哲人のワンダーランド

如水軒 / 一姫 二太郎

門章 チカいの轍道――Down the Subway Stairs

1. 酔っ払いの同病論

 ヒトラーが割礼を受けたなんて事実がもしあるのだったら、これもありだとは思う。同病相哀れむなんて取るに足らぬ妄言だとは思うが、それよりはまだしも現実味がある。

 という話をしたら、ちょっとだけ意外そうな顔をされた。

「おや。優しげな顔をして身も蓋もないことを仰るものですな。妄言ですか、それは」

 口に運びかけた猪口を止めて、美作みまさか先生はさも驚いたように言った。大仰な抑揚の割に顔はそれほど動いていないが、これはいつものことだ。油断なく遠くまで見通しているのか、それとも単に心の閾値が高いだけなのか、先生はいつも声音ほどには顔を変えない。

「妄言さ。この世のどこに、そんな物好きがいるというんだい?」

 からりとグラスを揺すって、ぼくは答えた。この声音と表情との差にはみな驚くというが、今のぼくには慣れたものだ。ちなみにグラスの中はウィスキィで、ブレンドの酒だ。ブレンドを飲むのはこれが初めてだが、かれの顔を見るのは二年にもなる。

 先生はくいっと猪口の中身を呷ると、軽く首を竦めた。手酌で、瀬戸物の猪口に酒を満たしていく。カウンターだから横顔しか見えなかったが、かれ一流のいつでも崩れない余裕の微笑みは、身を潜めているようだった。あの微笑みのかわりに、今はただ無邪気に笑っている。噛むほどに味のよく出るするめいか。――そんな独特の味わい満ちた両目は酒面さかもに。まるで子供だ。

「居そうなものですがね。被害者の会だの患者の会だの。あるではありませんか」

「あれは哀れむっていうより互助会だろう。有益な情報を交換し、時に結束して共通の利益のために争う。哀れみあうための組織じゃ、決してない」

 なるほどと美作先生は笑った。聴いていないと見えて、その実一言一句まで聞き逃さないのが先生の取り柄だ。いや、欠点か? 慣れればどちらも同じことだが。

「そりゃ、まったくいないと言ったら嘘になるかもしれない。けど、それがよくあるとはぼくには到底思えないよ。人のつらさなんて、よくも悪くも分からないものさ」

「そうですかね」

「そうさ。そりゃ、だれでもつらいと思うときはある。ああこの人つらいんだなくらいは、分かる。けど、それがとなると話は別だ。自分が大変と思っている人はどんな瞬間ときだってそう思うし、そうじゃない人はだれかよりましだといつも思っている」

「なるほど」

 先生の猪口は、また空になっていた。ぼくは気づいて、かれの手から徳利を奪った。

「先生の酒はそちらですよ」

「いいから。せっかくのおめでたい日だ、酌くらいさせてくれよ」

 正しくは奪おうとしたところを躱されて、不平を言った。けど、美作先生には聞く耳なしだ。ぼくから最も遠い位置に徳利を持っていくと、自分でとくとくと注いでしまった。

 ぼくはため息をついたが、追及はしない。かれがこういう性分なのは、前からよく知っていた。ただ、このままじゃ収まりがつかないので、文句だけはちょっと言っておいた。

「仕方ないなあ。でも、年男のお祝いくらい酌を受けたってばちは当たらないと思うよ」

「それは残念です。のならば酌のひとつも受け応えがありますものを」

 でも美作先生は涼しい顔だ。まったく、ありえないと知って、好き放題言ってくれる。ちょっとだけ言うつもりだったが、癪に障った。何を、これで済ませてなるものか。

「だいたいバーマンのいる店に坐って、ポン酒というのもどうかと思うよ」

 置いてあるこの店もこの店なのだが、そこはあえて黙っていた。前を向いて、

「やあ大将、かれにアリグザンダーを頼む」

「マスターを大将と呼ぶのもどうかと思いますがね」

「う」

 失言だった。ポン酒につられて和風に呼んでしまった。すかさず入るのは、先生の冷厳な突っ込み。まあ、それでもマスターはプロだ。苦笑いひとつ零さないのは、助かるというかばつが悪いというか。

「ベースはいかが致しましょう」

「ジンで。あと何か合いそうなもつけてくれるかな」

「畏まりました」

 にっこり頷いて、マスターは仕事にかかった。

 美作先生は喋らない。ぼくは酒面に目を落とすと、ちょっとだけグラスを傾けてみた。

 うす暗い店内のわずかな光を捉えて、手の中のグラスがちらりと光った。二色被せの鮮やかな色合いだろう薩摩切子のグラスは、しかしこの暗さでは黒ずんで見える。ただ魚子紋の豪気な手触りにずしりとした重みが、それが薩摩切子であることを疑いもなく示してくれる。マスターがいったい何を思ってこの暗い店内に煌びやかな切子を選んだのか、ぼくにはよく分からない。

 軽くウィスキィを煽ると、目を美作先生に移した。特に用事はないけど、ちょっと気にはなったのだ。ポン酒以外のものを奢られるかれが、どんな顔をしているのか。

 でも、先生の顔色は切子の色よりも闇のなかだった。何食わぬ顔で相変わらずとくとくと猪口を満たしては、それを乾す。ただし今度はくいくいと飲むのではなくて、舐めるように飲む。

「本題に戻ります。それはおのれが分からない。それだけのことではありませんか」

「え?」

 半分は興味、半分は恨みからなる期待を裏切られてふてくされ気味だったぼくは、いきなり発せられた言葉に、呆気にとられた。

 それが先の命題への試問だとは、かれが続けるまで分からなかった。

「同病相哀れむ。それを先生は偽だと仰る。その意はひとの痛みがそう易々と分かるものではないこと。しかしそうでしょうか。逆におのれの痛みが分からない。だからこその事象ではありませんか」

「ええと、それはあれかい? ひとの痛みが自分のよりどうかじゃなくて、自分のそれこそがひとのよりどうか。そこが分からないってことかい?」

 猪口が揺れた。首を縦に振ったらしい。なるほど、字面的な意味はそれで分かった。だが、それだけにぼくは、首を傾げる。すなわち、

「それって、どう違うんだい?」

「同じでしょうね」

 拍子抜けした。いったい先生は何を言いたいのだろう。

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