北大路魔界武蔵
剣の道を志し、
私は始めから強かったわけではない。
思えば力だけで勝ったことも多かった。
兵法が何かを知ったのは後になってからで、
己の来た道を顧みたからであった。
(五輪の書より意訳)
吉岡一門と果し合い、
まだ子供であった吉岡の長を斬った武蔵。
しかし敵は、
攻め手を緩めることはなかった。
吉岡一門の想いは武蔵を討つことで、
長が負けたからといって、
刀を収める気持ちではなかったのだ。
敵の数は多く、
そのまま戦っていても斬られる。
武蔵は大勢と戦いながらも、
身を隠さなければならず。
北大路という場所まで進んできたが、
夜になっても追撃の手は止まることはなかった。
「どこへ向かった!」
「探せ!」
追手は方々へ散り散りになって探している。
三人組の追手が、
「居たぞ!」
と言って刀を抜く。
俯いて言う武蔵、
「見つかったか」
剣を抜き、一対三……。
武蔵走る、
体当たりのような剣先が、
追手のうち一人の胸を突く。
「ぐお」
蹴って胸から剣を出す。
追手の一人は逃げ出し、
もう一人は両手でしっかりと持った剣を向ける。
対峙して、
武蔵は右手に剣を持ち向かってくるのを少し待っている。
相手が踏み込んで剣を振り下ろす所、左の拳が顎を殴る、
また武蔵の剣が心臓に入って行く。
「があ」
刀を、
右手でも左手でも両手でも持つ。
空いた手で斬る以外の事もする、
これを武蔵の二刀流と言う。
剣を抜いて離れ、
「逃げた者を追えば見つかる。
しかし、
どうせ他の追手を呼んでいるのだ。
いかんともしがたい」
捨て置いて進む道、
赤黒い雲が月を隠していく。
「何やら雲行きが怪しい」
一本の大きな柳の木、
そこに、
美しき剣士が一人。
長い剣を背にしている。
その美剣士が武蔵に声をかける。
「宮本武蔵という男は、
吉岡一派から……逃げ切れるかな」
それを聞いて、
「何者だ。何故それを知っている」
「どうあっても吉岡は武蔵を討つと、
京の都でも何日も前から噂になっておる」
「そうか……。
だが、おぬしは何者だ。
普通の者ではないのではないか」
にやりと笑い、
「そういう貴殿こそが、
宮本武蔵殿とお見受けしたが」
「確かに、その通り。
だが今は少し急いでいる」
「では手短に申そう。
拙者は岩流、佐々木小次郎。
武蔵殿も剣の道を行くのであれば、
いずれ拙者と決着をつけるかもしれぬ」
武蔵はうなづいて、
「確かにそうだ。
剣の道を行く以上は、
道を行く者同士が戦うのは当たり前。
だがその時はまだ先であろうと思う」
行こうとする背に向けて、
「きっと生き延びよ。武蔵殿」
「うむ。
では、またいずれ!」
と言って闇に飛び込んだ。
その様子を見ながら、
「生き延びろ。拙者に斬られるまでな……」
つぶやく小次郎の元に、
吉岡一派が大勢集まってくる。
「そこの者!」
「今話していた男は誰だ」
「そこの者とは無礼な」
「我らは宮本武蔵を追っている。
今話していた男の名を申せ」
「知らぬ」
「このっ! 嘘を言うと承知せんぞ」
「知らぬと言ったら知らぬ。
急いでいたようだから、
下手人かなと思ったが……。
しかし、拙者の名なら申そう。
岩流・佐々木小次郎。
武蔵をあきらめて、
拙者に斬られるというのなら、
お相手するが?」
「なっ……」
顔を見合わせる追手たち、
その内の一人が、
「こ、これは失礼した。
佐々木小次郎殿と申せば立派な剣士。
皆、武蔵を追うのだ」
「そうだ」
「いま逃げたのがきっとそうだ」
「追おう」
大勢が武蔵の後を追って駆けていく。
赤黒い雲が空に満ちる。
「このような怪しげな雲、見たことが無い。
まるで鬼門が開く、そんな前触れのようだ」
小次郎は立ち去った。
武蔵を追って、
さらに次第に次第に集まって走る追手の数は、
四百人以上、もっと居るようである。
武蔵が気に留めていたのはその事だけではない。
吉岡一門の長は、まだ子供であった。
子供を斬ってしまった。
「何故」
だが武蔵は知っていた。
知っているという事を知らずに知っていた。
「我が道の上を阻んだ者とはいえ、幼かった」
武蔵の魂が武蔵自身の道を決めていく。
どんな人間でも、どんな世界でも、
力の源は一つとは限らない。
「地がなぜある、水がなぜ流れる……」
火はなぜ燃える、風はなぜ吹く。
軽やかな空のような気持ちになりたい。
あれがやりたい、これが見たい。
それが本当なら、そう動く。
ずっと何を思ったか、そこに魂がある。
武蔵は成りたかった、
成ること。
駆けていく。
赤黒い雲から、
再び現れた月は、
真っ赤であった。
ススキのぼうぼう生えた所。
猫の耳、尾の生えた女童・女の子供が一人。
武蔵は足を止めて、
「あやかしか」
女童はその胸の辺りに青い炎を灯したように、
一種の神々しい光りを放っている。
「この先は人間が住むところじゃないの」
「何? おぬしも……そうか?
そんなこともあるかもしれんが、
俺は神仏に頼まない」
子供は行こうとする武蔵の手を取って、
「生き延びて」
手渡すのは、
「
次に会う時に返してね」
「いらぬ」
「助けると思って持って行って」
「いらぬ。
だが、そこまで言うのなら」
抜いてみれば良さそうであった。
何かがおかしい。
太刀をしまい、
「いつ会うとも分からんが、
……。かたじけない。
借り受けまする」
進んでいくが、
ススキ林の先は、
急に岩窟の中のように暗く、
岩だらけで、
臭く匂う血の川が流れている。
実はここは鬼門の中、
魔界というところである。
武蔵と追手は知らぬ間に、
北大路に開くという、
その中に飛び込んでいた。
追い来る吉岡一門は、
それぞれの魂の中に大きな心が無く、
「オノレ……。武蔵!」
「武蔵! 斬ル!」
「囲メ、囲メ……」
殺意に飲まれて体の形が悪鬼というような姿に変わってく。
吉岡一門の追手たち自身の害意による変化である事が、
武蔵にも察しがついた。だが、
「そなたらを斬るつもりは俺にもある。
何故、俺はこのままの姿で居られるのだ……」
武蔵自身には何ら姿の変化がない。
太刀を抜く、
もともと持っていた剣も。
両方に剣を持つ二刀流だ。
百も、二百も、三百も、
続々と集まる悪鬼たち。
周りを取り囲み、
一斉に打ちかかる。
応えるように、武蔵の、
「でえええい!」
その剣先から迸る雷が、
地を割いて天に吠える。
武蔵は知る由もなかったが、
先ほどの女童はただの子供でなく、
武蔵に一つの魂を与えていた。
受け取った魂は人の力を強くする。
一つの修行があれば激しい力の源になる。
「何故? 何故、急に俺の剣は……」
借りた太刀を見る。
そこへ悪鬼羅刹が迫る、
振り下ろすその拳を斬り、
反対の刀で首を刎ねた。
悪鬼の首が落ちる、その顔は泣いているようである。
長を討たれて己も負けた、無念であろう。
「くっ……」
武蔵は目を逸らした。
悪鬼が次々と迫って来る。
ついこう叫んでしまう、
「今からでも止めぬか!」
しかし武蔵さえも、
誰もそのつもりはなかった。
「ワレラハ武蔵ヲ斃ス」
「止マラヌ、止マラヌッ!」
ウオオオオ、とうねる叫び声が、
一杯に広がっていく。悪鬼が集まって、
何重にも取り囲む。
「ならば……。
斬ってやろう。
全く分からぬが、
斬ってやろう。
おぬしらのため。
我が道のため!」
次々と向かってくる悪鬼の、
最初の刀が振り下ろされる途中で、
その刀を受け流し踏み込む、
受け流された刀は武蔵の横に逸れる。
後は首を斬った。
次の相手を頭から叩き割る、
肩から中へ斬る、
胴を一閃、
次に振り下ろした刀を避けられ、
相手の刀が振り下ろされるが、
刃を上に向けて振り上げて顔を半分に斬る。
羽を生やし空から向かい来る悪鬼、
口から緑色の液を飛ばして避けさせる悪鬼、
ありさまは地獄の様子を増していく。
武蔵とその剣から溢れる力が、
二刀から、その身の回りから、
そして地から天へ向かって雷を走らせる。
多くの悪鬼たちが一瞬で黒こげに裂けていく。
武蔵は太い雷を何本も天へ地へと無尽に走らせる。
そして戦い続けて、
知らぬ間に鬼門を抜けていた。
始めは北へ進んでいた武蔵だったが、
鬼門から出ると、どうやら、
南へ向かう形になっていた。
「俺が隠れようとしていたところではないが、
このあたりの方がいいかもしれん……」
夜が明けそうである。
歩みを進める、吉岡一門は影も形もない。
もし吉岡の生き残りが居たとしても、
こちらの方角へ来るとは思ってもいないだろう。
八幡神社があった。
先ほどの女童はきっと人間ではないと思い、
借り受けた太刀はここへ置いていこうと考えた。
「作法を知らぬが……」
手水の水を飲み、手を洗い、
礼をして太刀を奉じて去った。
そうして九条大宮という寺に着いた。
寺の者であろうか、
早くから人が掃き掃除をしている。
声をかける武蔵。
「寺は命を助ける所という。
ここへ、かくまってもらえまいか」
箒を止めて頷き、
「私はこの寺の和尚をしとります。
どうぞ、こちらへ……」
「かたじけない」
武蔵の心に思い浮かぶのは、
岩流・小次郎でも女童でもなく、
子供を斬ったこと。
「……」
負けるな武蔵、
己の心に負けるな。
勝利したのだから。
いつか名を残し、
書を記すまで、
生き延びろ。
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