2. ふたりの物書き
そもそものきっかけは、打ち合わせの帰りに先生と遇ったことだ。
「や。これは
担当さんとの話を終えて編集部から出てきたところを、ビルのまん前で美作先生に出くわした。山鳩色の擦り切れたかばんを小脇に挟み、くたびれた帽子を頭に、ちょこちょこと歩いてくる。そんな出で立ちなものだから、はじめはお年寄りと思った。けど近づいてみると帽子の下には精悍な顔で、口許はぼくを見つけたからか、少しだけ歪んでいた。
あのカフェテリアから数えて二年を経るというのに、相変わらずの物腰だ。このぼくと同業、このぼくと同門、おまけにちょくちょく飲みにいく仲。それならもっとくだけた言い方でもいいのに、知り合ってこのかた、かれがこの物言いを崩したことはない。
「美作先生か。いやこっちこそご無沙汰ですまない。今日はどの作品だい?」
「書き下ろしです。ブランデンブルクの選帝侯と題して一筆ばかり少々」
かばんを見て訊くと、先生――ぼくの大学の後輩にして友人、小説家美作
「そのご様子だと、先生も打ち合わせのようで。いままさにお帰りと見受けましたが」
お見受けも身請けもない。物書きが手ぶらで編集部から出てきたら、それくらいだろう。しかしぼくはそれを口には出さない。この迂遠な話しぶりは先生の特徴だった。直せといって直るものでないことも年来のつきあいで分かっていた。だから、
「そうだね。最近ひとつ連載を貰えたんでね、ここに来る用事も多くなった」
「するとあのお話ですな。ハイデガーの存在論。私も毎回拝読しておりますよ。いやあ毎度工学出身とは思えないテーマを選ばれますなあ」
「物書きに学科はあまり関係ないよ。……って、先生に言うのも釈迦に説法だが」
ぼくは肩を竦め、苦笑してみせた。そういう先生自身、文学出のくせしてバイオメディカルな素材をこれでもかと使う。言われなくとも、とっくに分かっているだろう。分かっているのにこうもそれらしく感心してみせるとは、傍から見たら厭味にも見えるだろう。ぼくもそう注意してきたのだがどうにも直らない。かれなりに相手を立てようとしているのは、分かるのだが。
そんな美作先生はぼくの言葉を受けて、かりかりと帽子の上から頭を掻いた。
「いやいや私などは釈迦どころか羅漢も遠いですなあ。しかし学科といえば哲学出身でよかったとは思いますな。おかげで先生の作も苦もなく読めますから」
それはぼくの作品が読者に求めるところが多くて人を選ぶという意味だろうか。――そんなことを思ったけど、これも言わない。苦笑していると、先生は急にああと声をあげた。
「そうそう一姫先生。このあとお暇ですか」
「暇といえば暇だけど、どうかしたかい?」
「ええ。じつは私本日二十四になりまして」
「おおそれはおめでとう。そういえば今日だったか。ごめん、忘れていたよ」
すると先生はいやいやとほとんど喉から上だけで声を出した。
「俗にいうところの誕生日は明日ですよ。ゆえに法的には本日満二十四になった訳です。切りがよいので普段行かないところで考えごとをしてみようと思っておりましたところ折よく先生にもお会いできました。いかがでしょう、ちょいと一杯引っ掛けてゆくのは」
と、猪口を傾けるしぐさをみせた。ぼくより若いのに、妙に古風な男だ。
しかしまあ、断る理由はなかった。ぼくもお酒は好きだ。かれとはそれなりの付きあいもある。同門同業の誼だ、ここは一杯と言わず、つきあうことにしよう。――
「いいね。お祝いってんなら、ぼくから奢らせてくれ」
「いやいや私から誘っておいてそれでは申し訳が立ちません。ここは一つ私のほうこそ」
しかし美作先生は受けつけなかった。いつだってそうだ。先生はどういうわけか人から奢られることを好まない。招待されたパーティの時でさえ、先生がいなくなったあとにはきちっと紙幣が置いてある。律儀なのはいいが、ちょっと堅すぎる気がしないでもない。
けど、言い出したら先生は動かないから、ぼくが意地を張っても仕方がない。ただ同門の先輩として後輩に奢らせるのは体裁が悪いから、ぼくはこう切り出しておく。
「そうかい。それじゃ間を取って割り勘自前持ちってことでどうだい?」
「ええ。それならば構いませんよ」
かれもその言葉さえ出れば、それ以上は押さない。そんなこんなで、ぼくは美作先生と飲みにいくことになった。それがこのバーで、この同病論だった。
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