5. なぜその人を愛するのか
「唐突ですが先生。先生はなぜ哲学をテーマに選ばれるのですか」
予想――というより期待に反して、先生の口から発せられたのは、そんな質問だった。ぼくは一瞬だけ戸惑ったが、しかしかれのことだ、何か考えがあってのことだろう。とりあえずぼくの話は保留にして、かれの問いに答えることにした。
「なぜぼくの興味がほかでもない哲学なのか。哲学の何がそうさせるのか。そうだね」
何の脈絡もなく訊かれて少し戸惑ったぼくだったが、しかし答えはすぐに思いついた。
そりゃそうだろう。何事にも動機は付きものだ。きみはきみの恋人のどこが好きなのか訊かれて、即座に答えられないほどの野暮天じゃなかろう? ぼくだって同じだ。
ただ、それをあえて答えなかった。この辺は、先生の手口と同じだ。代わりに、
「そういや先生は独身で、恋人づきあいもしたことがなかったね」
「ええ。肉体的精神的ともに人になにかを捧げたことはありません」
「それじゃなかなか実感は沸かないかもしれないけれど、とりあえず想像でいいから答えてみてくれ。先生、幸せってどんなものだと思う?」
「ほう」
「たとえば、そうだね。先生は結婚していて、ともに暮らす家族がいる。一家は四人、先生と奥さん、それに子どもが二人だ。先生はご自身を、またご家族を養うために働いている。想像できたかい?」
美作先生は無言で頷いた。目だけで先を促してくる。ぼくも頷いて、了解を示した。
「さて、それじゃ訊くが、先生は何のために家庭を持ったんだい?」
すると短くほうと唸って、先生はするりとあごを撫でた。
「これはまた難しい問いかけを。なんのために。つまり家庭は私のなんなのか」
「その通りさ。持つからにはそこに何か得るものがあるのだろう。それは何だい?」
「なるほどなるほど」
先生がにまりと、白い歯をみせて口許をゆがめた。腕を組み、おもむろな仕種で顎をひいた。
「家族がいなくとも私は生きてゆけます。ならばなにゆえに家族とともに住まい、子を育むのか。そういうことで宜しいのでしょうかね」
ぼくは頷いた。先生ときたら話すことはいちいち回りくどいくせに、理解のほうはすんなり、水でも飲むみたいに意を酌んでくれる。そしてその上で、ぼくの予想していた答えまで、すぐに導いてくれた。
「そうですね。それではかれらを愛しているから。そう答えたらいかに思われます」
愛しているから。うん、実に分かりやすい理由だ。分かりやすくて、そしてよくありそうな理由だ。ならぼくはこう問い返そう。すなわち、それはどうして彼女だったのか?
「でもじゃあさ、とりあえず子供のことは措いておこう。子供ができるのはふつう家庭ができたあとだからね。で、先生の奥さんだ。先生の奥さんは、どうして? 彼女である必然性はまったくないはずだ。先生は偶然今の奥さんに出会った。出会って、気に入って、結婚して、子どもが生まれたわけだ。でも先生の奥さんは、本当に彼女でなければならなかったのかい?」
美作先生にとって彼女が、唯一無二の存在か? ぼくはそうは考えない。何も先生に限ったことじゃない。ぼくだってそうだ。きみだってそうだ。人なんて世界じゅう集めれば七十億もいる。きみが両性愛者でないと仮定して、一方だけ数えても三十億だ。実際には年齢やら文化やらの違いでメイティングの対象となるのはごくわずかだが、それは問題じゃない。きみの、ぼくの、そして先生の今の伴侶は、果たして本当に三十億のなかで唯一のひとか?
もしきみがそう思っているなら、きみはたぶんばかだ。それだったら、きみは三十億分の一の僥倖にめぐまれて今の生活を送っていることになる。いやきみはほんとうにそうなのかもしれない。だが世の人の多くは結婚を経験する。そのすべてが三十億分の一というなら、ぼくは本当に神を信じたっていい。
「ふふ。唯一無二の組み合わせだなんてどなたも思ってはおられないでしょうね。一夫一婦ばかりが婚姻ではありませんし。そこには妥協なりなんなりがあってたまたま出会う機会に恵まれたなかからこの人ならと思える相手を選んでそこに至ったのでしょう」
美作先生は笑うが、もっともなことだ。別に唯一無二じゃないと愛しちゃいけないなんて話、ないからね。
「やはり先立つのは対象よりもまず欲求なのでしょう。好みやタイプという言葉の存在がそれを如実に示しています。伴侶やその候補者を見つける場合、見つかるより先に心の裡に抱いている要求があります。それが先天的なものか後天的なものかは措きましょう。いずれにせよ何者かを見つけるときには既に大まかな希望は固まっているのだと思います。相手の条件を互いに満たした者同士が身を寄せあい、そして互いをより深く知るにつけ希望との齟齬が目立つならば去り、いよいよ合致するならば婚姻に至るのかもしれません」
「大筋では同意するよ。細かいことを言えば多少の異論もあるけれどね」
異論というのはかれの言う身を寄せ合ったあとのことだ。かれはより理想との合致を強めた場合に婚姻に至るのだと言ったが、ぼくはそれだけじゃないと思う。長く使えばなまくらにでも多少の愛着が湧くように、男と女とのそれもいままでに築き上げた関係性への執着を多分に含むと思う。
ま、それはまだどうでもいい話だ。とにかく、人を好きになるよりも好きな型に合う人を見つけるというかれの意見にはぼくも賛同する。
「いまひとつ考えられるのは社会的欲求ですね。見合い婚がその代表的なものです。人への欲求よりもまず婚姻への欲求が表に出てくる。これも背景はさまざまでしょう。しかし動機がなんにせよ結婚して家庭を持ちたいという欲求があることには変わりありません」
その通りだ。見合いの背景にはほんとうにいろいろなものがあると思う。家庭を持つことへのあこがれがあって、早く幸せな家庭を築きたいという欲求。あるいは身内や親族からの風当たりで、婚姻にたどり着く人だっているだろう。もしくは結婚して家庭をもつことが幸せという妄念があって、ただそれに突き動かされるままに婚姻をめざす人もいると思うし、社会の目というか、人目を気にして結婚ということもあるかもしれない。
「ここで重要なのはいずれにせよパースンオリエンテドではないということです。はじめにディザイアがあって、そのディザイアゆえに家庭を築く。つまり家庭とはディザイアオリエンテドなもの。家族を愛すとはそのディザイアを満たしてくれる者を愛す。そういうことなのでしょうね」
「だろう? だとすると、何だか家庭ってのも空虚なものじゃないか?」
「なぜです」
「だって、好きな人と一緒にいられて幸せ。心休まる家庭を築けて幸せ。それは家庭がぼくらに与えてくれるものじゃない。結局はぼくらが身のうちに抱く欲望ゆえに築き、自らそれを満たすためのトゥールだ。うんこをしたいから家にトイレをつくった。そのトイレとまるで同じじゃないか」
そしてそう考えると、家族のために生きるという考えがとてもばからしく思えてくる。だって考えてもごらん、トイレだよ? 家族とはトイレだ。うんこを受ける器だ。そんなもののためにきみは生き、あるいは死ぬつもりかい?
これは家庭に限ったことじゃない。幸せというと家庭を思い浮かべる人が多いと思ったから、はじめに引き合いに出しただけだ。その他の事柄、たとえば国に郷里に友達仕事、みなそうだろう。故国のために生きるも、ふるさとのために死ぬも、仲間のために歩むも、仕事にかける生き甲斐も、すべて例外なくトイレだ。ディザイアあってこその執着だ。家庭と何も変わらない。
郷里や国は、一見ディザイアオリエンティドではないように見えるかもしれない。この世に生を得た時点で祖国は既に決まっているし、郷里も似たようなものだからね。けど、きみはなぜそのくにを愛す? それがその国だからか? それがその郷だからか? 違うだろう。
「それもディザイアなのさ。その国を愛すのもその郷を愛しむのも、そこが我が所縁の地だからだ」
と、ぼくは続けた。何ゆえに国や郷里を愛すかというのは、一見先にあるそれらに要因があるように見えて、決してそんなことはない。それはどの国どの土地で生まれ育とうと、多くの人は祖国や郷土への親しみを持っていることでも分かる。何しろ国にとってよからぬことをする犯罪人さえ、オリンピックの時には自国の選手を応援するし、馴染みの球団を応援する。多少の例外はあるにせよどこのだれだってそうなのだ、これを身のうちから発する自然な欲求とせずして何をする。
「分からぬではありませんな。しかしこと私に関しては、仕事に関してはそれでいいと思っています」
「というと?」
「私は働き考える。それが楽しいのですよ。私は専業の小説家で、プロになる前から私の趣味は執筆でした。趣味も仕事も私には同じことです。ですからいまの仕事は私にはとても楽しい。これひとつあれば家族もなにも要らないくらいです」
「たとえその仕事がトイレだったとしてもかい?」
「トイレは大事ですよ」
「もしかしてそれは先生が死んだあとでも、仕事は後世に生き続けるからかい? だとしたら考え直したほうがいいよ」
「なぜです」
「だって、受け手もまた限りある命じゃないか。先生の読者がいくら作品に感銘を受けても、連中はいずれ死ぬよ。人類が滅びない限りあたらしく読者が生まれるとしても、きっと人類はいつか滅びるよ。あと十億年もすれば地球はからからのサウナだ。それまでに住みやすい星を見つけて、移住できていると思うかい? ぼくは、それよりももっとずっと前に滅びると思う」
「なるほど。つまりどこかで終わりは来る。それなのになにかを人に与えてなんの意味があるのか。そこが問題ですか」
「逆の場合も同じさ。仕事をするのは仕事から何かを得るためとしよう。アリがアブラムシを守るようなものさ。だが、仕事から何を貰ったって、先生はいずれ死ぬよ? 貰った何かを、どこに持っていくつもりだい?」
きみは死んだらどこへ行くつもりだい? 墓場か。なら、墓場で構わない。だがそこに骨壺以外の何を持ち込めるというのだい?
「なるほど。しかしそれは的外れですな。私の言う仕事は見た目の上では執筆です。あくまでも見た目の上では。その実私のしていることは日頃の考えごとを小説という形にまとめているのみ。私もまた先生と同じく興味の赴くままに生きています」
「うん」
「つまりものを考え、その考える一手法として筆を執る訳です。執筆はうんこであってうんこをすることではありません」
「ああ、うん」
「そしてうんこすることこそ生きると同値なのです。生きるためにうんこをする。うんこをするために生きる。いずれか一方ではないのです。ひり出したときの開放感こそが私の生です。便意に駆られ、下着を下ろし座り込む瞬間。あの安らぎが美作備後です。だからトイレは暖房つきの放水洗浄がいい」
「そう思っているなら、先生は幸せものだね。是非そのままうんこをし続けてもらいたい。先生にぼくの作品は要らない。きっと先生の人生はだれよりも豊かで安らかだろう」
「ああなるほど」
すると先生は、得心したように頷いた。何が楽しいのかにたりとまた口許をゆがめて、
「では先生はそうでない人のために、――これぞ人生といえるようななにかを持たない方々のために一つの目的を示しているわけですか」
「示すというのとはちょっと違う。どっちかと言うとその人の心の支えをひとつひとつ折っていって、裸に剥いてやるのさ。つまりニーチェのような状態を、意図的に作りだすわけだ。それがぼくを創作に駆りたてる、最初の目的」
「あるいはヤスパースにおける限界状況への直面でしょうかな」
「さすが。まさしく人が己の存在の限界に突き当たる、その状況を作る訳だ。とはいえ裸に剥けない人も結構いるけどね。たとえば先生のような、――何だ、言葉は悪いが仕事ばかの人間。あるいはこれに生涯をかけていいという関心事があって、家族も仕事もそのためにあるという合目的性の権化。そういう人には敵わない。無理だ」
「なるほど」
「そういう人には、いずれご自分で限界状況に向きあって頂くのを待つしかない。でもごくごく凡庸に生きている人たち。そんな連中には、ぼくを通じて考え直してもらいたいのさ。生きる意味は何かをね。意味ってのは何者かってことだ。何する者かってことだ。それは、いずれ破れるものにかまけて限界を忘れているうちは考えられまい」
「ニーチェはそこで閉じた世界への肯定を、ヤスパースはそこで世界の向こう側にある超越者を説いた訳ですが、――先生もまたそこでなにかを説きたいと」
「その通りさ。かれが神の被造物なら、神のために生きる者だ。かれが進化の勝者だったら、生きるために生きる者だ。だができることならば、ぼくはその神を取り払いたい。みんな後者だよと突き付けてやりたいのさ。そしてその上で、生きるために生きるのはなぜか。生きるとは、あるいはかれがここにあるとはどういうことか。それを考えてもらいたいってのが、最初の目的のそのまた奥にある真の目的かな」
「その二項を対立概念に持ってきますか。まあ自然選択説は宗教家との間で論争になりましたがね。――と失礼。それで分かりましたよ。それも同病相求むなるものですな」
これでまた沈黙。まったく、この男は空気を読むということを知らないのだろうか。本気で読めないのならば、困ったことだ。読んでいてこうだとすれば、――いやはや賞賛に値するね。
でも、ぼくも一度目で学んだ。二度目は、いつまでも黙るのはよそう。
「まあ、そう、だね。同じ病気に悩み、同じことを考えてもらいたい、わけさ」
「なるほど。して。それを考えていかにします」
「ああ、それで何か得るものがあるなら、それでいい。かれは完結した哲学者だ。かれの得た何かがいかなる時にでもかれの足許を確かなものにしてくれる。でももし分からなくなったら、それもいい。かれは未完結の哲学者だ。たとえ堂々巡りのコーカスレイスでも、走っているうちに乾くものもある」
「不思議の国のアリスを思い出しますな。たしか涙の池でしたか」
「そうだね。あれとおんなじさ。ぼくは一体何者なのか。ぼくの名前は
「私としては酢でもウィスキでもこの手の吟醸が変わってしまっては嫌ですがね」
先生は徳利を掲げてみせた。そして失礼、どうぞとぼくに先を促してきた。
かれには、もうこの先のことは見えているのだろう。その証拠に、いまは猪口を運ぶその手に、加減がない。ぼくの結論なぞ聴かなくても分かっている。そう言いたげな手だ。
いいだろう。ならぼくも期待に応えてやろうじゃないか。――ぼくは嗜虐の欲求に駆られて美作先生を
「むろんこんなのは些事だ。幸せなうちには、ちっとも考える必要なんかない。いやむしろ、考えれば考えるほど幸せを逃すだろう」
「同意します。私が何者だろうと浮世の幸せに係わることはありませんからね」
「でもそれが、幸せでなくなったときに必要になる。あるいは、医師に余命を宣告されたときだ。そんなときのために、心の隅には留めておきたいのさ。ぼくは一体何で、ぼくの人生は何だったのか。残された余生を、どうして生きていけばいいのか」
美作先生は黙っている。ぼくはもう一度ウィスキィを注ぐと、それを一息に乾した。
「こんな問い、実際にはいくら考えたところで、――それこそ今はの際にでも答えなんて出やしないだろう。そんなこと、はじめから分かっている。分かっているから空しくもない。何も産まないと分かった上で飛び込むんだ、飛び込んだあとでそうと知るよりはよほど実りのある話だろうさ。それに、答えが出ないからこそ余生をかけるにも値する。もしこの問いが二桁の掛け算くらい簡単だったら、昼寝でもしていたほうがましだ」
誓いの言葉を終えると、ぼくはグラスを置いた。ブレンドの酒は、なくなっていた。ぼくは取り置きのスィングルモールトを頼むと、グラスから手を離した。これであけたウィスキィは一瓶。まったく、いやに酒がすすむ日だ。
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