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「ママ!」
あの子が呼んでいる。何処にいる?公園中を探し回った。この公園は周りが雑木林になっており、視界を遮られるところが多い。探すが、見つからない。焦った。雑木林を歩くと後ろ姿の女の子がいた。あの子だ。
あの子が振り向いた。顔は真っ黒に塗りつぶされていてまるで漆黒の宇宙が広がっているようだった。宇宙から声が聞こえた。「ママ、こっちにおいでよ」
目が覚めた。また、この夢だ。あの子が誘っている。昨日は私が旅行を楽しむなんてマネをしたから、あの子が寂しがったのだろうか。
昨日はあの子を忘れることができた。だからなのか不思議な安堵感を得られた。純粋に旅行を楽しむことができた。しかし同時に罪悪感も感じていた。あの子を私を苦しめる存在とみなしている。あの子から逃れられない。実はあの子から逃げたかったのか。それは薄々気づいていた。機械になるなんて考えはその罪悪感から目をそらすためだったんだ。
自分のこの醜い考えが怖くなった。自分であの子を殺しておいて、あの子が自分を苦しめているなんて――私は自己愛の塊なのだろうか。
あの子の死にきちんと向き合えていなかったんだ。あの子が死んだことを受け止めなければ前に進めない。そのために北海道に来たのだから。
とにかく――蟹を食べに行くことにした。
仙八食堂のご主人に教えていただいた花咲蟹が食べられるお店に来た。
「いらっしゃい」
少し赤ら顔の初老のご主人は満面の笑顔で迎えてくれた。
「すみません。仙八食堂のご主人に紹介していただきました。蟹を食べたいと思いまして」
「お姉さんのことは聞いたよ。ほんとに来てくれてありがとね」
「蟹の看板がすごく多くて一度食べてみたくなりました」
「一度だけじゃなく何度でも食べてよ。お姉さん。花咲蟹は食べたことはあるかい」
ご主人は気さくに聞いてきた。
「いえ、蟹自体あまり食べたことがなくて、蟹の種類もよく分からないんです」
私は正直に答えた。蟹を食べるなんて発想は今まで一度もなかった。
「そう。この花咲蟹は濃厚で身もたっぷり入っているから、これを食べたら他の蟹が食べられなくなるかもね」
笑いながらそう言ってご主人は大皿に乗せられた鮮やかな紅色の蟹を運んできた。
「大きいですね。すごく綺麗な赤ですね」
「でしょ。茹でたてだからね。花が咲いたように見えるから花咲蟹と言われる所以もあるんだ」
「お花にも見えますね」花というには少々無理のある姿形だったが話を合わせるために言った。
「写真は撮らないのかい。今どき流行りの何とか映えとかいうやつになるんじゃない」
「インスタ映えですね。せっかくなので撮ってみます」
かろうじて知ってる流行りの言葉を口にしてスマホをバッグから取り出した。
ほとんど使わないスマホのカメラ機能を起動して、スマホを横向けにして蟹の全身が収まるように合わせてシャッターボタンを押した。綺麗に撮れた。この写真をどうしようとするのかを考えると滑稽に思えた。
「お姉さんも蟹と一緒に撮ってあげましょうか」
蟹とのツーショットにはあまり魅力を感じなかったが、せっかくの申し出なのでお願いすることにした。私は「せっかくなのでお願いします」と言ってスマホを手渡した。「じゃあ取るね」とご主人がスマホのカメラをこちらに向けてきた。蟹とのツーショット――滑稽に思えて自然に笑みがこぼれた。その瞬間カシャッというシャッター音が鳴った。
「お姉さん、良い顔だったよ。美人さんだから絵になる。うちの宣伝写真に使いたいくらいだわ」と言ってスマホを返してくれたので受け取った。撮ってもらった写真を確認した。自然な笑みだった。こんな穏やかな表情をしたのは何時以来だろうと思った。
ご主人は「これを使って」と言って、業務用のような大きな鋏とビニール手袋をテーブルに置いた。
「花咲蟹は殻が固くて棘が多いからビニール手袋をして手足をもぎって、殻を鋏で切って食べるんだ」
両手にビニール手袋をして花咲蟹を持った。ビニール越しでも棘の鋭さを強く感じる。一番下の足を持ってもぎった。鋏を手に取ってその足の殻に鋏を入れた。鋏に力を入れるが、割れない。
「花咲蟹の殻は固いんだ。もっと力を入れて頑張って」ご主人の声援を受けて更に力を入れた。するとピキッという音とともに殻に切れ目が走った。その切れ目を掴んで殻を割った。
「すごい身が詰まってるでしょ。塩茹でしてるからそのまま食べられるよ。お好みでレモンをかけても良いよ」
そのまま身を口にした。濃厚な味がする。咀嚼した。口の中に旨味で広がった。「美味しいですね」思わず口にしたが偽りなき感想だった。
それから、二本目の足に手を伸ばした。殻に鋏を入れる。ピキッという音とともに殻が飛び散った。一人の女が蟹を貪っていると思うと滑稽で恥ずかしさも感じた。しかし、ほかにお客はいないので蟹と格闘することに集中することができた。この姿を見てあの子はなんて思うだろうか。
四本目の足を手に取ろうしたとき、ご主人が声をかけた。
「お姉さんはどうしてこんな街に来たの。花咲蟹を食べに来たわけじゃないよね」
ご主人は真顔だった。どうしてこんなことを聞くのだろうか。
「知人に北海道を薦められまして、東の果てで何となく異国を感じられると思いました。納沙布岬に行ってみたいと思っています」
私はまるで台本があったかのようにすらすらと答えた。
「そう。広い北海道の中でこの街を選んでくれて光栄に思うよ」
まだ真顔のままご主人は言った。何か気に障ることをしたのだろうか。
「詮索してすごく悪いんだけど、お姉さんは何かすごく重いものを抱えているように見える。何か悩み事があるんだったら話してみて。『突然何言ってんだ。この爺』と思うかもしれないけど」
――見透かされていた。自分では自然を装っていたつもりだけど、無理をしていたのだろうか。他人から見たら病んでる女に見えたのだろうか。ふと、このご主人にノリリスクに行きたい妄想を話してみようという考えが浮かんだ。しかし、頭のおかしい女と思われるだろうと思って却下した。
「そうですか。私は普通に見えないですか」
悲しみを覚えたが、私の苦しみを理解してくれたように思えて不思議な安堵感もあった。
「仙八の親父がお姉さんのことを言っててね。こんなことご本人に言うのも大変失礼だけど、納沙布岬で身を投げ出さないかって心配してた。お姉さん、何かあったんじゃないの」
「それは失礼にもほどがあります。私のことの何を知ってるというのですか。そんなに私病んでるように見えますか」
反論したが、悔しさはあまりなかった。納沙布岬で身を投げ出すか。そんなこと考えてなかったけど、ノリリスクに行けないのならここで死んでも良いかなと思った。
「見えるんだね。お若いのに人生に疲れきってるように見える。一人でこんな街に来るなんて普通じゃない」
私はやはり他人から見たら病んでる女に見えたのだろうか。妙な納得感があった。スーパーでもそうだったのか。高野さんはそんな私を心配してくれて食事に誘ってくれたのだろうか。
「せっかく蟹を美味しく食べていたのに…やっぱり私には旅行を楽しんだり食事を楽しんだりする資格はないってことなのですね」
悔しさなのか悲しさなのか分からないが涙がこぼれた。
「いやいや、そんなことないよ。初対面の女性にこんな失礼なこと言って大変申し訳ない。実はね。こんなことを言うのは訳があるんだ。仙八の親父もよく知っている身近な若い女性が思い悩んで自殺したんだよ。納沙布岬に身を投げ出してね。その子を失ったような後悔はしたくなかったから、お節介でもなんでも介入しようと思ったんだよ。わしの自己満足かもしれんが」
ご主人は自嘲気味に話した。
「言われて腹が立ちましたが、おっしゃったことは全部当たってます。私は病んでる女なんです。一人で蟹を食べに来る女なんて可笑しいですよね」
「そんなことない。蟹を美味しそうに食べてくれて嬉しかったよ。食事を楽しんでるときにこんなこと言って本当に悪かった」
「でも言っていただいて少しホッとしたところもあるんです。ありがとうございました」
「お礼を言われる筋合いはない。お節介ついでに一つ提案させてもらうね。この近くにスナックがあるんだけど、そこのママは過酷な人生を歩んでいてね。一度話をしてみると良いかもしれない。まあ、女性にスナックを薦めるのもアレだけどね」
過酷な人生とはどのような人生なのだろうか。自分の子どもを失ったことよりも悲惨なことを経験したのだろうか。その人に会ってみたいと思った
「会わせていただけませんか。その方に」
「そう。じゃあ、今日は店は締めるわ。夕方5時にここに来てくれれば連れて行くよ」
「すみません。それは悪いです。場所を教えていただければ一人で行きます」
「いいよ。いいよ。どうせ客も大して来ないし。わしも久しぶりに飲みたくなってね」
「それと失礼なこと言ったからお代は要りませんよ。良かったら残りの蟹を食べていってくださいね」
ご主人は何故か敬語で言った。
「せっかくなんで食べていきます」と私はお約束のように答えた。
蟹の残りの手足をもぎって口にするが、味は全くしなかった。
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