16. あきんどのおしごと

 船旅というのも、乙なものだ。ガレオン船というのは思いのほか速くて、調子いいときには六ノットも出る。丈が高いから風が気持ちいいし、帆柱が高いから見ていて趣深い。時化も事故もないから順調に進み、およそ二ヶ月ののちにぼくらは無事マンベイに着いた。

 二ヶ月も船に乗っていると、暇だ。暇ってのはいいね。アリスの家でさんざそれを持て余していたぼくだが、ひとたび考えるたねが浮かべばそれはまさに天恵だ。いつまでだって考えていられる。せかせか働かなくちゃならないぼくの世界が、嫌になるくらいにね。

 でも、アリスは忙しいよ。特に中継地での補給なんか、競争だけあってすごい。船員総出で積荷を運ぶ様は、まるで巣穴に餌を運ぶありの群れだ。とすればそれを見おろして米にも麦にもならないことを考えているぼくは、きりぎりすだろうか。

「なあアリス。きみはそんなに働いて、どうするつもりなんだい?」

「黙っててっ! いま品種と分量の計算中っ!」

 振り向きもせずに怒られてしまった。

 ただ、そんな連中も航海のさなかは暇と見えて、たまには話にも付きあってくれた。

「それにしてもよく働くね。きみの家はきみひとり一生食わせていくくらい、充分できるだけの財産があるのに。どうしてそんな働くんだい?」

「決まってるでしょ。負けたくないからよ」

 暇と言っても、手持ち無沙汰というわけじゃない。船員の見回りをしたり船長の報告を聴いたり、仕事は何かしらある。この時もアリスは上甲板に立ち、舳の向こうにおぼろげな島影を見つつ、背中越しに返事をくれた。

「負けたくない、ねえ。勝ったら賞品が出るわけじゃなし、そんなに気張らなくても」

「そういうものじゃないの。あ船長、あれがトウィン島でいいのね?」

 アイマムという船長の返事が、海風に吹かれつつわずかに聞こえてくる。

 ぼくは上甲板に無造作に置かれたに腰かけていた。じゃあ何が目当てなのかねえと呟くと、自分でもびっくりするくらい気だるげな声が出た。

「負けてもどうってことのない勝負なのにねえ」

「アルと結婚させられる」

 船長への指示に織り交ぜて、短く返ってきた。なるほど、それじゃアルと結婚したくないために勝つのかときけば、

「違う」

 まったく、何のためにたかが商売にこうも躍起になるのか分からないね。それにそもそもアルのことを嫌いに設定した憶えはないぞ。少なくとも意識する限りは。

「嫌いってわけじゃない。むしろどっちかって言うと、ううん、かなり好き、かな。ちっちゃくて可愛いし、なんか二太郎さんに似てるし」

 まあ、そうだろう。アルもぼくの分身の一人だからね。

「でもあきんどに生まれたからには、あきないで負けたくはないの。アルもきっと同じじゃないかな。わたしとの結婚っていうのは動機の一つに過ぎないだけで」

「負けたくないから、ねえ。そんなことをしなくても食っていける。なのに負けたくないから働いて稼ぐ。つまりあれか、きみたちにとって商売ってのは、子供の球遊びか」

「そうでもないかな。遊んで暮らせるって言っても、やっぱり使えば減るし。それに、持ってないより持ってたほうが嬉しいじゃない?」

 ほら船長、取り舵。島を越えたら補給に寄りなさい。アリスはあれこれ指を差しながら使用人に指示している。

 ぼくは、空を見あげた。西の空があかあかと燃えていて、太陽は今にも水平線の向こうに消えそうな具合だ。アリスはというと、ずっと船の中を動きまわっている。船室に戻ったのは、昼時の一度くらいだ。

「あなたは神さまだから働かなくてもお金くらい手に入るかもしれないけど、わたしたちは違うから。お金が欲しければ、働くしかないの」

「いや、ぼくにもぼくの住む世界があってね、そこじゃぼくは一市民にすぎない。生活するために、働いていたよ」

「そうなの?――あ、主計長、足りない物があったらまとめといて。次の町で買うから」

 一瞬だけ驚いた顔で振り向き、またすぐに仕事に戻った。一応話は聴いているようだ。ぼくも構わず、続けることにした。

「でもね、不思議なんだよ。ぼくは遊んで暮らせるほど裕福じゃない。生きるためには働かなきゃいけない。でも実際には時間のほとんどは仕事に消えていく。会社で十時間、通勤合わせれば十二時間だ。帰ったら物書きで五時間。寝る六時間を除いて、ほぼ一日だ」

 アリスは遠眼鏡を覗いたまま、何も言わない。ただ背中だけが聴いていることをアピールしている。手が放せないから聴くだけ聴いてあげる。勝手に話せということらしい。

「寝るのはただの休息だ。残りは会社も執筆も仕事だ。ぼくの一日はほとんどが仕事、会社が休みでもその分執筆が増える。たまに原稿があがったあとなんかには何もしない休日もあるけど、ぼくの一年はほとんど毎日仕事仕事仕事。休む間もない」

 アリスの背中が丸い。何かと思ったら、今度は羅針儀を覗き込んでいる。

「ぼくだけじゃない。世の人はみんなそうだ。毎日へとへとになるまで働いて、終わったら飯食って風呂入って寝るだけ。もしくは、家族と語らったりテレヴィを見たりすることもあるかもしれない。――あ、テレヴィってのは演劇や走馬灯みたいなものだ。要するにちょっとした娯楽さ。どっかに勤めている人でも、家で家事している人でも変わらない。仕事ばかりだと気が滅入るから、間にちょっとした娯楽を入れて、心が磨り減らないようにするだけ。一家の団欒も趣味や娯楽も、ほとんどそのためにあると言ったっていい」

 彼女の指示を受けて、水夫が大きく舵を切った。当の彼女は今度は、海図を拡げて計算を始めている。傍らに控える見慣れない顔は、航海士だろうか。

「陳腐なようだし、何も真新しいことじゃないけど、実際そうだから仕方ない。生きるために仕事をするはずが、仕事に追われ生きているようだ。ねえアリス。ぼくはいったい、生きるために仕事しているのか、仕事をするために生きているのか、どっちなんだろう」

「嫌いなの? 仕事」

 ずっと黙っていたアリスが短く声をあげた。手にはそろばん、視線の先は海図だ。それをちょろっとだけぼくのほうに向けて、そう訊いてきた。

 ぼくは、首を左右に振った。

「そういうわけじゃない。執筆のほうは好きでやっているくらいだ。会社はべつに好きじゃないけど、嫌いというほどでもない。そこまで忙しいわけじゃないし、やりがいがないといえばそれも嘘になる。けど、辛いときは辛いし、――いや、一日が終わると疲れて、辛いと思わない日はない。でもしないと生きていけないから、我慢してやっている」

「あ、あんた信号手だったよね。アルの船にフォーチュンヒルに寄るって伝えて」

 何か言ったと思ったら、ぼくへの答えじゃなかった。ただ通りかかった水兵を捕まえ、指示を出している。水兵はアイマムと答えると、するするとマストに信号旗を揚げた。

 慌しいことこの上ない。だがこれでものんびりしているほうだ。本当に忙しいのはこれからで、商売地での彼女の忙しさには目が回る。これが暇だというのだから、まったくもって信じがたい。さすがに、ぼくはあきれた。

「もう少しのんびりしてもいいんじゃないか? きみはもう一党のあるじじゃないか。そんな下っ端がやるようなこと、自分でしなくても」

「下の仕事も知らずに、上に立つことはできないでしょ。それに、わたしはここがすきなの。何より働いてる感じがするしね。家にいるだけじゃ、商売って気がしない」

「そういうものかねえ」

 結局のところ、アリスは美作先生と同じらしい。

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