第三話 ター子の競泳水着

 その日、我が家の食卓には皿のひとつもなく、代わってそこにあったのはシワくちゃになった小さな茶色い紙袋だった。

 妻はこちらと目を合わせることもなく静かに口を開いた。


「ねぇ、説明してくれないかな、これ」


 その瞬間、私は自分の顔が見る見る紅潮していくのを感じた。続いて高鳴る動悸と微かな耳鳴りが私を包み込んでその五感を痺れさせていく。

 妻の姿がやけに遠くに感じた。その口から発せられる声にも意味を見出せず、まるで波長が合わないラジオのようなコチャコチャとした音にしか認識できなかった。


 その中身を私は知っている。思い出のガラクタとともに押入れの奥深くにしまい込んでいたそれをなぜ妻が見つけたのか。いや、そんなことはどうでもいい、とにかく今はこの難局をどうにかしなくては。


「そ、それは……」

「これってかなり古いものよね、見ればわかるわ。こんな型の水着なんて今はないもの、それも女性用の競泳水着なんて」


 私はこの場を取り繕うべく最適解を探した。熱でのぼせた頭はかえって血行がよくなったのか無駄にグルグルと回転した。

 そしてたどり着いた結論は、すべてをすっかり話してしまうことだった。私自身が心の底に押し込んだままにしていたあの出来事のことを。



――*――



 夏を制する者は受験を制す。

 中学三年の夏休み、私は地元の進学塾が主催する夏期講習会に参加していた。市内にある私立高校の校舎を借りての講習会、エアコンのない教室では生徒も講師も汗だくになって難問に挑戦していた。

 それでも熱中症にならずに済んだのは全開の窓から吹き込む風おかげだったが、その風は爽やかさだけでなく教室のすぐ向こうにあるプールで日々練習に励む水泳部員の号令までも運んできた。


「それにしても、うるさいなぁ」


 講師はぼそりとそう言うと教壇側の窓を閉める。しかしそんなことは気休めにもならなかった、なにしろ他の窓は開けたままなのだから。


 朝から続いた授業が終わるのが午後の三時半、校舎を出ると右手にもう誰も居なくなった教室を、左手にプールを囲む金網を見ながら私は帰路に就く。そのプールではまだ泳ぎ足りない部員たちが自由に練習を続けていた。

 彼らが身に着ける競泳タイプの水着はみなビビッドなカラーだった。

 スクール水着とは違うんだ、そんな彼らのプライドと熱意が微かな風に乗ってプール特有のカルキの匂いとともに伝わって来るようだった。


 ここは中堅クラスの進学校、今では真っ黒に日焼けした部員たちもかつては受験生だったのだろう、そんなことをぼんやりと考えながら歩いていたそのときだった。目の前の金網の向こう、すぐ目の前で一人の女子部員がプールから顔を出した。

 彼女が両腕に力を入れると鍛えられた上腕に筋肉が浮かび水着に包まれた上半身が現れるはずだった。


 まさか……裸? 彼女は、裸なのか?


 不意を突かれた私はその姿をもう一度見直した。

 するとそこにはブラウンの競泳水着、他の部員たちと同じく真っ黒に日焼けした身体からだに張りついていたそれは、その色と肌の色が同化してあたかも裸のように見えたのだった。

 水から上がった彼女の姿は魅力的だった。無駄のない、しかし痩せぎすではない身体からだに張りつく皮膚と同色の水着はそろそろ傾きかけた日差しの中で濡れた光沢に包まれていた。


 薄い生地が見せる曲線と陰影に私の目は釘付けになった。窮屈そうな胸に浮かぶ小さな影、脇腹の滑らかな曲線から下に目を向けるとそこには水泳の授業で着るのとは異なるハイカットのVラインと引き締まった尻の膨らみがあった。

 正直それは、衝撃的だった。

 頭の中に響き渡る早鐘のような動悸、夏の暑さとは違う汗が噴き出しているのがわかる。

 まずい、このままでは気付かれる。

 しかし焦る心も虚しく私は目を逸らすことができなかった。

 そしてついに彼女と視線が合う。

 すると彼女はまるで異質なものを見るような目で私を一瞥すると速足でプールサイドの向こうに去っていってしまった。私は彼女の後姿を目で追っていたものの、しかし、えらくバツの悪さを感じてその場から早々に立ち去ってしまったのだった。


 その晩の私は勉強などまったく手に付かなかった。頭をよぎるのは午後の日差しに映える競泳水着姿の彼女、焼けた肌と同色の水着のサイドにはオレンジ色のラインが走っている。それが描く滑らかな曲線が身体からだの線を露わにしていて、そんな姿を無防備に晒しているさまに得も言われぬ興奮を覚えていた。

 それはまさに欲情そのものだった。

 勉強に集中できないまま私はベッドに横になった。そして気がつくと私の右手は本能的にむずむずと落ち着かないその部分をまさぐり始めていた。

 それは私にとって生まれて初めての行為だった。



 春、私は新たな気分で高校生活を送っていた。背伸びをせずに選んだそこで私は成績上位集団の一人となっていた。

 それは梅雨も明けて一学期の期末試験を間近に控えた初夏のある日のことだった、私の席に一人の女子生徒がやって来た。名は何と言ったか、同じクラスなのに彼女と会話したのはそのときが初めてだった。


「あのさ、お願いがあるんだけど……」


 彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべながら数学を教えて欲しいと言ってきた。

 私は彼女を見上げる。

 まるでパーマが解けかかったような緩いウェーブを描くショートヘアは脱色でもしたかのような赤茶色で特にその先端部分はオレンジ色に近かった。よい返事を期待する明るい茶色の瞳と浅黒い顔にそばかす、それが一見するとヤンキー少女のように見える彼女に明るいあどけなさを感じさせていた。


 人に教えることで自分の理解も深めることができる。そう考えた私は彼女の願いを二つ返事で快諾した。それから試験までの数日間、私たちは毎日放課後の教室で試験対策と称して数学を復習した。

 日を追うごとに私は彼女と二人で勉強すること、いや二人で過ごすことに安らぎを感じるようになっていった。そして試験は終わった。もうこれで彼女と放課後を過ごすことはないのだろう。


「ねえ、試験の打ち上げしよ」


 彼女のそんな言葉に誘われて放課後に二人で向かったファストフード店、それは私にとって生まれて初めて経験する「デート」というものだったのかも知れない。ぎこちない私を前にして、バニラ味のシェイクを手にした彼女の口から出た言葉は予想外だったが、しかしとてもうれしい一言だった。


「これからも勉強教えて欲しいな」


 そのときの胸のときめきを私は今でもハッキリと覚えている。その店で何を注文したのかは忘れてしまったが目の前で無邪気に微笑む彼女の顔は今でも私の脳裏にしっかりと焼き付いている。



 夏休み、私は彼女の家に足繁く通った。常に教科書やノートを入れたバッグを携えている自分を両親も笑顔で送り出した。

 彼女の住まいはターミナル駅からひとつ隣の駅前のそのまた場末にある飲食店街にあった。バラック建築の長屋の一軒、くすんだ看板のスナックがそれだった。母ひとり娘ひとりの母子家庭、母親は夫が残したお金を元手にこの小さなスナックを開いて娘を育てていたのだった。

 店のフロント脇にある黒いメラミン合板のドアに呼び鈴はなかった。傍らにある小さな郵便ポストには滲んだ文字で彼女の苗字があった。

 私は周囲に気を遣いながらそのドアを軽くノックする。

 するとサンダルをつっかける音ともともに「は――い」と言う声が聞こえた。それは紛れもなく彼女の声だった。


 小さな玄関から上階うえに続く階段、彼女は母親と二人でこの店の二階に住んでいるのだった。


「お母さんが店の奥で寝てるから上に行こ。あたしの部屋だけど」


 通されたのは二間続きの部屋、彼女の部屋、と言うよりもスペースは、奥の窓辺の一角だった。古ぼけた学習机に本棚、それとテーブル代わりのコタツがあった。

 初めて通されたその部屋はあまり女の子っぽくなかったが、私にとっては十分に新鮮で、とにかくその日は緊張で落ち着かず、しかしそれを悟られまいとやたらと饒舌になっていたことをハッキリと覚えている。


 こうして私たちは彼女の部屋の小さなコタツに寄り添うようにして毎日のように過ごした。彼女の母親も薄々気付いていたのかも知れない、昼過ぎまで店の奥で仮眠をとって夕方からは仕入れと称して買い出しで家を空けるのが常だった。なので私たちは毎日、下階したで母親が仕込みを始めるまでの間、ほぼ一日中二人きりで過ごしていた。


 初めのうちは勉強と雑談が半々だったが、学校での出来事や互いの身の上話に終始するようになるまでにそう時間はかからなかった。

 彼女の名は武子と書いて「たけこ」と言った。その名を嫌いだと言いながら彼女は名前の由来を話してくれた。

 それは父親だった人がつけた名前、彼は男の子が生まれてくるものだと思い込み、名は「武士」あるいは「武」と書いて「たけし」と読ませるのだ、と決めつけていた。しかし生まれて来たのは女の子、彼にとってそれはまったくの想定外だった。そして生まれて来た子に付けた名が「武子」だった。

 彼女曰く、小学校では「タコ」、中学校では一部の男子生徒たちから「ブー子」と呼ばれてからかわれていたそうだ。

 そんな話を聞いた私は彼女を「ター子」と呼ぶことにした。その呼び名に彼女は少しはにかんだ顔で小さく頷いた。


 それからの私たちは毎日のようにあることないことをしゃべりながら二人だけの時間を楽しんだ。彼女も母子家庭であることや下階したの店、場末なスナックに来る酔客の話などを面白おかしく話してくれた、もちろん彼女自身のことも。

 ター子は中学二年までスイミングスクールに通っていた。小柄ながらも筋肉質な彼女はパワーとスピードを兼ね備えた選手で大会でも良績を残していた。そして将来を期待されて選抜クラスに抜擢されたのと同じ頃、彼女の家は理由わけあって母子家庭になってしまう。そして周囲の説得も虚しくスクールを去ることになった。

 しかし実力があるター子を引き留めておきたかったコーチたちは彼女に子供向け教室のインストラクター助手という仕事を用意した、生活が落ち着いたらいつでも復帰することができるように。


「だからこの髪の色はブリーチじゃなくて、プールのせいなんだよね」


 そう言ってター子はケラケラと笑いながら赤茶色のクセっ毛を指でくるくると弄んで見せた。


 スイミングスクールにインストラクター、その瞬間、私の中に競泳水着姿のター子の映像が湧き上がった。まだ見たことのない彼女の水着姿ではあるが、それは今も私の脳裏に焼き付いているあの光景がそれを補完した。

 きっとこの夏もター子はバイトがある日はプールで……。

 彼女を目の前にしながらそんなことに思いを馳せてしまったそのときの私はまるで思いつめたような顔、少なくとも彼女にはそう見えたのだろう、心配そうな面持ちで


「どうしたの?」


と覗き込むように顔を近づけて来た。

 私はひとつ、ふたつと小さく息を整えてから意を決して口を開いた。


「実は、聞いて欲しいことがあるんだ」


 私はあの夏のこと、褐色の肌に茶色の競泳水着を着たあの女子部員のことをター子に話した、今でも心に刻まれているあの衝撃とともに。さすがにその晩に自分がしたことは隠したが。

 すると彼女の顔からも笑顔が消えてしまった。

 失敗した、やはり話すべきではなかったか、こんなこと。

 私はター子と過ごすこの毎日を失いたくなかった。すぐさま頭の中を取り繕いの言い訳が駆け巡る。しかしそれはまったくの杞憂だった。

 ター子はいたずらっぽい笑顔を見せると、


「着てあげようか」


と言って小さな洋服ダンスの前に向かった。


「ちょっとあっち向いててくれるかな」


 背後に聞こえる衣擦れの音に混じってゴムが肌を叩くパチンという音が聞こえた。そして彼女の「いいよ」の声、私は恐る恐る振り返った。

 果たしてそこでは以前に身に着けていたものであろう少し旧いデザインの競泳水着を着けたター子が恥ずかしそうに微笑んでいた。

 女性にしては骨太かと思わせる肢体は水着だけになると思いのほかスラリとしていた。

 成長期に水泳で鍛えられたであろう広めの肩から伸びる上腕は十分な筋肉がついていた。胸の膨らみから続くボディーのラインはスッとくびれたプロポーションで、これもまた筋肉質ではあるがスラリとした足が伸びている。

 使い込んで少しばかり色が褪せた紺色の水着が見せる色黒の肌とのコントラストはあの夏の光景とはまた違った質感を演出していた。


 見慣れた茶色の瞳とそばかすの顔がやさしそうに私を見下ろしていた。

 同時に褐色の肩に食い込む細い肩紐から続く懸垂カナテリー曲線のような胸元が否応なしに私の目に飛び込んで来る。張り裂けそうな生地の光沢が微かに浮かぶそこには決して小さくはない二つの膨らみが、そしてその頂点には水着の締め付けに抗うかのように一対の小さな蕾がその存在を主張していた。


 やられた!

 それはまるで頭をぐわんぐわんと揺さぶられるような衝撃だった。

 私にとってトラウマとも言えるあれは金網で隔てられた向こう側のことだった。だが今は違う、手を伸ばせば触れることができるくらいすぐ目の前にそれがあるのだ。

 触れてみたい、さわってみたい。

 でもそれをしてはいけないと思った。ター子がここまでのことをしてくれたなんて自分には十分過ぎることなのだ。とにかくこの姿をしっかりと目に焼き付けておくのだ、それだけでよいのだ。私は自分自身にそう言い聞かせた、必死に、とにかく必死に。


 するとター子はいつもそうするように、私の隣に寄り添って座ると身体からだをあずけるように私の肩にもたれかかってきた。

 ター子の微かな息遣いが聞こえた。触れ合う肌を通して彼女の鼓動も伝わってくる。それは私と同じくやけに速いリズムを奏でていた。

 こうしてその日の私たちは何をするわけでもなく、いつまでも、ただただふれあうだけの時間を過ごしたのだった。



 それからの毎日、ター子は部屋着の下に必ず水着を着けてくれていた。最初はおっかなびっくりだった私も彼女の腰に手を回して密着し合うようになるまでにそう時間はかからなかった。


 滑らかな曲線を描く腰のラインに手を当てると水の抵抗を逃がすためのステッチが指先に触れる。そのラインをなぞるように指を滑らせて、そのままわき腹に軌道を変えると締まったながらも柔らかい肉感を覆う化学繊維の独特のなめらかな質感を感じることができる。そのまま指先を戻してステッチの反対側をなぞっていくと大きく開いた背中の筋肉を感じることができた。

 そのあたりに敏感なポイントがあるのだろう、そのときター子は身体からだを一瞬ビクッと震わせると少し息が荒くなるのだった。


 やがては私も下着一枚になって水着姿の彼女に身を委ねるようになる。そのうちどちらともなく自然に唇を重ね合わせるようになったが、それ以上の関係に進むことはなかった。

 下階したでは彼女の母親が眠っているのだ、それが歯止めになっていただろうし、しかしなにより私たち二人はこうして密着して触れ合うだけで十分に満足していた。

 いや、正直に告白しよう。少なくともあのときの私はそれ以上の関係に進むことでのめり込んで行くことに怖さを感じていた、すなわち一線を越えるだけの度胸がなかったのだ。

 高校一年の夏休み、私にとっての想い出は、ター子と過ごしたそんなぎこちなくも甘酸っぱい日々だった。



 それは八月のまだ暑い盛り、世間ではお盆休みを前にして皆がせわしなく汗をかいている頃のことだった。いつものようにター子の家を訪れたとき、店の入口に夏季休業の張り紙を見つけた。彼女の母親が書いたのだろう、カレンダーか何かの裏にサインペンで一週間の休業が記されていた。

 私は黒いドアを静かにノックすると彼女の返事を待たずにドアノブをひねった。パジャマ代わりの裾が長いシャツの下にはいつものようにター子は競泳水着を着ているのだろう。そしていつもそうするように私たちは服を脱いで互いに薄くなめらかな触感に身を委ねるのだった。

 やがて彼女の母親が仕込みの買い出しに出たのを見計らって私も彼女の部屋を後にする。階段下の小さな土間に下りたとき、彼女は優しい笑みとともに静かに口を開いた。


「明日からしばらく会えないの。お母さんと田舎に帰るから」

「そうか、そういえば表に張り紙があったな」

「うん……」

「いつ帰って来るんだっけ?」

「一週間の予定だけど、田舎のおばあちゃんの具合がよくなくて、あたしだけ残るかも」

「でも新学期には学校に来れるんだろ?」

「……うん」


 最後に彼女は私と目を合わせることなく、うつむいたまま儚い声で答えた。


 それからの一週間、彼女からの連絡も返信もない日々が続いた。いないとわかっていても何かを期待しながらついつい彼女の家の様子を確認してしまう。こうして私は悶々とした毎日を過ごした。

 そして十日が過ぎたころ、一通のメールが私の携帯電話に届いていた。


「渡したいものがあります」


 きっとお土産でも買ってきてくれたんだろう、私は期待に胸を膨らませつつ彼女の家を目指してペダルを漕いだ。

 そして黒いメラミン合板のドアの前に立つ。

 しかしその日はいつもと様子が違っていた。何が違うのかはハッキリとわからなかったがその静けさは人の気配を全く感じさせない静けさだった。

 ドアノブに手をかけようとしたとき、見慣れたそこに見慣れぬコンビニ袋が下がっていた。

 私はそれを手に取る。

 白い袋の中には茶色い紙袋があった。瞬間、私の顔から血の気が引いていくのがわかった。イヤな予感がする。続いてうるさいほどの鼓動が耳の奥で踊りまくる。私は震える手で紙袋を少し開いて中身を確認した。

 果たしてそこにはター子がいつも着ていた競泳水着が小さく折りたたまれていた、二つ折りのメモ書きと共に。

 小さな紙片にはこう書かれていた。



  ちゃんと話ができなくてごめんなさい

  いらなかったら捨ててください



 私はすぐにメールとメッセージを送った。しかし虚しくもエラーが返ってくるだけだった。

 私は袋をバッグの中に押し込むと急いでその場を後にした。そして袋はそのまま机の引き出しの奥底に隠すようにしてしまい込んだのだった。



 新学期が始まった。

 初日のホームルームでは担任の口からター子が家庭の事情で退学したことが伝えられた。教室内に一瞬のざわめき、しかしそれはすぐに静まり、その日のうちに彼女のことはみんなの記憶から消えてしまったかのようだった。まるでそこにはター子などと言う娘は居なかったかのように。



 私の中でター子との日々が想い出になろうとしていた九月のある日、私は久しぶりに彼女の家を目指していた。鉄道線路に沿うように走る細い道の先、毎日のように見ていたあのバラック長屋は既になく、そこはすっかり更地となっていた。

 残土のような乾いた土を前にして私は自分の手を見る。そのときほんの一瞬だったが確かに彼女の柔らかな温もりが薄手の化学繊維の触感とともによぎった。彼女の面影は薄れかけても触感だけはしっかりと手の中に残っていたのだった。



――*――



「ふ――ん」


 私と目を合わせることなくつまらさそうに妻は口を鳴らした。そのまま黙って立ち上がると浴室に向かう。が、思い出したようにこちらを振り返ると戻って来て目の前の紙袋を掴む。そこで妻はようやっと私と目を合わせた。


「これは預かっておくわ。もちろん勝手に捨てることはしないけど、あなたのトラウマみたいなものって解ってても、でもいい気持ちはしないもの」


 程なくしてシャワーの音が聞こえて来る。まさか妻はあれを着ようと言うのか……いや、さすがにそれはないだろう。

 私は妻が競泳水着に身を包んだ姿を一瞬思い浮かべては見たものの、すぐさまそれを頭の中から打ち消した。



 それからの二、三日、私は妻を顔を合わせることがないよう残業やら飲み会やらを理由にして終電で帰宅していた。そして週末がやってきた。

 妻はもうあの紙袋を処分しているだろうし、そろそろ許してもらえるだろうか。

 私は妻にご機嫌伺いのメッセージを送ってみた。


 帰宅するとめずらしく妻が玄関先まで出迎えに来た。どうやらもう怒ってはいないようだ。私はホッとしながら「ただいま」と挨拶する。

 あらためて妻の姿に目を向けると彼女にしてはめずらしくロング丈のシャツ一枚の姿だった。色白のスラリと伸びた足にかつて互いに毎日のように求め合った記憶がよみがえる。

 やはりもう許してくれたのか。

 それにしてもなぜシャツだけなのだ?

 そう思った瞬間、私の目に白いシャツの薄手の生地の下にうっすらと見える黒いシルエットが飛び込んできた。


 ま、まさか……。


 私がそれに気付いたと同時に妻は恥ずかしそうに微笑むとその裾を少しだけたくし上げた。

 そこに現れたのはハイレグほどではないが鋭角を描く黒い競泳水着だった。


「最近のってすごいのね。キッツキツで着るのがほんと大変だったわ。あっ、誤解しないでね、ワタシが太ったってわけじゃないんだからね」

「あ、ああ……」


 私は言葉を発することができず、玄関先でただ呆然とするばかりだった。妻が私の手を掴んで腰のあたりにエスコートする。私の指先に触れたのは張り詰めた光沢に包まれた滑らかな緊張感だった。


「勘違いしないでね。これはそういう目的じゃないから。最近ちょっと運動不足気味だからスイミングでもやってみようかなって思ったのよ。もちろんきっかけはあなたの想い出話だけど」


 そう言って妻はさっと踵を返すと「夕食の準備ができてるわ」と言ってキッチンに向かった。そしてアルミ製のツッパリ棒から下がる薄手の暖簾を片手でめくりながら私に向かって言った。


「ついでにあなたも会員登録しておいたわ。そろそろ目立ってきたそのお腹をなんとかしなきゃだし、小太りのフェチ中年なんてワタシは勘弁だからね」




第三話 ター子の競泳水着

―― 幕 ――



次回は

  「第四話 ボクと学販衣料」

でお会いしましょう。

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