なずな亭にて
橙 suzukake
vol.1 ~階段を下りる~
僕は、約1年間、ワインハウスでバイトしたことがあった。
「ワインハウス」といっても、ボトルを売る店ではなくて、フランスの家庭料理を出すワインレストランだ。
店の名前は、「なずな亭」といった。
地下鉄丸の内線を四谷三丁目駅で降りて、新宿通りを新宿方面に向かって歩いて10分ほどのところに店はあった。歩き始めて何本目かの小路を右へ入っていくと、左側に、フランス国旗が通りの方に斜めに突き出しているのが見える。そこが、なずな亭の入り口だ。石造りの下りの階段があって、そこを下りていくと店の玄関がある。
僕は、店の存在は知っていたが、その階段を下りて玄関のドアを開けるまで2年かかった。
僕は、当時の彼女と京都旅行するための資金をかせぐために、大学2年の春休み、アルバイト雑誌で見つけた小さな工場で働き始めた。工場といっても、普通の民家に簡単な機械を入れただけのもので、外観からはとても活性炭やシリカゲルを扱った工場には見えなかった。時給は450円くらいだったと思う。春休み中は8:30~17:00まで働き、どうしようもない京都旅行に行った後も、週に3日くらいのペースで、大学の帰りに3時間くらい勤務した。結局、そこで、僕は約1年間バイトした。
なずな亭は、その工場へ行く道の途中にあった。バイトがはけて、四谷三丁目の駅に向かう帰り道、フランス国旗がかかっているその店が多少なりとも気になっていた。黒い椅子に乗せられた小さな看板には「ワインハウス」と書いてあるけど、高級感や威圧感はなく、どこかほのぼのとした雰囲気があるし、なによりも、通りからは地下の店の様子がまったくわからないのも僕の興味をそそっていた。
その日も、バイトの帰り道をタバコをくゆらせながら歩いていた。見るともなく、なずな亭の階段を見たら、「アルバイト募集 食器洗いその他」と書いてある紙が壁に貼ってあった。そのときは、「そっか、バイトか」ぐらいにしか思ってなかったが、それから1週間、その紙がはがされていないことを確認していくうちに、なずな亭の存在が僕の中でどんどんと大きくなっていった。
「おい。今日、帰りに付き合え」
一人で店に入る勇気がなかった僕は、バイト仲間の男を誘った。
「あの店でバイトしたいと思ってるんだけど、どんな店なのかわかんないだろ?だから、偵察をかねて今日はお客さんとしてあの店に行きたいんだ」
フランス国旗が店先に出る時間は5時半過ぎなので、それまでの間、ケンタッキーで時間をつぶしながらバイト仲間にいきさつを話した。
5時半ぴったりにケンタッキーを出て、5時34分になずな亭に着いた。
まだ陽が高いが、営業を開始したサインなのか、階段の壁の灯りが点いている。夢にまで見てはいないが、上から様子を伺い、どんな店か想像しまくった地下への階段をどきどきしながら下りる。階段を下りきると、ガラス戸があって、薄暗い店内の一部をうかがい知ることができた。ドアを押すと山小屋をイメージさせるカラカラという音が鳴った。
ガラス戸の外から見たとおり、店内は薄暗く、床板も濃い茶色だった。すぐに気がついたが、音楽も何もなく、無音だった。
「いらっしゃいませ」
歳にして30代前半と思える女の人が奥のスペースから歩いてきた。
「お二人様ですか?」
勝手な言い分だが、僕が想像していた店のイメージや、わずか数秒ではあるが店に入った雰囲気からは程遠い“女の人”だった。
「こちらへどうぞ~」
女の人に導かれるままに、僕ら二人は金色のカウンターテーブル沿いの細い廊下を奥のスペースへと歩いた。
奥のスペースは、色々な大きさのテーブルが5脚ほどあり、どれも、くすんだ若草色をベースにした花柄のクロスがかけられていた。僕ら二人は、2人用の小さいテーブルを勧められ、座った。
淡いクリーム色の光を発する電灯。壁にかかっている絵。昔のオルガンをモチーフにしたような飾りテーブル。そのガラス戸の中の品のいい置物。ドライフラワー・・・短い時間でこのスペースを見渡したが、一口で言って「アンティークな店」。
座ってからわかったのだが、別のテーブルに中年の男女が座って、テーブルに写真を広げて談笑していた。客が自分たちだけじゃないことに少しほっとしていたら、
「営業は6時からなのですが~」
姿が見えないところから声を出しながら女の人が僕らのテーブルにやって来る。
「メニューを見ながらお待ちいただけます~?」
この対応で、はっきりわかった。
俺たちは、場違いなところに来た貧乏学生だ・・・
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