6. それは恰も箱庭のように

「では先生。私が奢られるのを辞する理由は分かりますか」

 こんどは、美作先生の話らしい。ぼくがグラスを置くのを見計らって、先生はそんなことを訊いた。

「誰かの奢りとなると私が固辞して受けつけないことは先生もご存知でしょう。後輩に奢ることもないということもきっと先生ならご存知かと思います」

 実際そのとおりだった。先生には奢られることもなければ奢ることもない。同門といいつつ先生の学生時代のことは知らないが、共通の知人によると先生はそのころから先輩の奢りも固辞し、後輩に奢ることもなかったという。この日ぼくには奢るなんて言ったが、ぼくが割り勘を申し出るとすんなりと受けた。あれはぼくに間を取らせるためにわざと提案したのだろう。その気もないくせに。

 まあ、ぼくもそれが分かっていて、あえて乗ったわけだが。阿吽の呼吸ってやつだ。

 だが、先生がどうしてそうも奢ったり奢られたりするのを嫌がるかまでは、分からなかった。正直に言うと、先生はおやおやと笑った。

「これは見込み違いでしたか。失礼いたしました」

 そんなこと、分かるはずもない。先生も分かるとは思っていないだろう。小ばかにしたような物言いだが、これはかれの癖だ。決してばかにしているわけじゃない。

「自己は他者の仲立ちを介せずして成り立つを得ない。そんな考えはご存知ですよね」

「知っているよ。一個の人間のなかに自己なる概念が芽生えるためには、他の存在が不可欠となる。認識に関わる有名な考えだろう」

「ええ。光の概念あって初めて闇の概念があるように。他者ひとの概念あってはじめておのれの概念がある。むろんおのれも他者ひともそれ以前から存在はしている。しかしそれが概念として成り立つのはその比を認識してからだ。――そういう心理学上の理屈です」

 と、美作先生は仰々しく頷いた。

「言い換えれば他者を認識する以前に自己はありません。自己に相当する存在者があるのみです。それが他者を認識してはじめて自己であると知り。そこから遡ってレトロスペクティヴにまだ他者を認識しなかった頃の自己をも発見できます」

 そんなことは言われなくても分かっている。ぼくの持論で言う神みたいなものだ。そこまで説明してくれることもないのに。

「大雑把には自我も同じことと思うのです。あるいは存在論的にもと申しましょうか。我かくあり。その意識は彼我の別を知覚してこそのものでしょう。彼かくあり。我もまたかくあり。彼さなり。我さにあらず。さらば我の我たるや如何」

「そうだね」

 それも、言われなくても分かる。どうも美作先生が好きなのはヤスパースらしい。そこに至るまでの論述や含意の差を措けば、これこそヤスパースのいう実存的交わりだろう。

「さらには方法においても。あるいは認識論においてもと申しましょうか。主観の主観たる意味を為すのは客観を得てこそのものです。言うまでもなく他者など知らずとも主観に相当する視点はあります。しかし主観に主観たる意味が具わるのは他者の視点を想定してはじめて成ること。我が目に映るもの。かの目に映るもの。そこからさらに、我が目に映るものの限界。そしてその先なるものを想定できるようになります」

「ああなるほど、それもヤスパースだね」

「語弊を恐れずに言えば。――さて。ではその逆の道を辿ろうと試みたらいかに」

「え、逆?」

 いま一度グラスを取りあげかけたぼくの手が止まって、美作先生の首が動いた。

「我々は長ずるに及んで自我を獲得しました。我あり。我かくあり。あるいは我いかに。それがなにかはともかくとして自己を意識しそのありようを識ること。それは自他の別を知ることによってなされたものでしょう。そして獲得した自我から遡って獲得する以前のわが身にも自我を見出すこともできるようになりました。ならば既にそれを獲得した今から他者との繋がりを断っていったら。――それはどうなるでしょうか」

「変わらないんじゃないか? 光と闇で譬えれば、いったんそれが生まれてしまえば、光が失われたとしてもそれがあった頃との対比でそこを闇と呼べる」

「そうでしょうか」

 しかし先生は首を捻った。胸の前で腕を組んで、

「しかし永久に喪われてしまえば光の概念は不要になります。なぜって光は過去を記述する上では有用であっても現在そして未来を記述するには無用の概念になるからです。こと人間に関する限り喉元を過ぎれば熱さも忘れるではありませんか」

「ううん。それは、まあ」

「ならば自我もまた無用となればいずれ忘却してしまうのではないかと。自我。――私という自覚はそれほどに儚いものなのではないかと。そう思うのですよ」

「ふむ。だんだんと読めてきたよ。つまり先生は人間関係を断ち切っていって、やがてだれとも関わらない自分ひとりの生活に達したとき、人はまた自我を忘れるんじゃないか。そう思っているわけだ。それで」

「それで?」

 くいっと、猪口があがる。先生はとても楽しげだ。

「それで、ああ、――そうか。もしかしてその人間関係を断つということのひとつが、奢り奢られる関係、という」

「さすがは先生。そのとおりです」

 かれの意図に気づいて絶句しかけのぼくに、かれは笑って手を揉み合わせた。つまり先生は、いずれは知人親類の関係をも断って、どこか人気のないところに籠もるつもりだ。必需品は通販か何かで揃えて、宅配箱にでも届けさせる。あとは新聞もテレヴィもとらない。仕事もやめ、電話も持たず、インターネットもひかない。世の中との関わりをいっさい絶つ。そうして自分がどうなるか。試してみるのだろう。

 何とも恐るべき話だった。奢りのことはただ貸し借りが嫌なのかと思っていたが、先生が自分自身をたねにこんな遠大な実験を考えているだなんて、思いもしなかった。ぼくはグラスを口に運ぶのも忘れて、――それが氷しか入っていない、ただのグラスだということも忘れて、ばかみたいに宙にそれを掲げていた。

「正確に言うと、その先があるのですがね」

 と、美作先生は言う。さらに恐ろしいことに、かれの実験はそれだけではないという。ふたたび猪口をとり何でもないことのように、くいとそれを呷った。猪口を置いて、

「自我を喪うか否かよりはむしろそちらに興味があります。すべての客体を排除したときになにが得られるか。それが私の興味です。ヤスパースは主体と客体との相互依存。主観と客観との相互関与。そこから自己の限界に突き当たることがその先にあるもの。つまりわれありへの手掛かりとなるとしました。彼はそれを超越者との接触とし、また互いにその我ありを示しあい、ぶつけ合うことで互いのそれをより明らかにしあえる。我かくありへと至れると説いた訳ですが。――この辺り私も先生と同類なのですよ。なぜそこで超越者を持ち出すのか。主体と客体と。主観と客観と。あるいはその先にあるものを。それらすべてを包含するなにかを、なぜ外に求めようとするのか。

 いやなぜと言うのは分かっています。近くはカントの物自体に始まり、造物主、遡ればプラトーンのイデアーに至るまで、彼以前の西洋哲学では我が認識の限界を認めその認識の地平線の向こうに真なる実体を置くこと。それを概ね共通する特徴として具えていました。主観的世界という我々の目に映るスクリーンに対して、真なる実体と光源とをその向こう側に置いて、スクリーンに映るさまざまな影から光源を知り、その光を辿る事によって向こう側の実体に至ろう。それが古典的な西洋哲学の枠組みでした。ヤスパースの思考は求める実体を我そのものとしたもので、枠組み自体は従前のものを受け継いでいました。

 これに対して主観の外にはなにも求めず、主観という閉じた世界の主たらんとしたのがニーチェの思想と見ることができましょう。スクリーンの向こうになにかがあるのではなく、スクリーンに映る影こそが我々だとしました。ハイデガーもこの点よく似ていますが、彼はまず我々がいるというところから始めよと説きました。これも大雑把な言い方ですが、彼は光源と彼自身とをスクリーンの手前に置いた訳ですね。その上で、スクリーンに映る我が影からその前に立つ我のありようを求めたのが彼の哲学と。そう私は解釈しています。

 ハイデガーの面白いところは、認識や論理を二次的なものに押しやったことです。彼自身に対して光源やスクリーンがどのような向きや形で置かれるかによって映る影は変わるとした訳ですね。これは彼の功績でもありますが、そこで止めてしまったことは彼の罪業でもあると私は思います。彼はここまでたどり着いていながら、結局今見ているこのスクリーンに映るところの影。それを見て我のありようを求めよとしました。彼自身は主観や客観というものの見方は好まなかったそうですが、しかしこれは言い方を変えただけで行為自体はニーチェと変わりません。ハイデガーの主張を古典的に表現すると、今知覚している主観的世界だけが世界ではないかも知れない。しかし主観的世界に我が身を投影させている我自身はその主観的世界において確かに我が影を映し出しているのであり、その影に即して我のなんたるかを問えと。そういう話になりましょう。つまりは主観という閉じた世界の主たれというニーチェの思想にほかなりません。ニーチェとの違いは、影そのものを我としたニーチェと、影そのものは我ではなく飽くまでも我の影であるとしたハイデガーと。そしてその閉じた世界しか認めなかったニーチェと、それを数ある世界のうちの一つに過ぎない可能性を指摘したハイデガーと。その程度です。

 つまりニーチェもハイデガーもプラトーンやアリストテレース以来の主観の壁に囚われ続けていることになります。つまり主観の及ぶ範囲と客観の及ぶ範囲との間には関与がありつつも垣根があること。言い換えればそのそれぞれの範囲には限界があること。それを前提としていかにして主観によって主観の外のことを得るかという方向に向いたのが古典哲学。あるいはヤスパースにおける実存哲学もこちらに属しましょう。一方前提を同じくしつつ主観の中だけに興味を絞り徹底的にそのなかを知り尽くさんとしたのがニーチェやハイデガーらの実存哲学という訳です。

 ここで認識論に立ち返る訳です。正しくは認識論の成り立ちに立ち返ると申しましょうか。つまり主観と客観との間にある垣根。両者それぞれの限界。それは主観と客観との成立せる状況においては実際その通りだと思う訳ですが、ここには主観と客観とがすでにあるものという前提があります。つまり主観や客観という認識上の系は既に成立していて、しかも不動のものであるという前提です。つまり主観や客観が如何にして成立したかというその成り立ちを考慮に入れていない訳です。

 先に申し上げた通り、主観の主観たる意味を為すのは客観を得てこそのものです。自己が立ち、自我を得る前の行為者には、主観も客観もありません。ただ主観に相当する視点があるばかりです。我が眼に主観たる意味が具わるのは他者の視点を想定してはじめて成ること。それを想定することで我が視点には主観の意味が具わり、それと同時に他者の視点には非我の主観ないし客観の意味が具わる訳です。

 ではこの過程をつぶさに観察したならば如何でしょう。つまり我が眼がいかにして主観を獲得し、同時に客観をも想定しうるか。その主客成立の過程を観察したならば、主観という固有の静止座標系にいながら客観あるいは非我の主観という他の座標系への変換式を獲得できるかもしれない。そう思う訳です。

 しかしその過程は、主観の獲得なしに観察することはできますまい。一方すでにして主観を手に入れた後には、その主観を以てその過程を観察することができるかもしれない。あらゆる客体を排することで、その過程を逆向きに辿ることができるかもしれない。その過程をつぶさに観察することで、主観をも客観をも包含する認識へと。ヤスパースの言うところの超越者に相当するなにかへと至れるかもしれない。それを探ることが私の目的です」

 言葉が出てこない。口も、きっと開いたままだったことだろう。嬉々として語るかれの声音は軽く、口ぶりは重く。その重みを知ってぼくは、胸元に刃でもつきつけられたかのように動けなかった。

「ただね。この試みには難もあるのですよ」

 と、美作先生は言う。とても困ったように眉をよせて、両手のひらを天井に向けて苦笑してみせた。そして、

「なにしろ結末がどうなるか分かりません。充分な期間観察ができるかも分かりません。いかほど観察すれば充分なのかも分かりません。よしんば分かったとしても問題はあります。すべての客体を排除するためには人ばかりでなくあらゆる事物をも断たねばなりますまい。それは生物学的には即身仏への道です。いや即身仏を以てしてもすべてを排除できるとは限りません。そもそも獲得と排除との関係が、鏡でうつしたかのように対称とは限りません。目論見とは別のものに辿り着く可能性がある訳です。また客体を排除したところで私の主観はかわらずにそのままという可能性もあります。主客形成の過程その逆行が起こらない可能性がある訳です。そして起こったら起こったで、私は主観の喪失によって最後までその過程を見通せないかもしれません。主観と客観との垣根を取り去ろうとして主観も客観も取り去ってしまっては外から眺めるのその外がありませんからね」

 それは、そのとおりだ。ちょっと説明が概念的過ぎるとは思うが。

「でもま。なんとなく失われない気もするのですよね。生まれつき眼の見えない人は見えないことをあまり気にしません。事故などで失明した人はまず大きな衝撃を受けます。立ち直ったあとでも眼の見えていたころのことを思うと不便だと感じるそうです。いかに喉元過ぎても完全に忘れきることはできないようですからね。だから心配すべきは別のものに辿り着くか、なにも起こらずに終わるかというところじゃないかとは予想しています」

 ま。なるようになるでしょう。それよりもこの実験を始める前に飽きるまで吟醸を味わい尽くさないと。ははは。――そんな軽口を叩きつつ、美作先生はまた猪口を満たしそれを一口に乾した。

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