぎとぼくの頭には何の感慨も湧かなかった。どこか別世界のできごとを見ているようで――言い換えれば、自宅のお茶の間で映画を観ているような気持ちで、今ぼくの置かれたこの状況を見ていた。
そんなことよりも、いまは息が苦しい。
足りない酸素を補おうと必死に空気を吸い込んでいるのに、あまり吸った気がしない。ちっとも楽にならない呼吸をもどかしく思いながら、ぼくは悪態をついた。
「そんなことより、何でこうも息苦しいんだここは。ここはいったい、どこの何て場所だ」
すると目の前に聳えるくろい影から、いきなり人の声が聞こえた。
「あら、どちらさまかしら」
しっとりとやわらかい、魅力的な声だ。それが絶え間ないきりきり音のなかで、いやに涼しげに響いた。
「これは済まない、ここの地主さんだろうか。いきなりお邪魔して迷惑をかけた。ぼくは一姫二太郎、小説家だ。いや、綾瀬晋太と名乗ったほうがいいだろうか」
地主という表現もないだろうが、どこかいままでと別の場所であることは確かだ。そこの住人ならば、少なくともぼくよりはこの場の所有者に近い。第一ほかにいい表現も見つからない上、相手の名も知らない。最適ではないが、それが現時点ではもっとも近い。
すると、今度は斜めうしろから、くすりと笑う声が。これも、きりきり音のなかにあってふしぎと、ちょうどそれだけ上から貼りつけたようにくっきりと聞こえた。
「それはあなたさまに貼られたレイベル。レイベルだけではあなたさまが何処のどなたなのかまでは、分かりませんことよ?」
くすくす、と押し殺した笑い声が響く。どこにいるのだろう。振り向いてみたけど、そこにはただきりきり、きりきりと蠢く巨きくてくろい塔。
それに、この声のぬしはだれだろう。ぼくをからかっているのだろうか。侵入者とみて排除しようとしているのだろうか。それとも、何かほかの意味があってぼくにこんな禅問答めいたことを問いかけているのだろうか。
ぼくは、あたりを注意深く窺いながら訊いてみた。
すると、
「うん、まあ、それはその通りだ。でも、それじゃきみこそ一体何者なんだい?」
「わたくしはわたくしですの。それ以上になにか、必要ありまして?」
ぞくっときた。今度の声は、耳元から聞こえた。
声だけじゃない。あたたかく湿り気を帯びた吐息が、生々しさもそのままに耳に吹きかかる。背中には、空気の皮一枚へだててぼんやりと人肌のあたたかさすら感じられた。
軋みを立てるようなぎこちなさで、うしろを振り返った。
そこにあったのは、しろい日本人形だった。
いや、日本人形と勘違いしてしまいそうな、しろさの美しい女の子だった。うす暗いなかにぼうっとそこだけ浮かびあがる肌が、この世のものでない妖夷を感じさせる。頬のあたりでカーヴするボブの黒髪が、しっとりと水気を含んだようなみずみずしさをもって闇に融けだしている。
背中のあたりがぞくぞく、と震えるのを感じた。
まっしろな肌のなかにぽつんと、絵の具で描いたように鮮やかな紅が浮かんでいる。ぼくの両の視線は、気づいたらそこへ引き寄せられていた。
その朱い紅が、動いた。それが唇であることに、ぼくはようやく気づいた。
「それで、どちらさまですの?」
紅色の唇は、下向きに弧をつくっていた。よく見ると、前髪の下からくりくりと丸い双眸が楽しげにこちらを覗いている。
その瞳に吸い寄せられそうになる。なんとも魅力的な瞳だった。日本人形のようなしろい肌に浮かぶ、つぶらな瞳。筆でていねいに塗り込めたような唇。決して傾国の美女というわけじゃない。でも、それは美女なんて言葉では言い表せないような堪えがたい色気だった。アリスも色っぽいけど、この子の色気はまたそれとも違う。アリスのそれをぼくの理想とするなら、この子の艶やかさは、ぼくの想像の範疇を超えた
はっと我に返ると、女の子は口許を婀娜っぽく歪めたまま、ぼくを見あげていた。
しばらくその瞳を見つめ返していると、女の子は心持ち首を傾けた。ああ、彼女は返事を待っているのかと、それでやっと分かった。
「あ、ご、ごめん。それが実はぼくも、分からないんだ。前にいたところじゃ、神さまのように扱われていたけど」
「神さまですの?」
くすりと、女の子が笑った。ばかにされているようで恥ずかしいが、事実こんなことを言ったらばかにされてもおかしくはない。それが分かっているから、ぼくは頭を掻いた。
「いや、別に神なんかじゃないんだけど、ほかにいい単語がなくて。何せあの世界を創った張本人のくせして世界のことを何も知らないし、みんなは神のように扱うくせに、変なところでは同じ人間のように扱うんでね。どうにも混乱しちゃって」
「あら、まあ」
女の子はまた、おかしそうに笑った。唇に細長い指を添えて、
「それは災難でしたわね」
言葉とは裏腹に、その声にはちっとも労りが感じられない。ウキウキと声が浮いて、楽しさすら感じさせる。
ぼくはちょっとむっとした。人の不運を弄ぶなんて、趣味の悪いやつだ。いったいそんな性悪はどんな顔をしているのだ。そう思って、そいつのつらをまじまじと見つめてやった。そして、そこでまた気づいた。
「あれ?」
と、ぼくは声をあげた。毒気の抜かれたような、中身のないからっぽの声で、
「きみ、前にどこかで会ったことある?」
ぼくはその女の子と前に、どこかで会った気がしていた。
すると女の子はまた、くすりと笑った。
「お会い申しあげたかも知れませんし、お会い申しあげていないかも知れませんわね。でも、どちらでもよくありませんこと?」
「何でよ?」
言っていることは素っ気ないのに、態度はしっとりと、全然素っ気なくない。その温度差に目の眩みを覚えつつ、ぼくは問い返した。
「わたくしがあなたさまにお会い申しあげたことを、どう証明なさいますの? わたくしがあなたさまにお会い申しあげなかったことを、どうお示し遊ばすの?」
「え、どうって、きみが会ったといえば会っただろうし、会ってないといえば会ってないんだろうし」
すると女の子は三たび、くすりと声を漏らした。長くてやたら広い袖で口許を隠すように覆うと、おかしげな笑みの絶えない視線をぼくの顔に送りながら、唐突に言った。
「ルネ・デカルトという方をご存知?」
「デカルト? いや知っているけど、デカルトがどうかしたかい?」
「デカルトさまがお切捨てになったものを、ご存知ありませんの?」
「切り捨てたもの?」
女の子は頷いた。デカルトの切り捨てたものか。デカルトといえば、方法的懐疑によって誤りを含みうるものはすべて排除していった徹底的な懐疑者だ。かれは神を疑い、感覚を疑い、ごくごく単純な四則演算すら疑った。その疑いぶりといったら、およそ世にあるもので、かれの疑わないものはなかったのじゃないかと思えるほどだ。
それで、彼女の言いたいことが分かった。ああと拳を打って、頷いた。
「もしかして、言葉の不確かさのことを言いたいのかい?」
「ええ。わたくしは心からお会い申しあげましたとお答え差しあげるかもしれませんし、偽って、もしくは誤ってそう申しあげるかも知れませんのよ? お会い申しあげませんとお答え差しあげるときだって同じ。ならばお会いしていてもお会いしていなくても同じことではありませんの?」
「だったらぼくが何者と答えたって同じだろう。ぼくが言っていることは、嘘かも知れないし間違いかも知れないんだから」
「あらうれしい。賢くていらっしゃいますのね。おっしゃるとおりですわ」
と、女の子は嬉しそうだ。それなら何のために訊いたのだろう。
すると今度は女の子は、訊きもしないのにひとりでに話しはじめた。口許を袖で隠したまま、上目遣いで、さも楽しそうに女の子は笑う。ぼくの周りをてこてこ歩きまわりながら、品定めでもするかのように絶えず視線はぼくの上にあった。
「でも、わたくしはわたくしがなにものか分かってしまいましたの。ならば、次はわたくしでない方がどなたなのか、それを知りたくはなりませんこと?」
「いやまあ、そうなのかもしれないね。ぼくはまだその段階には辿り着いていないが」
すると、女の子の足がぴたりと止まった。ちょうどぼくの正面、向き合うような位置に差し掛かったところだ。そのままぼくのほうに向き直ると、彼女はほほと笑った。
「これはなんと聡明でいらっしゃいますこと。よく見ればお顔も凛々しくていらっしゃいますのね。いかがですの、わたくしとめおとになりませんこと?」
「へ?」
「めおと、ですの。女に男と書いても、構いませんことよ」
そこだけ別世界のように紅い唇が、わずかに弧を描いた。それを目にしたとたん、ぼくの背筋を、何かむず痒いものが通り抜けていった。彼女の唇から、目が離せない。ぼくの視点は、縫いとられたようにそのくっきりと浮き上がる紅色の円弧に釘づけだった。
そんなぼくに彼女は、そっと体を摺り寄せてきた。ぼくの胸に細い指を添えると、這いあがるように背を伸ばした。もう、たがいの顔と顔が接するような位置だ。その位置から彼女は、斜に構えた視線でぼくを見あげ、
「もちろんめおとですから、夜のことも、ね」
「よ、夜の、こと?」
ぼくは尋ねるが、むろん答えは分かっている。分かっている証拠に、ぼくの股座はこれ以上ないくらいこちこちに硬直していた。
しかし女の子はくすりと笑って、
「あら、おなごのわたくしに二度もかようなことを申しあげさせないでくださいまし。恥ずかしゅうございます」
そんなことを言いながらも、さらにぼくの胸を這いあがってきた。またぼくの耳に、吐息がかかる。ぼくは震えながら、それを堪えた。
だめだこの女、やばい。
何がやばいといって、こんな見ず知らずのぼくに求愛するだなんて、やばい人としか考えられない。いやそんなこと問題じゃない。何なんだこの色気は。やばすぎる。もう色気のかたまりと言ったっていい。いや違う、それじゃ足りない。かたまり? 何を言っているのだぼくは。これが色気のかたまりなもんか。これは、女だ。世の女すべてを濃縮しつくした、女の性がこれだ。男なら抱かずにはいられない、エデンなるイヴだ。
この女を抱きたい。ぼくのアダムが、全霊をもってそう猛り叫んでいる。
だがその一方でぼくの奥底にある何かが、この女はやばいと別の意味で呼びかけてくる。この女を抱くな。抱いたら泥沼に落ちるぞと。抱いたら深みに嵌って、そのまま深淵まで落ち果てるぞと。猛り狂うアダムを押し留めんとして、必死で声を張りあげていた。
そんなぼくの内心を、どう思っていたのだろうか。女の子はいつ手を出されてもおかしくないような、心理的にも肉体的にもそんなぎりぎりの距離で、ひとこと。
「お望みとあれば、いますぐにでも」
くすりという笑みに乗せて、そう、小さく告げた。
ぼくのなかで、何かが切れたように感じた。
ぼくはがむしゃらに女の子の体を抱きしめ、紅く浮かぶ唇に吸いついていた。そのまま日の光届かぬ黄昏のなかに彼女を押し倒し、射精とそこに至るまでの快楽を求めて、ひたすら腰を振っていた。
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