ハートウォーミングデー

 何年前にか、痩せた男が港町に辿り着いた。

 そして親をなくした少女に拾われ、軽い仕事に就いた。

「では、行ってくるよ」

「いってらっしゃい。気を付けて」

 ツル草の這う白い壁を見ながら通っていく。

 この場所は男に合っているだろうか。

(魚は好きだ。潮風が好きかどうか?

 鼻が効かない方で、よく分からない。しかし船には懲りた)

 男の体が軽すぎるのか、合わないだけかもしれないが、

 少し船に揺られると、もう降りたくなってしまうのだ。

 そして最も簡単な仕事が欲しいと船長に言い、

 もらったのは刃物と網糸。

 魚や岩に触れて傷ついた投網を直す。

 海岸に着くと網が沢山ある、

 他の人々がもう作業を始めている。

 男も座って網を見た。

 穴の開いた所を刃物で整えて、

 網糸を紡いで元の形にする。

 道具は使いよう、だが、

 男は上手く使えずに作業が遅れる。

(思えばいつもそうだ)

 彼が何かを出来たと思ったとき、上手くなったと思ったとき、

 他の人はもうだいぶ先へ進んでいることばかりだった。

(いくらなんでも、

 楽な方へばかり行き過ぎたのか。

 昔、自分が優秀だと思ったことはあったが、

 この世に向かってやってやったと言える成果はない……。

 苦しいことも、アヒルが水面下で足をばたつかせるように、

 問題ない、大丈夫、特にないと言って切り抜けてきた。

 いや、耐えてきたのか……。

 今ではこんな簡単な作業をやっている。

 誰でもできることを人よりも遅くやっている)

 近寄ってきた黒猫を撫でながら、5時間後、

 今日の作業を終えた。その場を後にし、

 ツルの巻き付く白い柱を見ながら通って、

 海岸、ヤシの木が遠くに見える所まで階段を上って来る。

 午後3時、

 カフェによって紅茶を一杯。

 観光客向けのメッセージカードを買った。

 2時間ほどゆっくりしていると、次第に、

 空から海までが次第に大きく深くオレンジ色に染まっていく。

 今朝、男を見送った少女が何故、彼を拾ったのか、

 夜になれば何も言わずに傍で服を着替え始めたりするのか、

 それは他の、町の男たちに言い寄られていたからで、

 そういう事に興味を持たない男が一人、

 少女の傍にいれば、都合が良かったのだ。

 男はいつでも港町を出ていけるようにしたかったが、

 少女の方は、この相手と一線を超えれば、

 他の男どもが静かになって良いという考えのようだった。

 リンゴとチーズを買って帰ることにした男は酒場に寄る。

 他の若い男がちょうど、同じように酒場に入ろうとする。

「アンタ、この町の人?」

「いえ……。いや、そうかな。

 あなたは?」

「日常の生活から離れて、観光」

「それは良いことだ。

 何をしてる?」

 若い男は屈んで、

 草をつまんで体を起こす。

「雑草を探してる。

 どんな草でもタバコにしてみる」

「へえ」

「酔えるものもあるし」

「楽し気だなぁ。酒の方は?」

 酒場の中では他の客が、

 よぉ、と声をかけて来たり、

 客同士で腕相撲したりしている。

「いらっしゃい」

「エール酒。

 この人に何か奢ってくれ」

「いいよ。俺は葡萄酒を」

 一杯飲んで、

 リンゴとチーズを買って出てくると、

 月と星が金色、

 後ほとんど黒に近い藍色、

 ツルの巻き付く柱もそう。

 町の明かりは暖色である。

「夢なんかない。意味なんかない」

 と若い男がふらついている。

「君だけの考える世界じゃない。

 法則を知ってるか」

「何の」

「ある道の権威が出来るって言ったことは出来る、

 道の権威が出来ないって言ったことも数年後にはすぐ出来る。

 誰かがやるって事だろう。君かもしれない」

「そりゃどうも。

 アンタ、昔は何をしていたんだ」

 男は昔、ある学校で働いていたが、急に嫌気がさし、

 すべてを放り出してしまい、街を転々としていた。

「特に何も……。宿はすぐそこだ」

「そう。じゃあな」

「面白かったよ」

 夜風が吹いている。

 少女の住む家に戻ると、

 明かりはついていない。

 奥のベッドで眠っているようだった。

 男はそこへ行って小声で、

「ハートウォーミングデーだ」

 彼女の傍にリンゴとチーズを置く。

 今日は好きな相手に食べ物やカードを贈る日。

 この港町にも、そんなしゃれた風習がいつからかあった。

 やはり少女も年頃ならば、しゃれた習いに興味があるはずだが、

 そんな話は何もしなかった。

(風習なんかに興味を持つ以前に何か、

 他に何かが欲しいのだろうか。やはり安心か)

 男が少女に対して思うのは、

 好きといっても、

 お世話になったという意味だ。

 背を向けると、

「いかないで……」

 後ろから細い手が伸びる。

「起きたのか。

 今日は何処にも行かない」

 この世界は、自分だけの世界じゃない。

 もしそれでいいのなら、

 誰かが思った夢を叶えることもある。

「あしたも」

「あしたも戻って来る」

 あさっても此処へ戻って来るんだろうと、

 男は感じ始めていた。透明な力、心の愛の思いが。

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