ダイ・イン・ノリリスク

有裏

1

 春菊、牛肉、白菜、冷凍うどん。主婦らしき中年女性のかごに入れられた商品を機械的にレジで処理していく。今夜はすき焼きにするのだろうか。

「ありがとうございました」

 夕刻時、次々に来るお客の対応を機械的にこなす。


「お疲れ様でした」

 店が閉店し、本日の勤務が終わり、帰路につく。いつもと同じようにコンビニに立ち寄り、おにぎり2個と幼児向けの紙パックのアップルジュースを買う。

 アパートに着き、コンビニで買ったおにぎりを食べる。アップルジュースに手を合わせ、味わって飲む。

 幼児用飲料特有の甘さ。あの子の顔を思い浮かべる。

 あの子が死んでから一年経った。


 *


 ノリリスクというロシアの北極圏にある街がある。

 偶然インターネットで見つけたその街並みの写真に魅了された。色鮮やかに規則正しく並んだ美しい建物。

 現実感のない街に思えた。夢の場所のように思えた。いつしか強く憧れるようになった。


 *


 今日も公園に来た。

 父親に押されてブランコに揺られる女の子がいる。滑り台を逆さまの姿勢で滑る男の子がいる。

 微笑ましいと思う。どの子も楽しそうでそれを見守る親の顔も眩しい。子どもと遊ぶ時間ほど幸せな時間はないと実感する。

 私の失った時間。私が失くした時間。命。


 ノリリスクの子どもたちはどうして過ごしているのだろうと想像する。北極圏の氷点下の街では外で遊ぶのは困難だろう。やはり室内で遊ぶことが多いのだろうか。娯楽は何があるのだろう。家でテレビを見ることくらいしか想像がつかない。そして大人達は陰鬱な気分でウォッカを飲んでいるのだろうか。そういった街が今の私には合っていると思えた。だが、私は何の変哲もない街に住んでいる。


 この街に引っ越して半年経った。知り合いのいないこの街で、私は変化のない日々を過ごしている。ただ時間をやり過ごすためだけに生きている。有り余る一人の時間に小説を読んでいる。小説の世界に浸ることで少し現実を忘れられた。小説はあの子が死ぬ前はほとんど読んだことはなかった。


 あの街にいると周囲の人の気遣いが心苦しかった。

 あの子が死んで半年間は何も出来なかった。いや、あの半年間の記憶はほとんどない。どのように生きていたのかも定かではない。母親にカウンセリングを受けるように勧められたが、意味がないと思えたから断った。


 ただ一つだけ分かることはあの街に居続けると私は正気を保てなかったことだ。誰にも言わずにこの街に引っ越した。どこでも良かった。


 この街の駅前にあるスーパーでフルタイムのアルバイトをしている。働いているときは心が安定していた。機械的に繰り返される作業に心地良さを覚えていた。機械のようにミスなく作業をこなすことに集中していた。

 私は半分機械なのだろうと思う。だから機械のようにミスなく安定して作業をこなすことだけに集中した。今ではほとんどミスがなくなっていた。しかしどれだけ集中しても完全にミスがなくなることはない。自分は機械になれないんだと落胆した。


 そんなミスの少ない私であったが、ある日店長から注意を受けた。

「〇〇さん、もう少し愛想よく対応できませんか。仕事はミスもなくてきぱきやってくれるけど表情がないので怖いですよ」

 ミスもないという店長の言葉に私は嬉しさを覚えた。表情がないのは機械を目指す私にとっては誉め言葉でもある。

 私は「すみません。気をつけます」と無表情に言ってみた。

 店長は苦笑いして「お願いしますよ」とだけ言ってその場を去った。


 夕刻のピーク時を過ぎて客足が減っていた時間帯に隣のレジの中年の女性店員が私に声をかけた。

「〇〇さん。仕事終わった後予定あります?よかったらご飯食べに行きませんか」

 この女性は休憩時間に良く話しかけてくる。当たり障りにない会話をたまに交わすことがある。私から話しかけたことはないが。

「すみません。今日はちょっと予定があって」

 予定などないが断った。

「そう。もし良かったら今度行きましょうね」

 また誘われるのかと思うと憂鬱であったが「はい。今日はすみません」と答えた。機械が人と食事をするなんて可笑しい。


 いつものように帰りにコンビニに寄っておにぎりとアップルジュースを買った。おにぎりを頬張り、手を合わせてアップルジュースを飲む。

 おにぎりとアップルジュース。合わない。けど、あの子が好きだった。だからあの子の代わりに飲む。

 アップルジュースの甘さがあの子の笑顔を思い起こさせた。涙が零れ落ちた。機械が涙を流すなんて可笑しい。これは涙じゃなくて油が零れ落ちてるだけなんだと自分に言い聞かせた。

 あの女性が話しかけてきたから、いつもと調子が狂ったんだ。本当は話しかけてくれたことを嬉しく思っている。それを無理やり否定しようとして悲しくなって感傷にふけって涙がこぼれた。この自己分析は当たっているのだろうか。

 こんなことじゃ機械になれない。しかし涙はとめどなく流れ出す。やはりこの街では駄目だ。ノリリスクに行かなければならない。そこで私は完全な機械になるんだ。

 しかしノリリスクには行けない。ノリリスクは閉鎖都市に指定されており、外国人が入ることが出来ない。そもそもロシアに行く手段も費用もない。それがわかっていながらもノリリスクへの執着は消えなかった。不法侵入してでも行きたい。それこそが私の人生の目的であるかのように思えた。

 海外にすら行ったことのない私には無理な話ではあったが、その考えは消えなかった。そんなことを考えていると涙は止まっていた。


 翌朝、いつも行く公園と違う公園に行った。

 同じ公園にいつも独り身の女がいると目立つと思えたからアパートから少し遠い公園に来た。そこはこじんまりした小さな滑り台とブランコがあるだけの公園だった。

 ひとつしかないベンチに腰掛けた。

 一組の親子が滑り台で遊んでいる。母親と女の子が一緒に滑っている。微笑ましいと感じる。

 女の子は私に気付いたのかこちらの方に笑顔を振り向けた。


 ──あの子に似ている。


 私はその女の子を凝視した。すると女の子は顔を強張らせて母親の方を向いた。私の視線に気づいた母親がこちらに怪訝な目を向ける。一人の女が何もせずベンチに腰かけているは不自然なのだろうか。子どもを連れて母親が公園を去った。私もその公園を去ることにした。


 あの子──私の娘は1年前に公園から飛び出して車に轢かれて死んだ。

 私はスマートフォンを見るのに夢中になって娘に気付かなかった。

 運が悪かった。あなたは悪くない。周囲の人はそう言ったが、明らかに私の責任だ。私が殺したも同然だった。

 娘を轢いた車のドライバーは泣いて謝罪をした。悪いのはこのドライバーじゃない。このドライバーにも重い十字架を背負わせてしまった。

 その時スマートフォンで見ていたのは某ジャニーズアイドルのサイトだった。

 そのスマートフォンを手に取った。今では最低限の連絡手段としてしか使っていない。あの子の思い出の詰まったあの子を奪った憎き機械。いや、スマートフォンは悪くない。


 私は何より一番恐れていたことは我が子を失うことだった。

 それが私の不注意によって失った。

 これからの未来のある美しい命。それを私が奪った。

 死ぬことも考えたが、それはあの子が望まない。

 優しい子だった。死んでも天国にいるあの子には会えない。あの子を忘れずに生きることが私の償いと思っている。

 公園に行って子どもたちを見ると、あの子を思い出す。そして悲しくなる。我が子を見守る親たちを見ると微笑ましさと同時に嫉妬の感情が芽生える。私と同じ不幸が訪れることを願っているのかもしれない。それでも幼い子どもの不幸のニュースを見聞きすると心が痛む。


 大きな幸せはいらない。小さな不幸は受け入れられる。でも大きな不幸は嫌だ。そう願っていた。

 変わらぬ毎日でいい。あの子の成長を見守れればそれだけで幸せだった。それは大きな幸せだった。失った今、それを痛いほど実感している。親としての役目を果たせなかった私は人間失格だ。だからせめて機械になって生きようと思った。


 私は自分が正常ではないことだけは理解できている。どうすればよいか分からない。

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