7. ウサギ穴へのお誘い
それから先はこれといって語るようなこともなく、世相や互いの近況について取りとめもない雑談が続いた。美作先生は吟醸やら大吟醸やら、ポン酒をとにかく冷酒で頼む。ぼくはひたすらスィングルモールトを続けて、いい感じに酔っ払ってきた。ぼくはお酒には強いほうだけれど、久しぶりに先生と会ったこともあってか、ちょっと調子に乗り過ぎてしまった。調子に乗ったというか、気づいたらそれだけ飲んでしまったというか、ね。いい歳した大人がみっともないと思うが、飲んでしまったものは仕方ない。
そして気づけば、時針はもう十一を指している。いうまでもなく夜だ。そろそろ終電も近い。それに気づいて、ぼくは席を立った。
「これはいけない。いつのまにこんな時間だ。先生、そろそろお開きでどうだい?」
「ええそれがいいでしょう。おっと一姫先生。足許は確かですか」
立つと、世界が回っている気がした。地面が柔らかいというか、立っているはずなのに立っている感触がしない。それでも何とか机を支えに会計を済ませると、ぼくたちはふらふらと店を出た。
駅まではとても近い。行きつけの店は出版社を出て、駅に向かうちょうど途上にある。途上というか、駅前と言ったっていい。ぼくのよく使う地下鉄駅の入り口とは目と鼻の先だから、もう何歩も歩けば辿り着ける。
「や。先生も私と同じ方向でしたね。途中までご一緒してよろしいですか」
よろしいも何も、美作先生もその路線を使う。ぼくがいたからって、遠慮することでもないだろう。しかしそのときはあまりに酔っていたせいかそんなことにも思い至らず、
「ああいいよいいよ。一緒に帰ろうじゃないか」
と、鷹揚に手を振りながら駅の階段を降りていったことをおぼろげに憶えている。
地下だというに絶えることのない向かい風のなか、ぼくと美作先生は並んでゆらゆらと改札を指して歩いていた。
そんなぼくの背中に、突如追い風が突き刺さった。文字通り、突き刺さったというべき感覚。どん、と背中に重い衝撃を感じて、ぼくはつんのめった。
「うわっ、ととと」
二、三歩よろめきながら進んで、それでどうにか止まった。あれだけ酔っていたのに転ばなかったのは、奇跡というに近い。だがそんなこと当のそのときは思いもせず、ぼくは背中をさすった。どうもだれかにぶつかられたらしい。しかしそれにしては妙に勢いのいいぶつかりかただ。何事と思って振り向いたぼくの横を、今度はつむじ風が通り過ぎた。
「おじさんごめんっ! 急いでるからっ、許してっ!」
そんな声ひとつ残して、くすんだこがね色の風が吹き抜けていく。赤方偏移すら感じ取れそうな勢いで、その風は小さくなっていった。
別に珍しいことじゃない、ぼくも見慣れた終電に急ぐ姿だ。こがね色に見えたのは、どうやら髪の毛らしい。ぼくにぶつかり、その横を駆け抜けて行ったこがね色の風は、ブロンドのつややかな長髪の女の子だった。いまどきブロンドの子なんて珍しくない。その女の子がばかに大きな荷車を曳いていることだって、そのときのぼくにはちっともおかしくは思えなかった。あとから考えてみれば、おかしいと思うべきだったのだろうけどね。
ただ、声を残しざま振り向いたその子の顔をみたとき、ぼくは立ち尽くしてしまった。
「どうしました。大丈夫ですか先生。女の子にぶつかられたみたいですが」
よろめいたぼくを心配して声をかける美作先生にも構わず、ひとこと。
「――アリス?」
それは、アリス・エイントゥリーにそっくりの女の子だった。
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