2

 明くる日。

 少年は自分の上半身ほどもある大きさのパンを抱き、店のドアを蹴り飛ばすようにして通りへと転がり出た。ここは少年にとって「お得意様」であり、もう幾度盗みに入ったか分からない。パン屋の親父は、少し走っただけで息切れを起こすくらい醜く肥え太った身体で、それでも毎度毎度懲りずに少年を追いかけ回した。

 無駄なのに。

 そうやって俺を追いかけるためにあんたが出払ってる間、あの病気がちな奥さん一人に店を任せなきゃならないのに、そんなことも考えられないのかね。

 少年は石畳を風のように走り抜けながら、ふと前方の様子がいつもと違うことに気づいた。人々が左右に道を開け、分かたれた道の真ん中を、数十もの従者を引き連れた二頭立ての馬車がこちらに馬頭を向けてのろのろと闊歩かっぽしているのが見える。この国の装束ではない。異人だ。

 そういえば今夜、王宮で舞踏会があると聞いた。そこに招かれた外国の金持ちだろう。

 邪魔だ、としか思わなかった。

 脇道に入るか。いや、あそこの路地は袋小路になっていて逃げるのに窮するし、こちらは野犬の溜まり場になっている。このまま行列の脇をすり抜けるしかない。

 少年が覚悟を決めて地面を蹴ったのを見て、先頭にいた従者がやや警戒するようにこちらを睨み、右手を左の腰辺りにやった。佩刀している。

 勘弁してくれ、と思った。

 仕方なく速度を落とし、行列を通すため左右に追いやられてごった返している人ごみの中を行く。

 時折肩をぶつけ、足を踏まれながら、ようやく行列の中ほどを行く馬車の辺りまで来た時、中に座っているのはどんな奴なのだろうと少年はすれ違いざま一瞥いちべつした。

 一瞥、の、はずだった。 

 次の瞬間、少年はその場に立ち尽くしていた。目を奪われ、足を動かすことも忘れ、その場に縛りつけられるように、馬車の中にいた人物──うつむいている少女を、ただ、見つめていた。

 年の頃は少年と同じか少しだけ上くらいだろうか。肩口まで伸びた黒髪は春光にきらめき、細い首に巻かれた金の装飾品の先には鮮やかな緑色の石が光っている。

 少年は無意識に一歩、行列の方へ、少女の方へ、踏み出していた。馬車のすぐ側を歩いていた従者が剣のつかに手をかける。親指の先で刃が鈍く光った。

「下がれ!斬るぞ!」

 この国のものではない、しかし直感的に意味を察知できる程度には似ている体系を持った言語で、従者が叫ぶ。行列が動きを止め、少年の周りから人の波が引く。

 それら全て、少年の意識には届かなかった。異変に気づいた少女が顔を上げ、こちらを見遣る。薄い唇、すっと通った鼻筋。淡い褐色の肌は、少年のように日に焼けてそうなったものではない生まれながらの気品を確かに携えて、彼女を包んでいた。

 目が合う。青い瞳が、微かに潤んでいるように見えた。

 なぜ?

 少年はもう一歩、吸い寄せられるように少女に近づく。従者がまた何か叫んで、抜き身が上段に構えられた。刀身が大きく振り下ろされると共に、少年の身体は石畳の上に倒れ伏した。



◇ ◇ ◇



「おめえ、何やってんだ!死にてえのか馬鹿野郎!」

 薄暗い路地で、パン屋の主人が滅茶苦茶に怒鳴り散らしている。対面にいる少年は、まだ夢ともうつつともつかない顔で、されるがまま主人に肩を揺さぶられていた。二人の身体のあちらこちらに、生々しい擦り傷がある。

「なんで俺が自分の店に入った盗っ人を助けて!謝って!あと少し飛び込むのが遅かったら斬り殺され……つうか俺ごと殺されるところだったんだぞ!」

 主人は纏まりのつかない感情のままにまくしたて、少年の腹が物凄い音で鳴ったのを聞き、呆れ返ったように苦笑して溜め息をついた。

「……食えよ」

 少年の肩から手を放し、主人は背後の壁に寄りかかった。少年は素直に従い、大口を開けてパンを頬張る。その姿を見て、今度は主人は可可かかと笑った。

「なんで俺が毎度毎度お前を追っかけ回すか分かるか?」

 少年は答えない。パンが口の中に入っているから、答えたくても答えられない。

「お前みたいなガキにいつまでも街中をふらつかれてちゃ迷惑だからだよ」

 大方言おうとしていたことそのままの文句を突きつけられた。

 そりゃそうだろう、と思う。だが、食うためだ。仕方ない。どうせこの後憲兵隊の前に突き出されるのだから、最後の情けとして提供されたこのパンは何としても全て腹に収めねばならない。

「このまま憲兵にてめえを引き渡しても、うちにゃ一銭も返ってこねえ」

 なら殺すか。そうだ、殺すよな。しかしどうあれ、このパンは何としても全て腹に収めねばならない。

「だからよ、おめえよ」

 主人は少し言い淀んだ。

「うちで働いてみねえか」

 二言目、思ってもみない言葉が飛んできた。少年は思わずパンを喉に詰まらせかけて、胸をどんどんと叩く。

「盗みしか知らねえんじゃ、盗みで生きてくしかねえ。俺がそれの作り方しか知らないのと同じだ」

 主人は顎をしゃくった。少年は自分が抱えているパンに目を落とすが、主人の言わんとしている意味がいまいち理解できなかった。

「人間ってのはな、最も効率のいい方法を模索する生き物なんだ。おめえは今はまだガキんちょでひょろひょろなぶんすばしっこいから、店から商品をかっぱらって逃げる、それが一番手っ取り早い。だけどよ、もう何年もしないうちに、おめえの身体は大人になる。大人の男になる」

 言われた少年は、改めて己と正対している主人の姿をまじまじと見た。腹回りはどう見ても倍近くはあるし、体重に至っては倍では到底利かないだろう。しかし、初めて盗みに入った時には見上げるようだった目線の高さは、いつの間にかほとんど同じくらいになっていた。

「大人の男ってやつが、他人から……自分より力の劣る女や子供や年寄りから、何かを略奪するのにどうやるのが一番手っ取り早いか知ってるか?」

 言うが早いか、主人は素早く右手を伸ばして少年の首筋を鷲掴みにした。少年の細く軽い身体は、危うく宙に浮きかける。

 どんな説教よりも重い説得力を持ったその腕力に、少年は主人の言わんとするところを思い知らされる。

「このままおめえが盗みを続ければ、遠くないうちに必ずこうやって自分より弱い人間を力で服従させるようになる。スリやかっぱらいが軽い罪だなんて口が裂けても言えねえが、暴力で他人から何かを略奪するようになったり終わりだ。己の欲のために他人の命や尊厳を奪う輩になったら、終わりなんだ」

 主人はそこでようやく力を緩めた。少年は手を払いのけ、咳き込む。

「そうなる前に、真っ当な道に戻ってこい」

 真っすぐに見つめられ、少年は返すべき反応に窮する。

「ま、パン屋の見習いが真っ当かどうかはともかくよ」

 言って、主人はまた歯を見せた。そこで初めて、じんじんと痛む喉元はそのままに、少年も不器用に笑った。

「うちのかあちゃんもよ、おめえのことは気にかけてんだ。……うち、子供いないしな。一人くらい、騒がしいガキがいてもいいかなと思ってる。いい年になって嫁さんでも連れてきてくりゃ、もっと賑やかになるしよ」

 嫁。

 少年の頬が少し赤く染まった。

「お?なんだなんだ、まさかいい人でもいるのかマセガキめ。参ったな二人分の寝床なんて用意してねえぞ」

 からかい混じりに笑う主人に、少年は慌ててふるふるとかぶりを振った。ぶんぶんとかぶりを振った。

 いくら頭の中から消そうとしても、馬車の中にいたあの少女の面影は消えてくれそうになかった。



◇ ◇ ◇



「明日の朝、必ず来いよ。かあちゃんに温かいスープ作らせとくから。うめえぞあれは」

 主人はこの足で店に来いと勧めてきたが、少年は断った。深い意味はなく、ただなんとなく気持ちの整理をつけたかったのと、孤独な夜を最後にもう一度だけ噛み締めておきたかった。

 今まで盗まれた分こき使ってやるから覚悟しとけ、と背中で捨て台詞を吐きながら、主人は頭の上で手を振り振り、路地裏から去っていった。

 感謝の言葉など口にしたのはいつ以来だろうか。

 もう腹を空かせたまま朝を迎えることなどないのに、いつもの癖で明日の分のパンを懐にしまった。

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