フェティッシュ・ヴァリエーション

ととむん・まむぬーん

第一話 仔羊たちのSmall Talk

 八月も終わりに近づいたある夕方、東京都内でも最深部を走るその地下鉄の車内は空席こそないものの、帰宅時のラッシュを考慮した強めのクーラーのおかげで十分に快適だった。酷暑と言うべき厳しい外気温の下、ほんの少し歩いただけでもあっというまに汗でびしょびしょになってしまったシャツも小振りの省エネ車両の天井からゴウゴウと吹き下す冷気のおかげで二駅も過ぎた頃にはすっかり乾いてしまっていた。

 車内では乗客の多くが思い思いのポジションをキープしてスマートフォンの画面に目を落としている。吊り革に手をかけながらもう一方の手で器用に操作するビジネスマン、横向きにして両手を使ってゲームに興じる若い兄さん、片手に通勤カバンを下げながら空いた手の親指で器用にスルスルとフリックしながらSNSに目を通す中年男性などなど、みなそれぞれが互いに干渉することもぶつかることもないくらいの余裕が車内にはあった。来週からは新学期も始まり通勤電車の車内にも学生たちが戻ってくる。それまでの数日間はこのゆったりとした帰宅時間をまったりと楽しむことができることだろう。

 以前からの近視に加えて最近は老眼の気が出て来た私にとって、電車内での暇つぶしはスマートフォンの画面を見ることよりも、ストレージに大量に落とした音楽を楽しむことだった。この路線は私の乗車駅から降車駅までの間は駅の構造上片側のドアのみが開く。特に帰路を急がない日など、私は乗るべき便を一本見送ってでも降車まで開くことがない方の側のドアの脇を陣取っておよそ二十分間、ささやかな妄想を描きながら音楽を楽しむのだった。


 乗車して最初の停車駅から数人の乗客が乗り込んできた。作業員風の初老の男性や会社帰りの女性客、熟年夫婦、それらに混じってワイワイとにぎやかに乗ってきたのは五人の少女たちだった。無邪気な声が無機質だった車内に華やかさをもたらす。


「あ――結構混んでるぅ」

「やっぱ夕方は座れないよねぇ」


 彼女たちが着る速乾抗菌タイプのシャツは紺色の地に袖口と首回りの細い蛍光オレンジのボーダーがアクセントになっていた。汗はすっかり乾いているものの淡いデオドラントに混じって微かに少女特有の汗の匂いが無意識なくつろぎの隙を突くように香ってくる。


「でもさ、先輩のシュート、惜しかったよね」

「ね――」


 彼女らはおそらく部活の試合の帰りであろう、その会話とスタイルからバスケットボール部員であろうことは明白だった。ボールが詰まったバッグに記された花弁をモチーフにしたマークの中心に「中」の文字があることから、この沿線のどこかにある中学校の生徒であることもわかる。紺色のシャツに同色の紺のバスケットボールパンツというそのスタイルは、まさに練習を終えて体育館から出て来たそのままの姿に見えた。

 床に立てるように置いた大きなボールバッグを囲むようにして立つ五人が歓談している。そして彼女たちが動くたびに光沢のあるサテン地のパンツが車内の照明の白い光を反射させた。私は再生プレーヤーを止めるとヘッドフォンはそのままにすぐ目の前で円陣を組むように立つ彼女たちの会話に耳を傾けた。

 しかしその内容はどうでもよかった。私にとっての興味は彼女たちがはしゃぐように動くたびにテカリテカリと光を反射させるそのサテン生地にあった。私は自分の心理状態を悟られることのないように注意しながら少しだけ顔を背けつつも、しかし彼女たちの無垢で無防備な光沢が常に視界に入るよう、自分の立ち位置や視線に気を遣いながら意識を集中させていた。


 幾駅かを過ぎたときのこと、切り替えポイントのいたずらか、車両がぐらりと大きく揺れた。やけに楽し気な「キャ――」という嬌声とともに少女たちの身体からだが揺れる。そのときこちらに背を向けたひとりの少女のスマートフォンがするりと小さな手から滑り落ちた。しかしそれは幸いにも隣に立つ少女のスニーカーの甲の上で止まった。


「ごめ――ん、痛くなかった?」

「大丈夫、大丈夫、てか、よかったよね」

「ほんと、でも、ごめ――ん」


 なんとなく間延びした緩い言葉とともにそれを拾おうと腕を伸ばす。その姿はほぼ前屈、その尻にピタッと張り付くサテンの光沢が私の目を奪う。未だ成長途上の体躯の割に、その臀部は思った以上の肉付きと張りだった。そしてサテン地の光沢がそのふくよかな曲線をなめらかな反射となって強調していた。


「なんか暑いよね。パンツのゴムってさ、ちょっと痒くならない?」


 そう言って一人の少女がシャツの裾を少しだけたくし上げると、指を伸ばした両手をバスケットパンツの中に差し込む。シャツとパンツの紺色の隙間から少女の脇腹の白い肌がちらりと見えた。少女は何の恥じらいもなく無邪気にパンツの中でもぞもぞと手を動かしてはゴムに締め付けられた柔肌に開放感を与える。そしてその位置をずらすために少しだけたくし上げると膝までを覆い隠していたサテンの光沢の下から小さな膝頭が顔を見せた。


「おめ、ここ地下鉄ん中だよ、ヤバくね?」


 ニヤつきながらツッコミを入れる向かいに立つ少女、「いっけねぇ」とつぶやきながら照れて赤くなった顔を隠すようにバッグの上につっぷす無邪気な少女。その体勢のおかげで今度はその少女の臀部が張りのある光沢に包まれる。そして私はいつの間にかそんな少女たちからすっかり目を離せなくなってしまっていた。


 無垢で健康的、スリムでありながら部活で鍛えられた筋肉がついた下半身をさらりとした軽いサテン地がそれを包み込む。そして今度は目の前で別の少女がもうひとりの少女の尻を茶化すように撫でると、撫でられた少女は恥ずかしげにもぞもぞと下半身を身悶えさせた。

 やがて少女たちは車中に飽きてきたのか、指でツンツンとお互いにつつき合いを始めた。つつかれるたびに身を避けては相手に反撃をする。そんなじゃれ合いを繰り返すと、身体からだの動きに合わせてサテンの光沢も乱反射を繰り返し、そして互いの下半身が触れ合い擦れ合う。今、目の前で繰り広げられているそれはまさに光沢の饗宴だった。



――*――



 それは私が中学二年生のときのこと、まだ高校受験の準備には早いと言いつつも私は親の勧めもあって部活をせずに夕刻から学習塾に通っていた。校庭では曜日によって野球部やサッカー部が練習に励んており、それと同様に体育館ではバレー部とバスケットボール部が日替わりで練習していた。

 あの日、いつものようにそそくさと帰宅する私の視界にひとりの少女の姿があった。体育館の脇で声を上げながらスクワットをする少女、それを見張るかのように腕組みをして立つ二人の部員。それはミスでもやらかした後輩部員に罰ゲームを与える先輩部員といった構図だった。

 白いシャツの下にはネイビーブルーにクロムイエローのラインが映えるロング丈のジャージという姿で偉そうな態度で立つ二人に対して、白いシャツに白いショートパンツと白のバスケット用ソックスという見た目から、こちらに背を向けてしごかれている少女は一年生部員であることがわかった。


「イチ、ニ、サン、シ……ゴ、ロク、シチ、ハチ」


 頭の後ろで手を組んで声を上げながら尻を落としては立つ、いつ終わるとも知れないスクワットを強いられるのはかなりキツいことだろう。案の定、時折声がかすれたり途切れたりする。するとそのたび先輩部員の叱責が飛ぶ。

 いつもは無関心に通り過ぎる体育館であるが、その日はまるで私刑リンチのようにも映るその姿にすっかり目を奪われてしまった。


 疲れとともに弱まる声、よろめく足、そのたびに激しく飛び交う先輩の叱責、そして再び振り絞るように声を上げる少女、その光景はまさに責め続けられ喘ぎ声を上げているかのように思えた。

 汗にまみれた白いシャツ、当時は今よりもずっとショート丈だったサテン地のパンツ、ほんのりと赤みを帯びる白い太腿、少女が腰を落とすたびに張り詰めた光沢が尻の曲線を露わにする。こちらからは伺えないが、きっと少女のその顔は激しい呼吸とともに歪み紅潮して汗が浮かんでいたことだろう。

 嗜虐的――そんな言葉をまだ知らなかった私は、何かいけないことを覗き見ている罪悪感とそれをはるかに上回る奇妙な高揚感に心は満たされていた。

 そして遠目だったとは言えあの日に見たその光景は私の脳裏に焼き付き、絞り出すようにかすれた少女のあの声も私の心の奥に深く突き刺さったのだった。


 それからの私は放課後の体育館から聞こえてくるドリブルするボールの音を耳にするたびドキドキとした気持ちに包まれるものの、しかしその練習風景を覗いてみる度胸もなく、ただただあの少女があの場所で再びしごきを受けるシーンに遭遇できることばかりを期待するのだった。


 思えば私がバスケットボールパンツのサテン地にこだわりを感じるのはそんな経験に端を発しているのは明らかだった。

 私はあの光沢を見るたびにあのとき光景とそのときに想い描いたサディスティックな衝動と少女への淫靡な妄想がフラッシュバックするのだ。だから同じサテン地でもシルクのランジェリーやドレス、バレエのトゥーシューズには何も感じないのだ。

 ただ、純真無垢な少女の身に纏わるトリコットサテンの光沢だけが私の心を満たすのだった。



――*――



 今、私の目の前では少女たちがサテンの光沢に包まれながら無邪気にじゃれ合っている。そしてふざけあううちにバランスを崩したひとりが私のもとによろけてきた。

 少女が目の前で転びかけながら吊り革に腕を伸ばす。その瞬間、私の目に飛び込んで来たのは袖の隙間から覗くきれいに手入れされた白い腋だった。

 さすがにふざけ過ぎと思ったのだろうよろけた少女がおとなしく姿勢を正すと、それを合図に他の面々もやがて静まり私にとって密やかな楽しみだった饗宴もそこで終了してしまった。


 やがて地下鉄は複数路線が乗り入れるターミナル駅に到着する。ドアが開くと何人かの乗客が降り、降りた以上の客が乗り込んできた。

 流れ込む人の波に押されるようにして少女たちは私のすぐ目の前に陣取った。少女たちの肩が私の上腕部をかすめる。しかしこんな位置になってしまっては彼女たちの下半身はすっかり闇の中である。電車の揺れのためとは言え、そこに私の手が触れようものならどんな事態に発展してしまうのか。私は降車駅まで開くことがないドアに我が身を張り付け、彼女たちとの間に不自然とも言える空間を開けて迂闊な接触をしないよう細心の注意を払った。


 そうしてできた隙間、その眼下にチラチラと見えるわずかな光沢に視線を落としていると涼しい風に混じって蠱惑こわく的な匂いが私の鼻をくすぐった。

 そう言えばこの少女たちは部活帰り、さっきまでは練習や試合で汗を流していたのであろう。そしてそれはどんなに入念に手入れをしてもわずかながら痕跡を残しているものだ。空調の風向き、少女たちの身動きによりその匂いは儚くふわりと香ってくる。

 再び車内がゆらりと揺れる。それに合わせて少女のひとりが吊り革に手を伸ばす。またもや白い腋。そのとき、これまでとは似て非なる別の匂いが鼻腔を刺激する。この新たなる香りは……そうだ、仔羊だ。そして漂う匂いはやがて青春と仔羊のイメージがまだら模様となって私の心を掻き立てた。


 乗車してから二十分、やがて私の降車駅に到着する。私は仔羊たちの脇をすり抜けて前を行く乗客とともに下車する。どうやら仔羊たちはまだ先の駅まで乗っているようだった。ホームを去り行く車窓の中に空いた座席に座ろうとする少女たちの姿が見える。そして間もなく最後尾の灯がトンネルの闇の中に吸い込まれて行った。


 改札に向かうエスカレーターの前で私は再び覚えのある匂いを感じた。それは前を行くTシャツ姿の男から漂ってきていた。

 ああ、あの男、確か私のすぐ脇でスマートフォンのゲームに興じていた男だ。すると蠱惑的と思っていたあの匂いは……いや、臭いは……私はその男に怒りの衝動を禁じ得なかった。




第一話 仔羊たちのSmall Talk

―― 幕 ――



次回は

  「第二話 セカンドスキン症候群シンドローム

でお会いしましょう。

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