乙章 あきない船旅、交易競争――A Trade Race and a Long Sale
15. 冬去りて優男来る
気がつけば、春がきていた。
といえばあっという間のように聞こえるかも知れないが、実際春はあっという間にきた。雪に覆われていた町も白い石畳を現し、港を閉ざしていた流氷もみるみるうちに消えた。さしもの冬将軍も日ごと勢いを増してくる
それまでの間ぼくは何をしていたかというと、実のところよく憶えていない。氷雪に閉ざされたこの時期、アリスの店はほとんど商閑期だ。彼女も暇とみえて、ぶらぶら本を読んだり体を鍛えたり、そろばんをはじいて来期の計画を組んだりしていた。ぼくはそれを眺めていたようだが、どうも眺める以上のことはしていなかったように思う。
それで冬将軍が兵を退いたあとは、アリスの家にはまたべつの戦争が訪れる。ただし今度はこちらが黙っていても勝手にけりをつけてくれるものじゃなくて、自分たちで何とかしないと押し負けてしまう本物のいくさだ。
開戦を告げる使いは、海からやってきた。
流氷が融けきって港が開かれたちょうどその日に、アリスの町に一隻の船が入ってきた。白い帆にでかでか穴あき銭のエンブレムを掲げたその船は、港に入るとくるくると帆をあげ、彼女の店からもよく見える位置にまで進んで、そこで錨を下ろした。
アリスほか、店の面々が港へと出ていく。
ぼくは別に出なくてもよかったのだけど、待っていても暇だから一緒についていった。
やがて、船から艀が降ろされ、こっちに向かってくる。ほどなくして艀は、桟橋に腹をつけて停まった。
「やあアリス、四ヶ月ぶりだね。変わらずに元気そうだね」
ぼくに似た口調で久闊を叙しながら岸にあがってくるのは、見るからに質のいい純毛の外套を着た男だ。黒くつややかな髪に気さくな笑みが似合いの色男で、年のころは二十を少し越したような、アリスと同じ年恰好だ。直立不動のまま敬礼を送るアリスの水兵たちに鷹揚に応えつつ、まんなかに立つアリスへとにこやかに手を差し出した。
「久しぶり、アル。ちょっとは背も伸びたみたいね」
この男こそアルバート・ニューマーケットといって、アリスの古い友人でありライヴァルでもある旅商人だ。ぼくの前作を読んでくれた方なら、よく知っていると思う。
この男が、開戦を告げる使者だ。
使者は、手をにぎり返してくるアリスを見あげた。そう、文字どおり見あげた。このアルという男、一目で育ちのよさが分かる身なりにハンサムな顔と、写真に写したら滅多にいない色男のくせして、じかにその姿を見ると随分とちびだ。いやちびと言ってもそこまでじゃないんだが、何しろここにいるのは屈強の男たちだ。いかつい水兵たちに、ぼくも背は百七十八センチある。アリスなどはかなり大女の部類で、百七十一だ。ひとり百六十台のアルとは、目線の高さに開きがある。
しかしこれもぼくの前作を読んでくれた方ならご存知と思うが、この男、なりは小さいが頭のほうはかなり切れる。武断派のアリスに対して、文治派のアルといったところだ。口が悪いので気の短いアリスにはしょっちゅうぶん殴られているが、しかし頭の働きじゃ彼女とは比べ物にならない。彼と彼女との間には巴御前と羽柴秀吉くらいの違いがある。
閑話休題、話を戻そう。アルはアリスと握手を交わすと、やにわにぼくを見あげた。
「ところでアリス、こちらの紳士はどなただい? 見かけないお顔だが」
「それが、聞いてよ。何とこの人ね、一姫二太郎。わたしたちの世界を創った張本人」
するとアルは少しの間呆気にとられた顔でぼくを見あげていた。が、すぐに我に返ったとみえて、その顔には驚きと人懐っこい笑みが溢れてきた。ぼくに右の手を差し出し、
「やあやあ、これはお初に。僕は湖州の商人で、アルバート・ニューマーケットといいます。……って失礼、僕らの造物主様ならそんなことご存知ですね」
「初めましてだね、アル。もちろん知っているよ。白銭会の若旦那でアリスとはいい商売敵のアルだね」
「商売敵だなんてそんな、好敵手と言って下さいよ」
「そんなことよりアル、去年の収益はどうだったのよ」
と、気さくに笑うアルの言葉を遮り、アリスが割り込んできた。
「まさか赤字だとは言わないよね」
「そんな、新たに店を増やしたくらいだよ。去年の収益はね、純でヨンパチだ」
「ヨンパチっ? うちの二倍近いじゃないのよっ!」
「支店の開設に使ったぶんを入れたら、こんなもんじゃないけどね」
むむうと唸るアリスに、かれはにこりと屈託のない笑みを溢した。
「きみもこんな四半年も港が使えない不便なところに本拠を置いていなけりゃ、もっと行くと思うのにね。いい加減本店越したらどうだい?」
「ぜったいいや。わたしはこの町が好きだもん」
悔しがるアリスにもうひとつくすりと笑って、アルは紙切れを一枚懐から出した。
「そういうわけで、これが今期開始時点でのうちの事業概要。その様子だと、今回もこの勝負、僕の勝ちかな?」
「次は負けないってば」
アリスがそれをひったくって、代わりに彼女からも一枚、くしゃくしゃにして放った。アルはそれを器用に受け止め、そして、
「うん、やっぱり僕の勝ちだね。これで五年連続、僕の勝ち。そんなんじゃアリス、僕の店との差はどんどん開くばかりだよ。もう少し合理的にやらないと」
「うるさいっ!」
アリスが不貞腐れると、アルは肩を竦めた。
「まあいいけど。君には君のやりかたがあるだろうからね。それじゃ概要の交換も済んだことだし、いよいよ今からが勝負だ。今年は橋州らへんで香辛料が払底で、相場が上がる見込みだ。君のほうはなにか、情報は集めたかい?」
「去年は農州が豊作でお米が値崩れしそうだから、橙鋏屋の介入があるだろうって話」
「オウケイ。それで、最初の仕事先はどこにする?」
「マンベイ」
「悪くない。僕も香州あたりと踏んでいたんだ。それじゃ第六回
言うや、アルは艀に飛び乗った。アリスも桟橋の反対側に駆け出し、そっち側に係留されていた艀に飛び乗った。一足先に屈強の男二人が乗り込み済みだ。それに残る二人も続いて、あっという間に艀は岸から離れた。
それをぼくは、穏やかに見送る。これから何が始まるのかは分かっている。かれらの変わりように驚く必要はまったくない。それは彼女の店とかれの店、それぞれ一年商売を続け、どっちが稼げるかを競うレイスだ。このレイスにアルが七回続けて勝利したとき、かれは彼女との結婚を認められる。そんな条件を彼女の親父さんに出された。そういう設定にしてある。
まあ、そのアリスにはもう、ぼくが手をつけちゃったのだけどね。
ともあれ、アリスとアルはめいめい自分の船に向かって艀を漕ぎ出した。レイスはもう始まっている。彼らの頭には、いまやもうそのことしかない。おかげでぼくも忘れられているが、致しかたない。何しろ連中をそんな性格にしたのは、これもぼくだからね。
「おっと、でも置いていかれるのも面白くないな」
正直なところ、ぼくは暇を持て余していた。この町の冬は長い。思考実験しようにも、周りがああも雪ばかりじゃ、何も思いつかない。望めばすぐにでも春は来たのかもしれないが、そうする気も起こらなかった。ほら、冬の寒い日にストウヴの前に蹲っていると、眠くなるだろう? ぼくのこの数ヶ月は、ちょうどあんな具合だった。
でも、それももう仕舞いだ。春は来た。アリスとアルのおきまりのレイスも始まっている。なら、そのレイスを見ながら、ぼくはぼくのライフワークを果たすとしよう。ぼくはいま一艘の艀に足を踏み出し、
「ええ面倒くさい。橋で充分だ」
足下の艀が、橋にかわった。造物主の力はじつに便利だ。望みさえすればどんなものだって作るも変えるも思うがまま。賽の目だろうが鴨川の水だろうがお構いなしだ。思うままにならないのはそうさね、ぼくの本当に手にしたいものくらいだろう。
下ではアリスが、眼を剥いている。ずるいとか何とか喚いてくる彼女に手を振りつつ、ぼくは彼女の持ち船に乗り込んでいった。
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