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「おい、こら待てクソガキ!」

 果物屋の店主の怒鳴り声が響いた。両手に林檎を鷲掴みにした裸足の少年が石畳の大通りを駆けていく。

 狭く暗い逃走経路など選ばずとも、人ごみをすり抜ける方がずっと追っ手を撒き易いことを、少年は知っていた。道行く人々は嫌悪と侮蔑が入り混じった目で少年を見ることはあっても、一介の他人でしかない少年を捕まえようとする者はない。

 途中、豪商らしき男と談笑している憲兵と鉢合わせになった。明らかに互いの存在を認識し合ったにも関わらず、少年は足を止めなかったし、憲兵は何も見なかったように目を逸らした。

 少年は知っていた。彼は、彼等は、大事な商売の話をしているのだ。二人がくゆらせている葉巻の煙一吐きほどの価値もない赤い球体を抱えて逃げる少年に割く時間など、持ち合わせていない。




◇ ◇ ◇



 よく晴れていたので、少年はいつもの路地裏ではなく、町外れの高原まで足を伸ばして馬車道の脇にある石碑の前で足を止めた。ここに来るたび、幼少の頃に父に連れられてこの石碑の由来を教授されたことを思い出す。数十年前に隣国の侵略を受けた際、この高原で勇ましく戦い、そして死んでいった救国の戦士達を讃えるために作られた『有難い』ものらしい。

 靴磨きで生計を立てていた父も、もちろん少年も、字が読めなかったので、そこに彫られている碑文が何を意味しているのか分からないし、今ではもうこの石碑の前で足を止める者はほとんどない。

 少年にとってこの石の塊が『有難い』とすれば、こうやって腰を下ろして高原を吹き抜ける風を感じるのに丁度よい大きさと座り心地であるというだけだ。

 林檎をかじる。暗く湿った路地裏で食うより幾分旨いもののように錯覚してしまうが、喉から腹に落ちれば結局同じだということに少年は最近になって気づいた。

 父は言っていた。先の戦争で散っていった祖国の英霊の御霊みたまは天国に上り、侵略者の魂は地獄に落ちたのだ、と。「天国と地獄とでは、どちらが腹が減るのか」と尋ねると、父は困ったような顔で少年を抱き締めた。抱き締めるだけで答えてくれなかったので、少年は問いの答えを未だ知らない。

 いつものように明日の朝食べる分の林檎を懐に突っ込み、少年は浅黒く細長い身体をだらりと石碑の上で仰向けに横たえた。

 太陽が眩しい。そのまま更に首を後ろにもたげる。

 逆転した天地、視界の先に人影が見えた。黒い服を着た男が片手に書物を携え、何事かわめいている。周囲の人々は彼の前にひざまずき、固く手を組んでいた。

「神は幾多の苦難を甘んじて受け入れ、民を救うためにただ祈りを捧げ続けました」

 耳を傾けてみると、そんな文言が聞こえてきた。

 宣教師、というやつだ。国王が代替わりして国が荒れ始めてからにわかに増え始めたらしい。他国からはるばるやってきて、神様の教えを無学な人民に説くのが生業だという。こう書くと大層な仕事のように思われるが、見たところ汗水垂らして働くでもなく、週末にこうやって人を数十人集めて経典とやらを朗読していれば務まる類のものらしい。

 少年は学問というものを頭から小馬鹿にしていたが、ああやって金を稼ぐこともできるのなら文字を学ぶのも悪くないと思い直す。

「偉大なる神の恩寵おんちょうの下、人は皆生まれながらにして平等なのです!」

 初夏が匂い始めた高原に高らかに響いたその声と共に、黒服は満足げな表情を浮かべて大仰な所作で右手の書物を閉じ、こうべを垂れた。

 拍手が起きる。歓声が上がる。涙を流して黒服に縋りつく者までいる。

 少年も仰向けで背中を石碑にべったりとくっつけたまま、ぱち、ぱち、ぱちと手を合わせて音を鳴らしてみた。

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