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金物は腹に入らないから、盗ったことがなかった。ナイフを握ったことくらいはあるが、剣というのがこれほど重い物だとは知らなかった。馬車道にまだ僅かに残っている
この世の理不尽に絶望したことは一度や二度ではなかった。自身の境遇を呪うこともあったし、腐敗した国への憤りも幾度となく覚えた。
が、今は全てを忘れていた。あの男が穢れた手で少女に触れている、ただそれだけが許せない。短絡的で衝動的な怒りと憎しみは、全て目の前にそびえる屋敷の当主に注がれていた。
門の前に立っていた衛兵は、少年が引きずっているものが本物の刃を携えているとは露も思わなかったらしい。突き飛ばそうとした腕の動きを見切り、身体を横に回転させる勢いを刀身の重みに乗せて、衛兵の脇腹を斬る。いや、叩く。
人間の肉というものは刃と触れ合えば容易く寸断できるものだと思っていたが、どうやらそう簡単ではないらしい。もっとも、衛兵は動かなくなったので、どちらでもよかった。鉄製の門扉を押し開け庭園に入る。花に水をやっていた若い男の召使いがこちらに気づいて無警戒に歩み寄ってきたので、今度は振りかぶって脳天に振り下ろした。やはり斬れず、召使いの頭はぐちゃりと
◇ ◇ ◇
叩いた。叩いた。もう自分が手にした得物が本来持っている「斬る」という役割など忘れていた。纏ったぼろ布は返り血には染まらず、代わりに手の皮がずるずると剥けて剣の柄が少年の血ばかり吸い上げた。
窓から差していた茜が黒に染め直される間に、屋敷の中にあった呼吸の数はひとつまたひとつと消えていった。廊下にあった甲冑の陰に身を隠していた女中を問い質すと、滅茶苦茶にどもりながら当主が最上階にいることを教えてくれた。
赤い
酷く刃こぼれした剣で、観音開きになっている扉の境目辺りを手当たり次第に殴りつける。鍵を壊すまでにかかったのは実際には数分だっただろう。少年にとっては途方もなく長い時間であったように思われた。
叩いて、叩いて、叩いて、壊して。
辿り着いた先の少女は、もう。
壊されていた。
純白のドレスは乱暴に引き裂かれ、両手は天井から伸びた鎖によって頭上に
切れた唇と腫れた瞼で、少女は少年を見て虚ろに笑った。ひゅうひゅうと喉の辺りから微かに音が漏れている。早鐘を打つ少年の心音にすら掻き消されそうな音量で繰り返されるそれが、今の少女に出せる精一杯の叫びであることが分かった。
初めて見た少女の笑顔も。
初めて聞いた少女の声も。
初めて託された少女の願いも。
全て、壊れていた。
部屋の隅に、毛布を被ってがたがたと震えている男の姿を見た。もう腕に力が入らない。剣を振るう力など残っていない。上手くやれるだろうか。
少年は恐らく人生で初めて、神に祈った。最後の一振りを──。
少女に。
◇ ◇ ◇
窓の外、遠くで花火が上がった。どうやら王宮で舞踏会が始まったようだ。
少年は空腹を思い出し、胸元を探る。しかし屋敷で剣を振り回すうちにどこかに落としてしまったのか、懐にしまい込んだはずのパンは見つからなかった。勿体ないことをしたと後悔した矢先、どっと全身に衝撃が走り、五体から力が抜ける。昼間、馬車の中の少女に見とれて従者に斬られそうになった時と同じような感覚で、少年は床に崩れ落ちた。
違ったのは、身体の上に覆い被さっていたのがパン屋の主人ではなく全裸の醜悪な男であったことと、己の脇腹に深々と短剣が突き刺さっていたことだった。何やら豚の鳴き声のような叫びをあげながら這い転がるように部屋を出ていった男の後ろ姿を見送り、少年は静かに瞑目する。
こんな自分の祈りが届いたのだから、やはり神はいるのだろう。
ぼろ布を赤く染めるのは、少年自身から流れ出る鮮血と、彼が密やかに愛した一人の少女の返り血のみである。
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