4. ツァラトゥストラの背中に

「そういや先生と初めて会ったのも五月だったなあ。あれはたしか、せっかくの五連休を返上して一作書き上げた次の日のことだった」

 失敗だ。バーマンに気を遣われるようじゃ、飲み客として失格だ。あちらは気持ちよく飲んでもらいたい。こちらは気持ちよく飲んで帰りたい。だからこそのバーだというに、そこで腐れているようじゃ来る意味がない。

 でもぼくは、ここにいる。カウンターに坐って、グラスを手にしている。そして手にした以上は楽しまなきゃ損だ。ぼくは子供じみた感情は捨てることにして、話を変えた。

 美作先生のほうは、何も思ってはいなかったらしい。変わらない調子で、口を開いた。

「連休。――そうですな。先生は執筆の傍ら会社勤めもこなしておいででしたな」

「どっちかと言うと会社勤めの傍ら、だけどね。先生みたいな専業じゃないから、人並みに曜日の感覚がある」

「まるで私にはないような言いかたですな。でも残念。ちゃんとあるのですよ。あれは連休の谷間の木曜日で、先生は有給休暇をお取りで、担当の捨辺すつるべ氏の勧めで編集部の帰りに私に会いに来られたはずです」

 ほらちゃんと覚えていたでしょう。先生の顔が、にんまりと歪む。

 それから、ぺろりと舌を出して、

「本当は先生のお言葉から推測しただけなのですがね。当てはまるのは月曜日か木曜日、頻度から言えば後者と。捨辺氏のことは氏から連絡を受けて知っていたのですが」

「連絡って、ぼくが先生を訪ねるってことかい?」

 美作先生はこくりと頷いた。

「私の好きそうな畑で仕事をしている人が行くから宜しくと」

「宜しくって、そんな曖昧な。まあでも、おかげで会えたんだからよしとするべきかな。それで先生は先回りして、約束のカフェで待っていてくれたんだろうし」

「いいえ。連絡を受けたのが既にあの席でした」

「そうなのか。すると先生は朝から、ああだったのかい? つまりその、何と言うか」

「本人間」

 傾く杯の合間に、先生は笑った。思わず口走ったぼくの失言を、覚えていたらしい。

 だがそう、その通りなのだから仕方がない。あの簡素で小粋なオウニングの下、蒼深い初夏の日にぼくの見たのは、堆く積みあがる本の群れだった。近づいてみればその横に、パイプ椅子の上に仰のけで手枕する人間がひとり。顔だけが本に換わっていた。

「いや実際驚いたんだよ。積み上げていると聞いちゃいたけど、まさかあんな山みたいになっているとは知らなかった。そこへきて顔が開きかけの本だ。頭が本の本人間が、共食いしているのかと思った」

 ちょっとばつが悪くなって、グラスをからからと鳴らした。場を取り繕うだけの即妙な一言が思いつかない。いつもならするりと出るその一言が、今日はちかちか光るだけの切子の縁だ。やむなく軽口を叩いて、無理やり冗談にしてしまう。

「あながち否定できないところが残念ですな。呑み込みこそしませんでしたが、新たな一冊をくわえるのですから」

 ――つもりだったのに、大真面目に、洒落までつけて答えられてしまった。からからと回るグラスは行き場をなくして、一層せわしげに回る。ついでに頭もぐらぐらと回る。いや回っているはずはないのだが、そんな気がするくらい上下の感覚がなくなっていた。

 でも美作先生にとっては、ぼくの内心など一昨日の昼飯だ。涼しい顔で、また猪口を運んだ。ついでに言うとぼくの失言も昼飯らしく、

「ところで答えはもう出ましたか」

「答え?――ああ、それって」

「ツァラトゥストラ」

「ああ」

 回るグラスが、ようやく解放された。ぼくはそれを口に運んで、首を縦に振った。氷入りの酒でもそこに光景を浮かべれば、明鏡の如しだ。酔った頭でも思い出せる、それはあのときの問いだった。

 顔には、間違いなく苦笑が浮かんでいただろう。何しろあれは、そうするしかないくらい唐突だった。訊かれたその当初はきょとんとしていたかも知れない。でも、あれを思い出すときには、いつだって苦笑を浮かべずにはいられないだろう。

 あのとき、オウニングの下に本の山を見つけたぼくは、傍らでまどろむ本人間に声をかけようとして、逆に声をかけられた。それがツァラトゥストラだった。何とも驚いたことに、の第一声は名乗りでも挨拶でもなくて、そんな名前と、問いだったのだ。

「あれにはぼくも面食らったよ。顔も知らないやつから何の脈絡もなしにツァラトゥストラだもんなあ。せめて顔の本をとって名乗ってくれてから訊けばいいのに」

「それは失礼。私の悪い癖で興が乗るとつい作法もたしなみも吹き飛んでしまいますもので。――して。答えは出ましたか」

「一応ね。というかあのときにはもう出ていたんだけど」

 本人間はそのとき、ツァラトゥストラと言った。ツァラトゥストラの背中を想像したことがあるかというのが、の問いだった。ツァラトゥストラといえば拝火教、その開祖たる哲人ザラスシュトラのドイツでの呼び名だ。三千年も昔の宗教者で、出自も生涯も謎多い人物。それを言うと、本人間は首を振った。本がころげ落ちそうになって、落ちなかった。の左手に、本が吊られていた。

「――そう、覚えているよ。ツァラトゥストラだ。ザラスシュトラではない、ツァラトゥストラと。先生はたしかに、そう言ったね」

「いかにもその通りです。私の言いたいのは永劫回帰を唱えたというツァラトゥストラです。拝火教の教祖ではない、ニーチェがその口を借りて我が思想を語ったかのツァラトゥストラとたしかに申し上げました」

「そうそう、だからニーチェの背中でもいいとも、たしか」

 猪口の上下をもって、先生は肯定に代えた。好物の吟醸のせいだろうか、その口はいつになくご機嫌に弧を描き、玉細工のような歯をそのうすい唇の隙間に覗かせている。

「ええ。私のツァラトゥストラは彼です。輪廻を否定し審判さばきを否定し、ただ。無限に繰り返される一つきりの生を鉄の意志を以て踏み越えてゆく。神を否定し人を否定し。おのが歩みし軌跡を。これから歩むだろう旅路を。一片の躊躇もなく賛美してゆく。並み人ならば惑い、直視を避けながら進んでゆくだろうおのが一生を徹頭徹尾。そのすべての瞬間に至るまで肯んじ。謳い。誇りぬくというプロイセンの哲学者です。寸分違わぬ生を無限に繰り返すという悲劇を。飽きもせず。恐怖と苦悩とに真っ向から挑み。その頭上を越して闊歩を宣す。その彼の背中に。先生はなにを見ますか」

 猪口のなかのもので唇を濡らして、二年越しの問いを先生はまた口に乗せた。その目は酔ったぼくにでも分かる。宴席に似合わず鋭く、酒客とは思えないほどに真剣だった。

「草も灌木もなき山道。天覆う深闇とそこに懸かる白い杯。その影におびえ、震えて静寂を破る野犬に、草臥れたように這いつくばる蜘蛛。生の息吹きはおろか死のにおいすらしないそんな無機の世界に、闇夜を切り取って居座る須臾の門。終わりなき道を従えたその門を背後に佇む、老いた旅人。その旅人の後ろ姿は。先生の眼にはどう映りますか。泰然と。自若と。無人の野に独り傲然と聳える巨人の背が浮かびますか。怯惰に。卑屈に。無明の夜の底、降りかかる孤独を唇を噛んで堪える幼子のそれが浮かびますか」

 ほほは酒を得て赤く、唇は言の葉を紡いで笑み。けれどもその目は冷たい光を湛えていることに、違いはなかった。酔いに爛れてなどいない、確固たる目つき。その目つきに、酔漢の妄言を以って返すことは、いかな酒席でも許されない。ぼくは、杯を置いた。

「おさな子のほうかな」

「理由を伺いましょう。先生はなぜ幼子と」

「それはニーチェが、あれを書いた時期かな」

「ほう。時期と」

「うん。もしニーチェが静かに思索を重ねて、その思惟の果てにあの門を見たなら、自若に見えたかも知れない。満ち足りた私生活のなかで自分自身に問いかけ、御堂関白が望月を詠んだようにあの思想に至ったなら、泰然と見たかも知れない」

「語学流に言えば仮定法過去ですな」

 美作先生は口だけでにたにたと笑っている。その目は相変わらず真剣だ。

「でもぼくは知っている。かれがあれを得たのは、恋破れ、血族と離別した直後だ。かれがあれを著したのは、人と理想とを失い、独り孤立に苛まれていたときだ。そんな状態でひとが、自分を殺した位置からわが人生を俯瞰し、誇れるものか。できることと言えばせいぜい自分の生きざまを正当化し、挫けそうな心を騙すことくらいだろうさ」

「ほう。つまり先生はあの永劫回帰を強がりととりますか。それは実に興味深い」

 こんどは、目までがにたりと歪んだ。手が口許に運び、猪口の内容を呷る。つられてぼくもグラスをとった。そして、

「強がりというか、開き直りというかね。ニーチェには、心の拠りどころがなかった。二十有余にして祖国を失い、三十を経ずして師も弟子も喪った。一時期傾倒したヴァーグナーとも袂を分かち、恋した女性からは袖にされた。それがもとで家族とも疎遠になった。健康を損ない、教職からも離れた。そんなかれに、誇れるものがあるかい?」

「容赦ありませんな。ですが、――そのままではないでしょうな。一つも」

「そうさ。かれには何もない。生きていくにあたってこれはと誇れるものが、何もないんだ。あったとしてわずかに、取るに足らない過去の栄光だけだ」

「そしてその過去の栄光もいまや現在の不遇と対照をなす彼岸花というわけですな」

 さすが美作先生、よく分かっている。

 そう、かれには何もない。家族恋人友人故郷、師弟生き甲斐目標仕事、そのすべてをかれは失った。ただないばかりでなく、失ったということが致命的だ。初めからないものには心を預けようもないが、知って預けたものを失い、そのすべてをなくしたなら、心はどこに預ければいい?

 これは、ちょっとした病気だ。何しろ、生きていくのに欠かせないはずの心の寄る辺。折れかけた心を支えるはずのものが、何もないのだ。幸せなときにはその幸せが、不幸せなときでもそのなかで見つかる小さくも確かな何かが、臭い言いかただが生きる糧だろう? だというのに、それがない。そのさまはあたかも、――

「――死に至る病のようだ」

「キアケゴーですな」

「うん。そしてなお悪いことに、かれの病はキェルケゴールには治せない。そういう人に最後の救いを齎してくれるのがキェルケゴールの神だと思うんだけど、それも今度ばかりはうまく行かなかった」

「そういえばニーチェは二十歳にしてみずから学んでいた神学を捨て神とは訣別しています。親しき神を切り捨て拒んだのです。生まれつき神とは縁遠い我々ならば知らず、神の下に生まれた彼にはいまさら泣きつくのは自尊心が許さなかったのでしょうなあ」

 当を得た答えに、ぼくは大きく頷いた。

 そう、かれには神に頼ることもできなかった。苦しいときの神頼みすら、かれには許されなかった。何も持たない人間でも、ひとしく救ってくれるはずの信仰。それをも捨ててきてしまったかれには、それだに持ち得なかったのだ。

「じゃあ先生。その死に至る病のさなかにある人。神をも恃めないその最重病人がそこから抜け出すには、どうすればいいと思う?」

 ここまで語って、一息だ。先生がどういう答えを出してくるかは、分かっている。ぼくはグラスを乾して、先生の答えを待った。

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