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 早朝の便で千歳に着いた。千歳から釧路を経て根室まで電車で行けることを調べた。運賃は高いし時間もかかる。根室――地名はかろうじて知っていたが、今まで意識もしなかった地。そんな場所に行くなんて今までの私なら発想すらしなかった行為だ。

 道中、窓に流れる景色を見つめながらずっと考えていた。あの子のこと、私の今後について、子を失った母親の気持ち、ここに来るきっかけを作ってくれた高野さんの存在を。

 高野さんとの会話を思い出す。

 あの人はそれほど親しくない私にやさしくしてくれた。それはあの人が寂しい人だったから──そんな考えを持った自分に嫌気がした。そして私は自分のことしか考えていないのだと気付いた。

 悲劇のヒロインを演じているつもりはない。でもこの境遇を憐れんでいる自分がいることに気付いた。こういう感情を自己憐憫というのだろうか。あの子を失くしてからよく読むようになった小説に度々出てくる言葉だ。

 電車の窓から景色が流れていく。この車両に乗る乗客は私を含めて三名だった。

 文庫本を持ってくれば良かったと思った。

 小説を読みようになったのは小説の世界に逃げることができたからだ。主人公に自分を重ねていた。不幸な自分に酔っていたのかもしれない。機械になりたいという馬鹿げた願望も小説の影響かもしれない。私は小説に出てきた何者になれるかを模索していた。

 あの子を失ったという事実。それを受け入れられなかった。だから小説を読んだ。小説に出てくるいくつもの不幸な物語。それを自分に重ねていた。そしてあの子を失ったことも物語だと錯覚したかった。死にたいというのは嘘だった。あの子の存在が自分を苦しめているとさえ思えた。

 私は混乱している。

 考えを整理しなければならない。根室までの時間は長い。あの子を忘れないように私はあの子が好きだったアップルジュースを毎日買って飲んでいた。それはあの子への供養のつもりだった。しかし、そういったことを繰り返すうちにあの子が戻ってくるんじゃないかという願望があったことに気付いた。それはあの子の死を受け入れられていないことを裏付けていた。

 あの子は死んだ。それは紛れもない事実だ。機械になってノリリスクに行くというふざけた想いは、その事実を直視できなくて生まれた妄想だ。しかし、その妄想がかろうじて私に生きる活力を与えてくれたことも認めざるを得ない。しかし、妄想はしょせん妄想だ。だから倒れて病院に運ばれたんだ。


 景色が流れていく。対面の座席に座る初老の男性。この人の人生を考えてみた。どこへ行くのだろう。この広い北海道でどのように生活しているのだろう。奥さんはいるのだろうか。子どもはいるのだろうか。世の中には結婚していない人も子どもがいない人も多い。私は離婚はしたが、あの子という子宝に恵まれた。失って悲しい思いをするなら最初から子どもがいなかったとは思わない。あの子と生きた時間は私のすべてと言って良いものだった。学生時代は夢も目的もなくただなんとなく生きていた。楽しくなかった訳ではない。友達と過ごした時間もかけがいのないものだったはずだ。でもそれらを全否定している自分がいることに気付いた。子どもは私の全てだったのか。そうじゃなかったはずだった。

 このままでは駄目だ。そう強く思った。私は何者にもなれない。私は私でしかない。私はあの子を死なせてしまった愚かな母親だ。あの子への償いのつもりで生きてきた。しかし、こんな生き方をしてもあの子は喜ばないだろう。

 子どもを不幸で亡くした母親は私だけではない。そういった人たちはどうやって生きているのだろうか。同じ境遇の人の話を聞いてみたいと思った。インターネットで調べたら、そういった人たちとのコンタクト方法が見つかるかもしれない。


 景色が流れていく。単調だが美しい景色。心が浄化されていくようだ。ここに来てよかったと思う。少しは前に進めた気がした。高野さんに感謝した。

 街並みに景色が変わってきた。そして帯広についた。釧路まではもう少しのはずだ。

 とにかく今は根室に行ってみよう。納沙布岬に行ってみよう。


 電車が海沿いを走る。太平洋。海を見るのも随分久しぶりに思えた。あの子とも海には行けなかった。

 根室に着いた。私ですら名前を知っている街なのでもう少し栄えた街だと想像していた。ここから何をするかは決めていない。泊まる場所を探してみることにした。

 駅前に設置されている地図を見てみた。海の方が栄えてるらしい。海の方に向かって街を歩いてみることにした。思っていたより小さい街だった。ところどころ蟹の看板を見る。蟹が名物なのだろうか。蟹なんて最後に食べたのはいつだろう。

 歩いている人はあまりいない。歩いていても私の想像していた北海道らしさはあまり感じられなかった。どこにでもある地方の町に思えた。

 商店街のような場所に来た。松ヶ枝町と書かれていた。時刻は夕方七時だった。夕食を食べてそこで泊まる場所を聞いてみようと考えた。

 一見でも入りやすそうな定食屋に入った。仙八食堂という店だった。お客は一人もいなかった。初老の店主がテレビを見ていたが、私に気付いていないようだったので声をかけた。すると店主は気付いて「いらっしゃいませ」と言って、席を案内してくれた。

 根室の名物を食べてみようと思い、メニューを見た。漁港の街らしく、海鮮料理が多かった。刺身定食を注文することにした。

 店主がお盆に乗せた定食を持ってきてくれた。美味しそうに見えた。刺身を一切れ口にしてみる。美味しかった。思わず私は「美味しい」と口にした。

 すると店主は気をよくしたのか私に話し掛けてきた。

「お姉さん。旅行で来たのですか」

「はい」

「こんな寂れた街に。北海道ならほかに良いところあるのに。他も回ってきたのですか」

「いえ、今日北海道に着いて千歳から電車で来ました」

「へえ、電車で。千歳からものすごくかかるっしょ」

「ええ、でも景色がきれいなので飽きませんでした。北海道は初めて来たので」

 私にしては自然と言葉が出た。人当たりの良い店主だからというのもあるが、素直に言葉が出た。ここに来たことに満足している自分がいる。

「どこに行く予定なの」

「とりあえず納沙布岬に行きたいと思っています。どうやって行けばよいのでしょうか」

「バスが出てるけど。本数は少ないよ」

「そうですか。あとホテルなど泊まる場所はどの辺りが多いのでしょうか。まだ泊まる場所が決まってなくて」

「決まってないの。ホテルなら駅の方が多いよ」

「実は根室に来るのも思い付きで来たので何も計画も立てていないのです」

「へえ、ちょっと訳ありっぽいね。でも根室に来たんだったら花咲ガニを食べて行ってよ」

「至る所に蟹も看板がありましたからね。一度食べてみます。お薦めの店はありますか」

 自分でも信じられないほど饒舌に話す自分がいる。

「観光者向けの店は駅の方に多いけど、蟹は鮮度が命だから、港の方の店が良いよ。大七食堂という店の店主は顔見知りだから、仙八食堂の親父に紹介されたと言ってくれたらまけれくれるかもよ」

「ありがとうございます。明日行ってみようと思います」

「是非行って」

「美味しかったです。ごちそうさまでした」

 自分でも信じられないほど愛想よく挨拶をして勘定を済ませた。私が私でなくなったような感覚だった。しかし、それが素直な対応だった。ここに来てよかったと再度思った。


 駅の方にホテルがあるというので、タクシーを捕まえてホテルの場所を聞いてみた。リーズナブルなホテルを教えてくれたのでそこに泊まることにした。

 ホテルの部屋は小さいテレビがあるだけの質素な部屋だった。ユニットバスに浸かり、この道中を振り返ってみた。長い道のりだったが、一日で来ることが出来た。そう考えると大したことではないように思えた。しかし、旅行をほとんどしてこなかった私にとっては大冒険だった。

 あの子のことはあえて考えないようにした。考えると罪悪感を感じるから。

 翌日、蟹を食べることにした。

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