3. 同病、相……
ぼくが黙っていると、かれは続けてくれた。
「いずれも同じなのですよ。ひとの痛みの分かることとおのれの痛みの分かること。あるいは分からないこと。卑屈に傲慢。臆病に軽率。みな同じです。おのれが見えていない。ひとを見る目がない。身の程知らず。対人恐怖。同じことです」
「いや、そんなことは分かっているよ。見えていないのがひとか自分かが問題なんじゃない。ひとと自分との違いが見えていないことだろう?」
「ええ」
美作先生は頷いた。
「ところで先生。先生はまたなにゆえに斯様な話をここで」
――だけじゃなくて、話題を変えた。まったく唐突に、いきなりだ。思わず口に運びかけたグラスを、止めてしまった。それをまた運ぼうかと思ったが、不思議とそうする気になれなかった。ぼくはグラスをごとりと置いて、
「何故って、そうだなあ。そう大きな理由があるわけじゃないけど――」
「けど、いかがしました」
「大きな理由はないけど、――そうだね。この分野で仕事をしていると、ときどき思うのさ。ぼくは、もしかしてとんでもない無駄をやらかしているんじゃないかって」
「ほほう。無駄とね」
止まることのなかった先生の猪口が、初めて止まった。顔は前を向いたままだが、目玉だけがきょろりとぼくのほうを向いた。その視線に目を合わせて、ぼくは頷く。両手はおのずと組み合わされて、グラスの横に置かれた。
「何と言えばいいのかな。ぼくの作品のたねは、哲学だ。先生も知っての通り、ぼくは必要とあればプラトンからソーカルに至るまで、哲学とそれに関わるものを扱う。目的は単純だ。つまり、ぼくはぼくの読者に、考えてもらいたいのさ。自分ってやつを」
「ああなるほど」
先生の猪口が、動き始めた。ちびちびとその縁を舐めつつ、先生は横目でぼくを見てくる。その口はしきりに動くので分かりにくいが、ちょっとだけ笑っていたように思う。
「それで意味が分かりました。先生は哲学を作品に盛り込む。いや哲学の一手法として小説を創る。テーマは存在か生か。そんなところで。――そこに不安を覚えておいでですね」
顔つきはあいまいなくせに、理解ははっきりとしていた。一分の過不足もなく、ぼくの問題を見抜いている。そして、それを指摘するのに容赦のないことも、かれのかれたる所以だ。
「先生はそれが世の人にとって無意味ではないかと気にされている。先生の心の裏から発せられる疑問。それを他の人々は持たぬのではないか。それを懼れられている」
「う。……分かっちゃいたけど、改めてそれを言われると堪えるなあ。実はそうなんだ。ほら、ぼくの作品って、あまり売れないだろう? あれってもしかしてぼくのテーマが、ほかの人たちにはどうでもいいことなんじゃないかと思って。それが不安だ」
「なるほど。もっともなことです」
「いや、売れる売れないはあまり関係がないんだ。売れれば嬉しいけどね。ただ、なんでかな。ぼくがここにいる所以のものが、ひとには取るに足らないことじゃないか。そう思うと不安で不安でたまらない。所詮ぼくだけの問題のはずなのに、同じものを抱える人がいないんじゃないかと思うと、どうにも心細い。これじゃ、まるで」
「同病相求む。ですかな」
ぼくは黙った。
正解だ。かれの言うことは、ぼくの言いたかったことに限りなく近い。そのものだと言ったっていい。でも、それだけにここまで的確な言いかたをされてしまうと、なんというか業腹なのはなぜだろう。
そう、的確なのだ。かれはぼくの悩みを、的確に捉えている。同じ悩みを持つから、相手の苦しさが分かるのじゃない。同じ苦しみを知るから、互いに励ましあいたいのじゃない。ぼくはただ単に、同じ病を持つ人が見えずに、それを探している。一緒に治ろうというわけじゃない。せめて罹る人を減らそうというわけでもない。むしろその逆だ。ぼくはただ、自分と同じ病気になる人を求めている。独りでの闘病が嫌なものだから、病人をもうひとり増やそうとしている。それを余すところなく見抜いて、かれはそう言ったのだ。
そしてそんな自分が見えるからこそ、先生のこの指摘は業腹なのだろう。
ぼくは、続ける言葉を失っていた。
美作先生にもほかに言うことはないらしい。猪口の縁をちびちび舐めながら、時折なかを覗き込んでいる。バーには、ほかにお客もいない。言葉もないままに時は過ぎて、奇妙な沈黙がバーを包んだ。
そこに、
「お待たせいたしました。アレクサンダーでございます」
乳色のコクテイルが、そっと先生の前に置かれた。ふと見ると、マスターが微笑みながらぼくを見ていた。皿に盛られた落花生を差し出し、にこりと。
「サービスです。どうぞお召し上がりください」
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