ぼんやりした日

 強い雨の日、小さな庭で、

 ダラダラと流れ落ちる雨どいの水。

 そこに水平に、素早く手刀を放つと、

 手が濡れていない。

 手が全然、水に触れていない。

 何度かやってみると、

 水が当たることも当たらないこともあるが、

 まったく水に触れずに自分の手が通過している時がある。

 目で見えている雨どいから落ちる水は間断なく、

 手刀なんかで水に触れずに通れるようには見えないが、

 それができる。目に見えるよりも隙間がある。

 誰でも出来るは分からない、いや、出来るとは言えないが、

 自分の体は一瞬、この目で見えるよりもずっと素早い動きをしている。

 目に見えていることの方が遅い。目に見えた通りだと、

 とても手が水滴に当たらないことは不可能なように思える。

 それしか見えていないのだ。

 目には水の隙間が見えなかったが、

 振った手では隙間を通れるのである。

 それを知ることが出来たが、

 少しでも突き詰めれば身体能力は人体それぞれで全く異なる事が、

 精査するまでもなく分かる。違って当然。

 人間の頭で考えても仕方がない、

 理合いの通りに行けばいい。

 鳥は飛べる、魚は泳げる、

 人間は陸地であるから過ごせる。

 理(ことわり)の中であれば強く、理から外れきれば、

 鎧をまとっても、それさえ崩れてしまうものだろう。

 例えば実直な農場のおじさんのように生きれば、

 仕事中も若者から見てカッコいい、

 なんていう事は職種次第では無理である。

 出来上がってくるものが本物ならそれでいい。

 中に入ってテレビを付けた。


「アントニオ猪崎さん、古希、

 70歳、おめでとうございまーす!」

 関係者がそろっている中でお祝いの声。

 60代の豪州力、

「俺は会長の噛ませ犬じゃないぞっ!」

 過去の試合のセルフパロディで、

 猪崎に向かっていく。

 こちらも50代後半の藤凪はそれを止めて、

「我々は喧嘩をしているんじゃないっ」

 豪州力がそれをゆっくりどけ、

 猪崎に近づくと、

 パチン、とビンタをされた。

「いてて……」

「アリガトーッ。

 いざという時に、どん詰まりになって、

 自分が肚で分からなきゃいけないことがある!」

「心はいつまでも戦う旅人!」

 と声を発する解説者、古立さん。

「グハハ」

 豪州のライバル、

 神龍玄一が笑っている。

 それを遠くから見ながら、

 小さく独り言をいう巨大猫。

「俺が猪崎さんだったらとっくに何かに負けてる。

 タフだね。古希、おめでとうございます」


 ぼんやりと見ながら、

「アントニオ猪崎でも、

 いつか肉体は老いる時が来るか」

 つい呟いていた。

 しばらく見ていたが、

 冷蔵庫からジンジャーエールを取り出して飲む。

 昨日は曇りだった。良い事があった。

 外国の女性、

 日本風の名の、

 クロユリという人に会った。

 修行中に会って、

 ちょっと軽く向かい合ってみたら、

 非常な才能を持っていたようである。

 タイガーマスク、

 佐山聡が始めた修斗のような動きも少しあり、

 寝技も詳しいようだった。

 自分の武術にはそういう技はない、

 倒れたら負け、武器で突かれるという想定である。

「じゃ、お願いします。

 割と本気で来てもらって大丈夫です」

「そうですか……」

 寝技に持ち込まれれば、勝つのは非常に難しく、

 見苦しい戦いになっていただろう。

 絶対に勝つ領分と絶対に負ける領分が必ずある。

 しかしお互いが全力でない事は明らかで、良い刺激だった。

 修行中に時折現れる謎の男・堀川幸道氏がいるのだが、

 その堀川氏に教わった初歩の技を試しに掛けてみると、

 少しばかり効果があったようだった。

彼女は殆ど怪力と言っていい力で俺を引き倒そうとしたが、

 ふっと技を掛けるとパパッと離れて、 

「あ、こういうのあるんですね」

 と喜んでいた。怪力が無力になるのは不思議な感覚に違いなかった。

 といっても、意識の片隅に記憶されしっかり対処されれば、

 その間は使うことが出来ない技だ。

「鍛え込んでいる外国の人の体はやはり全然違うな」

 ほんの少しの時間で間合いを取ってまた向かって来ようとする姿には、

 この力がまっすぐ発揮されれば大事件がすぐに起こることを確信した。

 イメージしていた相手、理合いの体現、最強、その片鱗を明らかに持っている。

 その発揮をさせずに、受け身をとれない方に投げれば勝てるんだろう。

 彼女の素早いパンチを躱し、反対の手をねじる技がある、

 手を取ると途中で気が付いたようで、お互い距離をとった。 

「お見事」

「実は折られてましたね」

 絶対に負けるというわけではないが、

 俺の修行が足りず、

 総合的には少し負けていたように思う。

 彼女は間違いなく植芝先生や、俺と同じ、修行者だ。

 なぜ女性の身であって強さを求めるようになったのか、

 思い出すと聞くべきでさえあったが、その時は聞けなかった。

 自分の選んだ道と、その中での向き不向きが、

 勝ち負けを決める理合いに直結するのは間違いない。

 修練してまだ残っている向き不向きは大事なことだ。

 それと覆せない事も大切だ。金魚は飛べないが泳ぐことが出来る。

 真面目に修練をしていれば得意技というものが出てくる。

 彼女もやはり、全く目だけで見ているという事はなかった。

 最初から目で見ても程度の低いものしか発揮できないかもしれない。

 体も心もある。努力を払って強くなりいつか人間性をも磨き強くなる、

 そんな夢を持っている。ちゃんと努力と発見の連係がある。

 そうありたい。今日の雨はやまないようである。

 ガラガラ、と玄関の開く音がして軽い足音。

「やあ。こんにちは、イフロムさん。

 雨の日に、鬱陶しかっただろう」

「別に……。

 昨日、誰かと会ってたんですね」

「ああ、良い修行になった。

 君も声をかけてくれて良かったんだが。

 ジュース、中々おいしかったよ」

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