2

 スーパーでの出来事だった。

 今日はいつもよりお客が多かった。いつものようにレジで商品をさばいていく。いつも通りミスなくさばけていた。

 しかし、一度ミスをしてしまった。

 取るに足らないミスだったが、それに動揺した私はまた同じようなミスをしてしまった。ミスがミスを呼ぶ。お客の顔が曇る。

「申し訳ございません」

 謝罪をして、必死で手を動かすがミスは止まらない。

 お客は言った。

「大丈夫ですか。汗びっしょりですよ」

 目の前が真っ白で思考が停止した。私は壊れてしまった。


 気付いたら病院のベッドだった。

 そうか、私はスーパーで倒れたんだ。他人事のように思った。

 誰が運んでくれたのだろうか。救急車で運び込まれたのだろうか。親に連絡がいったのかもしれない。

 いや、連絡先は誰にも教えていない。アルバイト加入時に書いた緊急連絡先も出鱈目の連絡先だ。出鱈目がバレたのかもしれない。


「目を覚ましましたか」

 病室に医師が入ってきた。初老のやさしそうな医師だった。

「今何時ですか。いつから眠っていたのでしょうか」

 私は医師に尋ねた。

「あなたが病院に運び込まれたのが、昨夜でした。ひどくうなされていました」

「そうですか。レジを打っているときに頭が真っ白になってそれからの記憶がありません。」


「あなたの同僚の高野さんという女性の方が通報してくれました。すごく心配されていましたよ」

 食事に誘ってくれたあの女性か。迷惑をかけてしまった。もうこの街にもいられないか。しかしノリリスクに行くにはお金が足りない。その前にあの女性にお礼を言わなければならない。


 あの女性──高野さんはその日の午後に病院に来てくれた。意識が戻ったら連絡をもらえるように医師に言っていたらしい。

「体調はいかが。〇〇さん」

「救急車を呼んでいただいたそうで。ありがとうございました」

「疲れてたんじゃない。〇〇さんは欠勤もなくすごい真面目に働いていたもの」

 親しくない人だが、親しげな口調で話してくる。

 しかし、今はそれは嫌ではなく有難く思えた。

「そうですね。少し体調が悪かったので休めばよかったですね」

 とりあえずそう答えた。

「でも、突然倒れたから驚いた。しばらくゆっくり休んでね」

「いえ、それは迷惑かかりますから。すぐに復帰しますよ」

「スーパーのレジ打ちなんていくらでも替えがいるから、迷惑なんてかかってないよ」

 そう、私は替えのきく機械。心の中でそう答えた。

「いやいや、〇〇さんがいないときついかな。レジのエースだったからね」

 私の心の声を感じ取ったのか、高野さんは笑いながら言った。そして持っていた紙袋を前に掲げた。

「〇〇さん、甘いものは好きかしら。これ良かったら食べてね」

 シュークリームだった。

「ありがとうございます」

「店長には〇〇さんの復帰は体調が回復してからと伝えておくね」

「すみません、ご迷惑をおかけしました」

「いえいえ迷惑だなんて。では、お大事にね」

 彼女は去った。

 自分に対する情けなさと人のやさしさが交錯する。消えてしまいたい。ノリリスクで死にたい。そう強く願った。

 持ってきてくれたシュークリームを手に取った。可愛らしいペンギンのキャラクターがプリントされている。

 これを食べたら機械としての私は終わりだと思えた。これを握りつぶしてこそ機械だと思った。しかしプリントされたペンギンがあの子に重なり愛おしく思えた。あの子はペンギンが好きだった。これを握りつぶしたら私は地獄に行ってもあの子に恨まれると思った。

 握りつぶすのは止めて封を開けて口にした。

 とても甘かった。


 翌日、退院した。

 この街にもいられない。しかし、高野さんにはお礼をしっかりしないといけなかった。あの子には人に良くしてもらったら必ず感謝しなさいと教えていた。

 連絡先を聞いていたので、電話をかけてみた。食事に誘ってくれていたから食事に誘ってみることにした。高野さんは快く承諾してくれた。

「この間は本当にありがとうございました」

 私は駅前の洋菓子店で買ったワッフルを手渡した。

「え、別にいいのに。あ、これ。ワッフル。美味しそう。ありがとう」

 高野さんは自然に喜んでくれた。

「でも食事に誘ってくれてうれしかった。こないだ誘ったとき迷惑かなって思ってたんで」

「いえ、迷惑だなんて」

「いやね。私、あのスーパーで一年働いているけど、あまり話せる人がいないんだよね」彼女はビールを一口飲んだ。

「私はこの歳で見た目もこの通りだし、他のパートさんはみんな結婚して子どももいるし、話が合わないんだよね。独り身で子どもの話を聞くのは辛いし、相手も気を遣うしね」

 高野さんは年齢は四十代だろうか。見た目はとても美人とは言えないが、優しい雰囲気を持っている印象を持った。

「高野さんは話しやすい雰囲気ですし、良く話しかけてくださったし、嬉しかったですよ」

「そう、迷惑かなとも思っていたけど」

 高野さんは微笑みながらビールを口にした。

「すみません、私は愛想がよくないもので。店長にも注意を受けましたが」

「そんなに謝らなくてですいいよ。〇〇さん。まだ若いのにすごく疲れて見える。失礼だよね、こんなこと言って」

「若くはないですよ」

「なんかこうして人と食事するのも久しぶりだな」

「ええ、私もです」私は苦笑いで答えた。

「私ね。こう見えてもスーパーで働く前はコンサルタント会社に勤めていたのですよ。自慢じゃないですよ。やってる仕事も事務ばかりだったし」

「すごいですね。私はこれまで正社員で働いたことがないんです」

「私も正社員じゃなかったよ。契約社員。働いて良く分かったのは、会社って男の世界ってことかな。アシスタント的な仕事しかさせてもらえなかった。私は容姿も良くないから客先にも同行させてもらえず、社内で地味な事務作業ばかりだったよ」

「私はそういう会社で働いたことはないので、想像でしかわかりませんがなんとなくわかります」

「私も悔しいからその事務仕事を完璧にこなすようにした。それで一目は置かれるようになったけど、ただそれはただの事務要員・雑用要員としてでしかなく、いくらでも替えがきくと分かって空しくなったね。同僚の女性社員ともうまく関係が築けなかった」

 高野さんはビールを一口飲み、続けた。

「〇〇さんはレジの仕事すごく集中してて、なんかあの頃の自分に重ねたりもして気になってたんですよ。それで食事に誘ってみました」

 高野さんは照れたような笑みで敬語で言った。

「ごめんね。自分のことばかり話して。〇〇さんも愚痴でもなんでもあれば話してね。話したらすっきりすることもあるし」

 この人は苦手なタイプの人だと思った。以前の私なら相手にしなかったと思う。しかし、今はこの人のことは嫌にはなれない。なぜか愛おしささえ感じた。私はこの街を去る。もう会うことはない。だから話しても良いと思った。

「すみません、ビールお願いします」

 私はソフトドリンクを飲んでいたが、高野さんに心を許す意思表示のためにもビールを頼んだ。女性店員が中ジョッキに注がれたビールを持ってきてくれた。

「では私もお話しさせていただきます」

「堅いよ」

 高野さんは微笑みながら中ジョッキを掲げた。そして乾杯をした。

「実は私には娘がいまして事故で亡くなりました」

 何から話せば良いかわからず、単刀直入に言った。

 高野さんは一瞬びっくりした表情をして真顔になり、「ごめんね、辛いことを話させちゃって」と謝った。

「いえ、この話はしたくなかったんですけど、話せば楽になれるかなと思って高野さんになら話してもいいと思いました」

「ありがとう、信用してくれて」

 信用したわけではないが、話したくなった。

「事故で亡くなったといいましたが、私の不注意で私が殺したようなものです。公園で私がスマホを夢中で見てたら、娘が公園の外に飛び出してトラックに跳ねられました」

「トラックの運転手さんは泣いて謝罪をしてくれましたが、悪いのはすべて私でその運転者さんにも幼い子どもを轢くという辛い思いをさせてしまいました」

 高野さんは真剣な表情で聞いている。

「死ぬべきだと思いましたが、生きて償いをしないといけないと思いました。でもどうやって償えばよいかわからない」

 しばしの沈黙。

「…ごめんね。言葉が出なくて。そんな辛い思いをしてたなんて…」

 高野さんは今までの陽気な声とは打って変わって消えるような小声で言った。

「お金を貯めてどこか遠いところへ逃げようと思いました。それでスーパーで働いてるのです」

「そんな辛い思いをしたのに働けるってすごいと思う。こんなこと言っても何の慰めにもならないと思うけど、あなたは悪くない。誰も悪くないと思う」

 高野さんは優しい表情で言った。

 機械になるなんて馬鹿な意地を張っていた。でも、高野さんは私を褒めてくれた。あの子を亡くして以来初めて自分の存在を認められた気がした。

 込み上げてくるのを感じた。

「ありがとうございます。忘れるべきとも思いますが、忘れられないし、絶対に忘れたら駄目だと思うんです。忘れたら、あの子のことが可哀そうすぎます。本当にいい子だったんです」

 涙がボロボロ零れた。周りの視線もあったが、言葉が止まらなかった。

「逃げようというの矛盾ですね。でもこの街に来たのも逃げてきたのです。環境が変われば少しは前に進めると思って。でも前に進むってどういうことか私にはわかりません。忘れることが前に進むことなら、それは私の望みじゃありません。そもそも私に何かを望む資格はないと思っています」

 高野さんは優しい表情のまま聞いてくれている。目にはうっすらと涙が浮かんでいる。

「すみません。何を言っているか分かりませんね。でも聞いてくださってありがとうございます」

「お子さんのことを深く愛されていたんだね」

 高野さんはビールを一口飲んで続けた。

「逃げるのじゃないけど、どこか旅行に行くのはどうかな。私は北海道出身だけど、食べ物は美味しいし雄大な自然を見ると心が癒されるよ。最近はあまり帰ってないけど。寒いので沖縄とかの方が良いかもしれないけど、遠い場所に行くことは良いんじゃない。勝手なこと言ってごめんなさいね」

「北海道ですか。良いですね」

 何気なく答えた瞬間、自分の中で答えが見つかったような気がした。北海道はロシアに近い。北海道に行けばノリリスクへの道が見つかるかもしれない。

「北海道といっても広いからね。私は苫小牧の出身なんだけど、道東や内陸の大自然のある場所がおすすめかな」

「高野さんと話してすっきりできました。ありがとうございました。」

 高野さんと別れた後も私の頭の中は北海道でいっぱいだった。


 ロシアへの近道は北海道──正気を失いかけていた私であったが、さすがに行けるとは思わなかった。しかし、北海道の大地はロシアを思わせてくれる何かがあるかもしれないと思った。旅行に行ったことがほとんどない私にとって北海道は遠い地だった。

 スマホで北海道の地図を見た。北海道は広い。どこに行けばよいか検討がつかない。高野さんは道東や内陸の大自然のある場所が良いと言っていた。

 札幌を起点に地図を右に動かしてみた。帯広、釧路。聞いたことはある地名だけどどんな場所かは想像がつかない。

 地図をさらに右に動かしてみた。根室。その先に納沙布岬。北方領土の近く。ここはロシアを感じさせる場所かもしれない。今まで一度も意識をしたことのない遠い場所 ──北海道の根室 ──に行くことに決めた。


 千歳行きの航空券を買った。航空券を買うのは初めてだった。

 北海道の広大な大地を思い浮かべる。少しわくわくした気分を持った。そしてすぐに罪悪感を感じた。

 それでも行くことに決めた。何かが見つかることを願って。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る