25. 彼女と仕事と
ただいまと言って扉を開けると、見慣れたショートボブの笑顔。ぼくが仕事を終えて帰ってくるときに、いつだってそこにある顔だ。
「おかえりなさいませ。今日はなにをとってお越しでございますの?」
ぼくの脱いだ靴を三和土に揃え、穏やかな笑みでぼくを見あげる彼女は、あの彼女だ。想像を超える
けれども、新鮮味とはまた別の何かが、代わりに芽生えていた。
「よく分からない。けれど、前に食べたものと同じだからこれは食べられると思う」
部屋のあかりに照らしてみると、うす暗いなかをあちこち歩き回ったぼくの衣類は汗と泥とで汚れていた。このままでは気持ちが悪いのでぜんぶ脱ぎ、丸めて洗い物桶に放り込んだ。そのまま湯を浴びて汗と汚れとを落としたら、あがって着替えてちゃぶ台の前へ。これで今日の仕事は終わりだ。
仕事を終えてひとっ風呂浴びて、ちゃぶ台の前で彼女の持ってきたお茶を一杯。この瞬間がぼくのもっとも落ち着く瞬間だ。このうす暗い世界に落ちてきて何日何か月経ったかもよく分からない。ただ、ぼくからこのうす暗さを忘れさせてくれるのは、部屋のあかりと彼女のお茶だ。たまにはウィスキィも飲みたいが、ここに来てからこれまでそんなものを拾えたことはなかった。
この拾うという作業が、ぼくの仕事だ。
この世界でぼくは、彼女のほかにだれとも会ったことがない。第一家の外は暗くて、山のような何かが無数に聳え立っていること以外よく分からない。ただ下を見て歩いていると時々何かが落ちているのを目にする。がらくたや何に使えるかも分からないものも多いが、食べ物や薪になりそうなものも結構落ちているので、来た道のりを忘れないように気を付けながらそれらを拾い集めていく。
ぼくと彼女は、ひとつ屋根の下で暮らしていた。
何しろほかにだれも見つからない上、彼女はぼくよりもこの辺りに詳しい。ぼくとしてはひとり彷徨い歩くよりも、彼女と一緒にいるほうが安心だった。
そう、安心なのだ。
外は暗い。どこに何がいるかも分からない。いないのかも分からない。どちらに行けば何があって、どちらに行ってはいけないのかも分からない。闇のなかを道案内もなく、旅仲間もなく進む旅はこの上なく不安だ。目の前なる闇から何が降りかかってくるか分からないし、あの黒く聳える山がぼく目がけて襲いかかってくるかもしれない。いやむしろ、底の見えない闇へといまにも吸い込まれるかもしれないと思うと足がすくむ。
ぼくらが夜行性の生きものだったならばそんなことはないのだろうが、現実はそうではない。ぼくはこの闇がこわいし、それに仮にぼくが夜行性だったとしても、同じことだろう。ぼくは闇を恐れないかもしれないが、かわりに煌々と明るみのなかに曝しだされることを恐れる。物陰にひそみ、ぼくをつけ狙っているかもしれない不可視の天敵の視下にさらけ出されることをこそ忌め。
とにかく、ぼくはこの暗闇がこわい。
だがその暗さは四方を壁で囲って天井で蓋をしたぼくらの家までは入ってこないし、灯りを消せば外以上の闇がぼくらの室内を支配するとはいえ、となりに彼女がいれば暗さはそれほど気にならない。それどころか互いに肌を合わせる時は、雰囲気を出すために灯りを消すことすらある。また部屋の窓から漏れる灯りは、外にいる間もぼくの道標になる。その灯りを見失わない限りは、どこにいてもぼくはその灯のもとに帰りつける。
生活に必要なしごとは、彼女とふたりで分担している。外に薪や水や食べ物を探しに行く仕事はふたりで分担してやる。家と生活の維持では、ぼくは洗濯と大工しごとを、彼女は掃除と炊事を受け持つ。
「ふう」
ありあわせの布でつくった座布団の上でお茶を煽ると、おのずとそんな吐息が漏れた。
不快なものではない。むしろその日の疲れが一度に出て行くような、心地よいものだった。
「今日は随分とお疲れでございますのね」
「ああうん、目ぼしいものがなかなか見つからなくてね。それといつも言っているけど、ぼくに敬語はいらないよ。おたがい距離を取りあう仲でもなし、ふつうに接してくれればいい」
長いこと一緒にいる気がするが、彼女は今でもぼくに敬語を使う。ともに寝起きし、ともに暮らし。同じ釜のめしを喰らい、おなじ臥所で肌を重ねる。ぼくはもともと人とそんなに距離をとるほうじゃないが、ぼくじゃなくたってそういう相手とは距離をとるまい。
だが彼女はぼくのごはんを椀に盛りつつ、ふふと笑った。
「これがわたくしのふつうでございますの。そんなこととっくの昔にご存知でございましょう?」
「いやまあそうだけどね。ぼくときみとは夫婦なのだし、気を遣ってくれなくてもいいよと言いたいだけさ」
「わたくしが敬語を使うのはおきらい?」
ごはんを盛る手を止めて、ぼくの目を見つめてくる。笑みを湛えてはいるが、わずかに竦んだ肩と、寄った眉根がそれとは違う感情を訴えかけてくる。
ああ、しまったと、ぼくは彼女の肩を抱き寄せた。
「そんなことはないよ。むしろ好きなくらいだ」
「うれしい」
ぼくの胸に顔をすり寄せてくる彼女をいっそう強く抱きしめ、ぼくも首をかしげて彼女に頭を寄せる。
しばらくそうしていたが、ふと上目遣いに彼女がぼくを見ていることに気づいた。
おのずとぼくの目と、彼女の目が合う。そしておたがい合うのは、目から唇に。それから湯呑を握っていたはずの手が、彼女の肩へ、そして胸へと向かう。
「あ、いけません。お食事が」
「いいんだ。今はきみが欲しい」
か細い腕でぼくの胸を押しのけ、逃げようとしてみせる彼女を強く抱きもどすと、すぐに抵抗は収まる。その手はなおもぼくの胸にあるが、肘は曲がったままでほとんど力は入っていない。
そのまま床へともつれ込んだ。
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