逃亡

南区葵

第1話

彼は逃げていた。何から逃げているのかと言えば、ほかでもない彼の弟だ。どこまでも追いかけてくる異常なほどの執着心を持った弟から、彼は逃げ続けていた。 どこへ行こうと追ってくるのである。山へ逃げようと海へ逃げようと、彼の視界から何度消えようと、弟はその歩みを止めず追ってくるのであった。彼は全力で逃げていた。髪を振り乱し、裸足の足裏に血をにじませながら懸命に道なき道を走っていた。恐れからたびたび後ろを振り向きつつも、基本は前だけを見て懸命に走っていたのである。だがどうだ、弟のほうはというとさして歪んでもいない表情を前に向け、目だけはしっかりと兄をとらえたまま、歩いているのである。そう、彼は走っていないのだ。別に身長差が数メーターもあるメルヘンな世界の住人というわけでもない。背丈は兄のが幾分高いだけで、遠目からなら同じくらいの背をしたふたりであった。兄はそれでも歩く弟にもう数十日、いや、あるいはもっと、追いかけられているのだ。 彼は気づけていなかった。そんなことがありうるはずもないということを。何かの幻か、はたまた夢の中のできごと、そしてもしくは黄泉の国での事態であるとか、彼は微塵にも考えることなどできてはいなかった。それほどまでに弟から追いつかれることが恐怖なのである。絶対に追いつかれてはいけない、その思いだけが彼の胸の中にはあった。 ただ、彼に、もう心当たりなどはなかった。追われ始めた最初のころ、もうその記憶こそあいまいだが、逃げたということは何かまずいことがあるに違いないという思いから今もこうしているわけだが・・・いや、違う。彼はもう何も覚えていないが、一つだけ感じることがあった。それは、それこそが、恐怖だ。弟に捕まることへの恐怖。捕まった先に何があるとも知れない、だがなにかひどいことが起きる、そんな予感が彼を駆り立てていた。もう自分がどこを走っているかも知らぬ、自分のいまの風貌も知らぬ、次いでは過去も知らぬ。すべてを忘れて彼は走っていた。ただ見えるものは、必ずいつも後ろにいる、弟、のようなものであった。

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逃亡 南区葵 @aoi3739

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