第二話 セカンドスキン症候群

 吸って、吸って、吐いて、吐いて。

 スッスッ、ハッハァ―― 


 吸って、吸って、吐いて、吐いて。

 スッスッ、ハッハァ――


 これが私のリズム、ウォーキングをするときはいつもこの呼吸をキープするようにしているのダ。


 高まる体温とともに地肌に浮かぶ汗が、心地よい圧力で私の全身を包み込むコンプレッションウェアを通してさわやかな大気の中に発散される。そして歩くたびに、動くたびに、私の筋肉をなぞるように走るステッチが細胞の代謝を効率よくサポートしてくれる。

 私の気持ちはますます高揚し、そして歩く速度も上がっていく。するとそれに呼応するかのようにお気に入りのウェアはますますぴったりとフィットして、やがて私のすべてを抱きしめてくれるのダ。


 今日のウェアは黒をベースに蛍光ピンクのステッチ、少し小さめなサイズを選ぶのが私のスタイル。そのおかげで身体からだの動きに合わせてしなやかな光沢が腕や腿に浮かび上がる。

 トップスはシンプルにショート丈の白いシャツ、ボトムスにはステッチの色に合わせたショッキングに近いピンクのランニングパンツ、この組み合わせは私の一番のお気に入り。

 少し派手に見えるかも知れないけれど、ウォーキングするときは日常とは違う気持ちになりたいし、なによりこのカラーは自分の存在証明、すなわち交通事故の防止にもなる。だからこのコーディネートにはちゃんとした意味があるのダ。


 ベースのカラーにはネイビーブルーやチャコールグレー、迷彩柄なんてのも考えてみたけど、それに合わせるシャツやボトムスのことを考えたならば、やっぱりベースは黒がしっくりくる。でも黒ばかりではおもしろくないから、そのぶんステッチの色やラインのヴァリエーションで楽しんでる。

 今日着ているピンクステッチの他にはイエローにグリーンにブルー、これらはみんな蛍光カラー、それにホワイト。ありきたりな定番かも知れないけれど、だからこそどんなコーデにも馴染んでくれる。

 真っ白なウェアにも憧れるけど、あれは私が考える以上に他人ひとの目を引く。だからやっぱりウェアのベースは黒がよいのダ。


 そして私は今日も歩く、心地よい日差しとさわやかな風を受けながら。

 こんなひとときが私のお気に入り。何もかも忘れてただひたすらに歩くこの時間ときが今の私にとってはなによりも大切なのダ。



――*――



 子どもの頃も青春期もスポーツなんて全然好きじゃなかった。そんなことよりもカラオケで歌ったりマックでダベってるだけで十分満足してた。そんな私が天気のいい休日には何をさておいてもウォーキングに励むようになったのはやっぱりアイツ、あの男のせいだ。

 あの男、アイツと私は高校の卒業式の日からつき合い始めた。

 どうやら高校生活三年間、アイツはずっと私を想い続けていたらしい。包容力があってどんなことでも許容してくれそうな懐の深さって、ちょっとちょっと、それって女性が男性に抱く想いだと思うんだけど、なのにアイツは男のクセに女の私にそんなことを言ってきた。

 そしてアイツはアイツなりに覚悟を決めて最初で最後の賭けに出た。


「つきあってください!」


 確かに父一人娘一人の父子家庭だった私は他のにくらべたら世話焼きな方だったし、だからアイツは私に母性みたいなものを感じていたのかも知れない。でもそれって恋愛感情なのかなぁ、ひょっとしたらただのマザコンだったのかも。

 それでも生まれて初めての告白、あまりに突然のことに舞い上がってしまった私は結局二つ返事でそれに応じた。

 そう、彼は見事に賭けに勝った。そしてこれがアイツと私の馴れ初めだった。



 それからの私たちはいつもいっしょだったわ。一方で私の父は一人娘の私が離れていってしまうようで気が気じゃなかったみたいだけど。

 そして大学二年生になったとき、彼が運転免許を取ったの。それは私にとってなによりうれしいことだったわ。だって実家住まいの私たちが二人きりになるために車は必須アイテムだったんだから。

 でもね学生時代の私たちは二人ともバイトしてたんだけど、さすがに車を買うほどの収入ではなかったの。だからドライブのときはいつも彼のお父さまの車を借りてたわ。

 その車がちょっと大きめのミニバン、七人乗りなんだけどそれに彼と私の二人だけなんだもの、だから彼なんていつも


「オレたちは空気を運んでるようなもんだよな」


なんて言ってたっけ。

 そんな彼が大学を卒業して就職したその年の暮れ、あれは二回目のボーナスだったわね、彼は小さな車を買ったの。中古車だったけどきれいでかわいくて、それからは二人でいろんなところに行ったわ。

 私にとってなによりうれしかったのは彼のお父さまのミニバンと違って二人の距離がとっても近かったこと。彼の左腕と私の右腕が触れるたび、もう何年もつき合ってるのにそれでもドキドキだったわ。


 交際期間七年を経て、周囲の予想と期待の通り私たちは結婚しました。新居の賃貸マンションは駅からちょっと離れた住宅地にあったんだけど、ベランダから眺める空が広くて素敵な部屋、今から思うとあのころが幸せの絶頂期だったわね。


 そんな私たちがそれぞれの道を行くことになったのは結婚三年目のことだったわ。三年目の浮気なんて歌があったけど、私たちが別れた理由はそんなんじゃなくて、性格の不一致ね。

 結婚するまでは私たち実家住まいだったから二人だけの時間に渇望があったんだけど、いざいっしょに住んでみるとお互いの見たくない部分が見えてくるのよ。それはもう家事の分担から料理の味付けに至るまで。

 でもひとつひとつは些細なこと、譲れないことはなかったし別れるまでもないくらいの小さなスレ違いだったわ……なんてね、実はそんなのは表向きの言い訳、本当の理由は性格の不一致なんかじゃなくて、性の不一致とも言うべきことだったの。


 彼との生活自体にそれほどの不満はなかったわ。身体からだの相性も悪い方ではなかったと思う。なんて言ってみたところで、お互いに他の人との経験なんてそんなこと知らなかったんだけどね。

 学生時代からのつき合いだもの私たちは相手がどうすれば満足できるかもよくわかってたわ、あるひとつを除いては。


 そのひとつというのは……それは……私は彼に抱きしめてもらいたかった。ギュッと強く抱きしめてもらいたかった。でも彼がそうしてくれることはなかった。


 スキンシップがなかったわけではないの。むしろ他の人が見たら恥ずかしいと思うくらいにベタベタしていたと思うわ。歩いてるときでも映画を観てるときでもいつでも手をつないでたし、もちろん写真を撮るときや夜景を楽しむときだって彼はいつも私の腰に手を回してやさしく寄り添ってくれたわ。

 でもそれだけじゃダメ、それだけじゃダメなの、私はもっとしっかりと抱きしめられることでより強い彼の愛を感じたかったの。決して私を離さないという実感が欲しかったの。

 だけど彼は私の願いに応えてくれることはなかった。それどころかいつの間にか手をつなぐこともなくなってきたし、いつも並んで歩いていた二人だったのが彼か私のどちらかが相手の後ろをついて歩くようになってしまったの。

 そんなあるとき私は気付いたわ。彼、私が思っていた以上に歩くのが速い人だったんだなって。

 そうか今までの彼は私に合わせてくれてたんだ。

 そして彼が前を歩くときに徐々に開いていく二人の距離と同じように私たちお互いの心の隙間も広がっていったの。


 きっと彼も居心地の悪さを感じてたと思うわ。だってその頃にはだんだんと会話もスキンシップも、そしてお互いを求め合うこともなくなってたし。

 そして契機はあっさりとやってきたわ。

 それは彼の海外赴任だった、それも単身での出向。彼は会社に何度も交渉したけれど出せるのは帰省手当までって言われたそうよ。

 でもそのときの私は……私はこのままでいい、今の仕事も辞めたくないって思ったわ。そして少しだけ、ほんの少しだけだけど心が軽くなっていることを実感してしまったの。


 こうして私たち二人は別々の道を行くことにした。それは私たちなりの円満な発展的解消だった。



――*――



 吸って、吸って、吐いて、吐いて。

 スッスッ、ハッハァ――


 強い陽光に照らされて私の全身は十分に熱くなっている。信号を左に曲がって小学校のヒマラヤスギを見上げながら私は徐々に歩く速度を落としていく。残り十メートル、そこで私は腕を大きく振りながら膝を高く上げて歩く。見た感じはちょっと恥ずかしいけど、これはこれでストレッチを兼ねているのダ。


 マンションのエントランス、ウォーキングの終わりに私はここでクールダウンを兼ねた軽いストレッチをする。

 ランニングパンツから伸びる、ピッタリとフィットした生地に包まれて汗でしっとりしている下肢に手を添えて屈伸。シャツの隙間からのぞくなんて言えないけれどそれなりに曲線を描く脇腹に手を添えて腰と背骨をストレッチ。あとはまだ少しだけ熱を帯びているふくらはぎから腿、そして腕をコンプレッションウェアの上から撫でるようにマッサージする。

 部屋は三階、私はここから部屋まで階段を上がる。段を踏むたびにフィットしたウエアのステッチが筋肉の流れをなぞるように刺激してくれるのが心地よい。


 そして到着。

 さあ、まずはシャワーだ。あっ、でもその前に……。

 私はウェアを通して少しだけ湿り気を帯びたシャツとランニングパンツを洗濯カゴに投げ込む。そしてコンプレッションウェアだけの姿になるとフローリング床の上で開脚ストレッチを始める。以前は足なんて全然開かなかったけど今はずいぶんと開くようになったわ、さすがに一八〇度なんて無理だけどね。

 内腿の筋肉が十分に伸びたならばなめらかな生地の感触を楽しむように両腕を広げてそのまま上半身が床につくまで前屈する。すると腕、肩、脇までもがウェアの伸縮に包まれているのがほどよい締めつけから実感できる。

 それから私はコンプレッションウェアによる緩い緊張感に身をまかせる。わき腹から少しだけふっくらしている胸に指先がたどり着くころにはその先端が少しだけこわばって身体からだの奥が何かにギュッとされるような感覚にとらわれる。

 でもまだダメ。私はそこから再びステッチをなぞりながら今度はボトムスの手触りを確かめる。太腿から特徴的な曲線を描きながらその付け根の奥に延びる縫い目をなぞるように指先がそれ追う。

 やがて私のお腹の奥から熱いものが溢れ出して、そうなる頃には私の指は私の身体からだが求めている場所を目指して動きの範囲は集中していく。クールダウンした身体は再び熱を帯び、一方で全身の筋肉はとろけるように弛緩していく。そんな私の身体が溶けて崩れてしまわないようにコンプレッションウェアのトップスとボトムスがその全身を優しく締め付けて包み込む。やがて肌と生地とが一体となって包まれたそこは素肌以上に感度が高まる。

 それはまさに第二の皮膚。私はなによりもこの感触が好き、それはスポーツすることなんかよりもずっと。

 そう、私は鍛えるためではない、シャワーの前のこのひとときのためにこのウェアに身を包んでウォーキングしているのダ。



 ぬるめのシャワーを浴びながらさっきまでの緊張から解放された全身をゆっくりとマッサージする。小さめサイズのコンプレッションウェアが私の身体からだのあちらこちらにステッチの跡を残している。やがて素肌は紅潮してそれが冷める頃にはその跡も薄れているだろう。

 そしてシャワーの後にはふんわり柔らかいバスタオルに身を包みながら熱いコーヒーを飲もう。こんな気分のときは軽めのアメリカンスタイルがいい。

 軽く目を閉じてそんなことを想像していると彼と別れたことを報告に行ったときの父の言葉を思い出す。


「小さいときに母親を失くして以来お前を男手ひとつで育ててきたが、お前には何か欠けているものがあるんじゃないかって、父さんは心配していたんだよ」


 私に欠けていたもの、それは母親の抱擁と温もりだったのかも知れない。

 彼にそれを求めたのも、今こうしてフィット力が高いウェアを好むのも、そしてそんなウェアに拘束されることに快感を感じてしまうのも、みんなみんなそれが理由なのかも知れない。

 それでもいい。私は今のこの生活に満足しているし、いつかは私を理解してくれる人が現れるかも知れない。それまではたった独りでこの密かな楽しみを満喫していればいい。

 そう、理由はどうあれ私は私、これでいいのダ。




第二話 セカンドスキン症候群シンドローム

―― 幕 ――



次回は

  「第三話 ター子の競泳水着」

でお会いしましょう。

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