三章:竜たちと娘と
1.紅き竜の昔語り
娘が、毛皮と骨が付いたままの肉の塊を引きずって歩いてきた。
両腕ではとても抱えきれそうにない、言ってしまえば人間の胴体ほどの大きさだ。
「魔獣か」
「はい、熊型です。これだけあればしばらくは十分なので」
娘が言う「熊型」とは、牛五頭ほどの巨体を持つ、大型熊魔獣のことだ。
とれる肉も多く味もいい。が、血の匂いに誘われた他の魔獣などが寄ってくるため、最低限の処理をした分しか運びだせないそうだ。
「普通の獣よりも魔獣が食べたくなりますね。やはり、影響があるのでしょうか」
娘は自分の腹をさする。
「魔力の結晶だからな。成長するための魔力を集めるのに、母体であるお前の嗜好が変化することはあるだろう」
娘の体内に蓄積され、竜から自然放出される魔力で変質し、生命へと変化した魔力の結晶。
それは生き物の赤子のように、本体を構成する魔力を、母体である娘から摂取する。そのため、娘も、魔力が宿る魔獣の肉を好んで食べるようになったのだろう。
魔獣の肉の他に、魔力を蓄えた植物なども、娘は無意識に採集しているようだった。
「私は下の
「そうだな」
竜にとっても初めての事例だ。
娘の体内に生命として存在していることはたしかだが、それがどんな姿で外に出てくるかは見当もつかない。
「まあでも、生まれれば育てるまでです」
娘は何でもないことのように言う。だから竜も、あまり心配はしていなかった。
「ところでお母さん。この肉の処理を終えたら、昨日言っていた昔話を聞かせてもらえませんか?」
そういえば、娘の思い出話を聞いたあとにそんなことも言ったなと、竜は昨日のことを思い出す。
「いいだろう」
竜が了承する。
娘は笑顔を輝かせて肉を抱え上げ、足取り軽く処理用の洞穴へと向かっていった。
娘が戻ってきたのは、それから数時間後の昼前だった。
「娘。お前はまず食事を摂れ」
今の娘は常の状態ではない。そのうえ、頻繁な食事を必要としない竜とは種族からして違う。
娘と話しながらになるだろうから、意外と長くなりそうだというのもあった。
娘は、地面に魔獣の敷物を広げる。その上に料理を並べていった。
魔獣の干し肉、穀物の粉末と塩などを混ぜて練って焼いたもの、豆と野菜、魔獣の肉に下味をつけて煮た汁物の鍋、山で採れた果実。
鍋は「例の鍋敷」に置き、果実以外のものは、時間が経った竜の鱗を皿代わりにする。
品数の多さは、娘が山の暮らしに不自由していないことを表している。
「いつにも増して多いな」
「楽しいお話にはおいしい食事、ですよ」
「私の鱗を皿代わりにするのは何故だ」
「お母さんの鱗にのせると冷めませんから。温かい方が美味しいですからね。お皿代わりの鱗はちゃんと洗っていますし、麓には卸していません」
呆れを含んだ竜の視線を受けた娘はそう言って、毛皮の上であぐらをかいた。
竜が言いたいのは、そういうことではないのだが。
竜自身、もやもやした気持ちをどう言葉にしたものかわからないし、言ったところでこの娘はまた思いもよらぬことをするだけだろう。
いつものことだ。
竜はそう自分に言い聞かせ、口を開く。
「さて、昔話か。何を話したものか」
「昨日は私の子供時代の話でしたから、お母さんの幼竜時代のことを聞いてみたいです」
干し肉を裂きながら、娘は目をきらきらと輝かせている。
「そうか。では思い出してみるとしよう」
竜は空を見上げ、また視線を娘に戻す。
「私が生まれたのは、人間から見ればそれなりに昔のことだ。このあたりでいえば、人間たちが麓に小さな集落を作り始めたころだろう」
それはそれは昔の話。
人間の数が今より少なく、竜たちと人間たちが、ほとんど出会うことのなかった時代。
竜は、この山よりもっと標高が高く、厳しい山肌の巣で卵の殻を破って生まれた。
巣には、少し先に殻を破った兄竜が一頭だけいて、他にもいくつか空の卵があった。
兄竜によると、竜が生まれる前に巣立っていった兄竜や姉竜たちのものだという。
兄竜以外の
もともと、竜族というのは単独生活者だ。気の向くままに生き、そしていつかは朽ちていく。
竜とはそういうものだと、かつて兄竜は言っていた。
竜は、生まれながらに宿した本能でそれを理解した。
母竜が現れたのは、竜が生まれて三日ほど経ってからだった。
大型の魔獣を仕留めてきた母竜は、その肉を骨ごと千切り、竜と兄竜に与えた。
これが竜の初めての食事だった。
母竜はときおり狩りに出ては魔獣や獣を持ち帰り、竜たちに与えた。
ちなみに兄竜は竜よりも小食で、その残りは竜と母竜が胃に収めている。
「そういえば、ごく稀に人間を食べることもあったな。今思えば、飛び抜けて魔力の高い者だったようだ」
「『生贄以外の人間』は、食べたことがあったのですね……」
「それでなければ生贄などという選択肢に加えぬ。あまりにも小さいからな」
そういう日々が過ぎて、竜の身体は大きく成長した。そのころになると、ふとした時に小さな炎を吐くこともあった。
兄竜は火竜ではなかったから、「こちらに向けるなよ」とよく言われていたことを思い出す。
あるとき、母竜は二頭にこう言った。
お前たちに名前をつけよう、と。
「幼竜のころの私は、鳴き声が美しかったそうでな。もう少しで『カナリヤ』とつけられるところだった」
「それはまた、ずいぶんかわいらしい名前になるところでしたね」
「代わりに兄竜の名になった。歌の得意な竜だったからな」
「まあ。それで、お母さんは今の名前に」
「ああ。最後は印象で決めたと言っていた。今とは少し姿も違っていたから、ちょうど良くはあったのだが」
「今でしたら、私の名前がお母さんに合いますね」
「そうかもしれぬな」
竜はふっと笑う。
娘は手元も見ずに、竜の起こした風で飛びそうになった料理を押さえている。
「そのうち、兄竜も私も飛ぶ練習をしてな。兄竜は数日で飛べるようになったが、私は兄竜に比べて体が重いから少々難儀した。母竜は笑って見ているだけだったよ」
母竜は、竜がうまくいくと笑い、失敗しても朗らかに笑っていたのが印象に残っている。
むしろ、親身になって応援してくれていたのは兄竜だった。
「風に身を任せろ」とか、「闇雲に羽ばたいてもすぐに疲れてしまうだけだ」とか色々助言をくれたが、体のつくりが違うためにほとんど生かせなかったのが懐かしい。
竜が危なげなく飛べるようになったころ、母竜は二頭に狩りを教え始めた。
初めは角兎などの小さな魔獣を。次第に猪、熊型などの大物へ。
狩りについて、竜はすぐに様になったが、今度は兄竜が苦戦した。
母竜はいつものように笑っているだけだったし、竜は体の作りや能力が違う兄竜にどう助言していいものかわからなかった覚えがある。
そうやって試行錯誤しているうちに、兄竜は魔法を使って獲物を仕留めることに成功する。
初の獲物は、成体になった竜よりもやや小さい獅子型の魔獣だった。
これには竜も母竜も驚いた。しかし、異変を感じて駆けつけたさらに大きな個体を、母竜が一撃で殴り倒したのを見て、二頭は閉口した。
「お母さんのお母さんは、豪快な竜だったのですね」
「ああ。身体こそ小さかったが、今でも敵う気がしない」
母竜は元気だろうか。
竜はふと思う。
強くて気ままな竜だったから、好きなようにやってはいるだろうが。
「お兄さんは魔法が得意だったのですか?」
「そうだ。私も魔法の方が得意だが、兄竜はさらに魔法に特化した竜だった」
「ちなみに、仕留めた魔獣はどうされたんです?」
「兄竜は相変わらず小食でな。肉はほとんど私と母竜が食った」
「まあ」
「その代わり、兄竜は魔獣などの魔力の結晶も取り込むようになった。お前が今宿しているようなものをな」
娘はそっと、両手で腹を押さえる。
「心配するな。兄竜はよほど魔力の枯渇がない限りは、無差別な狩りをしない。元々は温厚でな。普段はそのあたりにあるような花や、魔力濃度の高い泉などから必要な魔力を取り入れている」
「カナリヤ、という名前がよくお似合いですね」
「言ってやるな。兄竜はいまだに気にしている」
「最近お会いしたのはいつです?」
「そうだな……。百年ほど前、偶然会ったくらいか。竜というものは、独り立ちするとお互い遭遇することは稀だ。基本的に単独で生きる種族であるし、単純に個体数が少ない。例外は繁殖期くらいか」
竜は、懐かしむように目を細めた。
寿命の長い竜たちにとって、時の流れは早く、しかし緩やかだ。
「お母さんには、お子さんはいるのですか?」
「ああ。何度か子を
全身を黒い鋼の鱗で覆われた、力自慢の大きな雄竜「クロガネ」。
その妹竜で、真っ白な真珠光沢をもつ鱗に、純白の羽毛の翼を持つ、氷の魔法が得意な「シラユキ」。
クロガネはともかく、シラユキは熱に弱かった。全身から高熱を発している火竜である竜は、あまり近づくことができずに苦労したものだ。
当時は、クロガネと、偶然通りかかった母竜を捕まえて手伝ってもらった。そうして、なんとか二頭を無事独り立ちさせることができた。
そんなことがあったせいか、クロガネは今でも色々とシラユキを気にかけているらしい。
「そのおふた方は、私から見て兄と姉ということになるのでしょうか」
「どうだろうな。直接お前のことを認めれば、そういうことになるかもしれぬ」
もし、娘が竜の末の子らに会うことがあったとしたらどうなるだろうか。
静かな凶暴性を持つ「武の竜」クロガネと、降り積もる雪のような「静の竜」シラユキ。
竜のように困惑するだろうか。
それとも、まだ若い二頭は人間など歯牙にもかけぬだろうか。
いや、娘が生きている間に会うことはないだろうが。
「ところで。お母さんは火竜ですけれど、お兄さんやお子さんは違うのですね」
娘は、湯気の立つ汁物を口に運ぶ。香辛料が入っているようで、わずかな香りが風に乗って竜の鼻孔をくすぐる。
「竜というのは、生まれてみなければわからぬ。シラユキのように、母である私と反対の性質を持つこともさほど珍しくはない。竜の子育ての難しさはそこにあるな」
竜の個体数が少ないのは、単に生まれる数が少ないからだけではない。竜やシラユキのように、生まれながらの性質の問題で育てられないこともよくある。
今までは、幸運にも生まれた子らとの相性に恵まれていたことと、百戦錬磨の母竜の助けがあったから送り出すことができたに過ぎない。
「竜といえども、必ず成長できるわけではないのですね」
「生き物ではあるからな」
この世の理に則って生きている限り、どんなに強い種族であろうと、そこは変わらない。
「ところで、お兄さんやお子さんの名前を聞いてしまってよかったのですか?」
娘は再び干し肉を裂きながら、竜に問いかけてきた。
「お前はそのあたりをよく心得ているからな」
竜は笑った。
『名は
母竜から名前を与えられたとき、竜と兄竜はよくよく言い聞かされた。
特に人間など、比較的知能が高い生き物には狡猾で魔力の高いものもいる。何をされるかわからないから、決して知られぬようにと。
魔法生物である竜族は、魔力の高い者に名前で縛られる危険性があるためだ。
竜が名乗らないのも、それを避けるためである。単に、人間に自分の名前を知られることが
竜の名前を知っている人間は娘だけだ。
娘が竜を「母」と呼んだ日、竜から教えたのだ。
娘は驚いていた。
旅の者から「竜と竜の真名の関係」を聞いたことがあるという。
何度か「まじない札や忘却の魔法で名前を忘れた方がいいのでは?」と、聞いてきたことがある。竜はそのたび、必要はないと返してきた。
娘は初めて会ったときに自分の名を差し出したが、竜に名を尋ねることはしなかったからだ。
竜の名前に関心がなかったからではないというのは、今まで共に暮らしてきた竜がよく知っている。
ちなみに、娘の名前を知っているのも今や竜だけだ。
竜が麓の村人たちから娘の記憶を消して以来、娘は人間たちに名乗ったことはない。
忘却の魔法でも完全に記憶が消えるわけではないから、名乗ることでそれが紐解かれることがないようにと、いつか娘は言っていた。
「お前は決して明かさぬだろう、我が娘よ」
そう言うと、娘は食事の手を止め、にっこりと笑った。
「お前が生きている間に、他の竜に会うこともないだろうしな」
「それはどうかなあー?」
風に乗って、どこからともなく青年の声が聞こえてきた。
竜と娘が声のした方を向いたのと同時に、突風が一頭とひとりを襲う。
目を閉じて料理を押さえる娘に向かって、風に流されるように、それは飛んできた。
「いたっ」
胸元に飛び込んできたものを、娘は反射的に抱き止める。
「悪いな、お嬢さん。受け止めてくれてありがとうよ」
全身を半透明の淡い
「兄者!?」
「久しいな、妹」
ようやく目を開けた娘は、自分が抱えている淡い黄玉色の竜と紅き竜を、何度も交互に見比べていた。
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