2.流行病と治癒術士(後編)
治癒術士ヨハンは、突如村に現れた紅き竜によって紐付きの円盤を引っかけられ、さらわれて空を飛んでいた。
「えっ? な、えっ!?」
竜に咥えられたヨハンの胸元で、妙に熱い円盤がべこばこと胸を打つ。
「わ、ちょ……痛っ、高っ! あ、これ鍋敷き……あっつ!」
「黙れ」
「ひいいいいぃっ!?」
竜は速度を上げ、山の稜線に沿ってどんどん高く飛んでゆく。
ヨハンは竜への恐れと、首に引っかけられた熱を発する鍋敷き、そしてとてつもない高さを飛んでいる恐怖と息苦しさで大変混乱していた。遥か下、低いところに村々が小さく見えるのが、ヨハンの心臓をさらにきゅっと縮ませる。
竜はそんなヨハンを一顧だにせず、山頂付近を飛んでいく。
そして、あっという間に「竜と巫女の領域」にさしかかる。着地する寸前、勢いを殺しながらぽいとヨハンを放り投げた。
ヨハンは大きな水音とともに、大飛沫を上げて広い温泉に着水した。
殺しきれなかった勢いのおかげで、ヨハンは派手に沈んだ。口に入ってしまった水のせいで危うく溺れそうになりながら、何とか水面に顔を出す。
「何をしている。早くここへ来い」
竜はそれには関心を示さず、顎で温泉のすぐそばの洞穴を示す。
事態が飲み込めずにヨハンが固まっていると、
「もう一度言う。早くしろ」
竜に凄まれた。
恐怖と混乱で我を見失いそうになりながらも、ヨハンは温泉から這い出して、ずぶ濡れのまま洞穴に向かう。
入ってみると、そこは小さな住居のようになっていた。少し薄暗いその中で目を凝らすと、奥に巫女が横たわっているのが見えた。
「巫女様……?」
「術士さん……?」
巫女の動きは緩慢で、声は弱々しい。
ヨハンははっとし、駆け寄って巫女の額に手を当てる。
ひどい熱だった。
「もしや感染したんですか! いつから……」
「あたまにひびきます、声を小さく……」
「す、すみません」
ヨハン――治癒術士ヨハンは、両手で口を押さえて居住まいを正す。
「おとといの夜、少しだるさを感じて……横になってから一気に熱が上がったようです。ここは竜の体温で暖かいので、さほど冷えずにすんでいるのでしょうが、悪寒が、どうにも」
ヨハンはわずかに眉根を寄せる。
やはり連日の忙しさと患者との接触が、疲弊した巫女を発病に至らしめたのだ。
「僕が診ます。紅き竜様の言うように、僕に責任がありますから」
「そんなことを言ったのですか、竜が……」
巫女は小さく笑った。そしてヨハンの格好に気づき、
「とりあえず着替えてください。ずぶ濡れですよ。男物の服はありませんから、それを巻きつけてもらうことになりますが」
巫女が指さした先には、先日ヨハンが薬草の代金にと持参した反物があった。
「普段着を作ろうと思っていたんですが、想像以上に忙しくて。遠慮せずに、どうぞ」
「すみません、あとでまた新しいものをお持ちします……」
ヨハンは一旦外に出て服を脱ぎ、白い反物を肩にかけ巻きつけて、借りた帯を腰で締める。なんとか見苦しくない程度の格好になった。
濡れた服を岩場に干して、仕事道具入りの包みを片手に急いで巫女の元へと戻る。
「それ、外さないのですか?」
ヨハンの姿を見た巫女が、くすりと笑う。
ヨハンは、竜に投げつけられた鍋敷きを首にかけたままだったことを思い出した。
「いや、すっかり忘れていて……。何でこれなんでしょうね、妙に熱いんですが」
「……その上に、これを置いてみてください」
巫女は、岩壁の側にある金属製の桶を指差した。水が入っている。
言われた通り、首から外した鍋敷きの上に桶を置く。桶の底から、小さな気泡がいくつか水面に向かって上ってきた。湯が沸いているのだ。
「魔法道具? 湯沸かしだったんですか……どうりで熱いはずだ……」
「試作品兼私専用です。紅き竜の加護がついているんですよ。それ自体も熱を持っています。でも、身につけていなければ、術士さんは竜の熱で大火傷していたでしょうね」
ぞっとすることをさらりと口にする。
ヨハンは口元を引きつらせたが、頭を振って両手で自分の頬を叩く。治癒術士として、看病のために気合いを入れたのだ。
「巫女様、汗をかいていますね。そのままだと冷えてしまいますから、身体を拭かせてもらいます。それから
巫女は小さく頷いて、ゆっくりと身じろぎしながら着ているものを緩めた。
ヨハンは巫女の持ち物から清潔な布などを借りて、沸いたばかりの湯に浸して固く絞る。
「失礼します」
巫女の装束を脱がせた途端、ヨハンは不可思議な現象を目の当たりにした。
湯気だ。
この至近距離であり得ない濃度の不自然な湯気が発生し、巫女の身体をヨハンの目から隠している。
「竜の魔法ですね。ごくまれに人が迷い込むことがあるので、誰かがいると発動するようになっているんだそうです」
「そうですか……」
へたれていようがなんだろうが、ヨハンは治癒術士だ。治療の最中に患者にやましい気持ちを持つことはない。
が、少しだけ。ほんの少しだけ残念だと思ったことは否定できなかった。
ヨハンも、十九歳の健康な青年なのである。
「今日は泊まっていってください。私が良くなるまで竜はあなたを帰さないでしょうし……。保存食があのあたりにあるので、どうぞ召し上がってください。温泉も暗くならないうちにどうぞ」
「ありがとうございます。なるべく早く戻ります」
歓迎されているのか軟禁なのかわからない状況だが、病身の巫女を放っていくという選択肢は最初から存在しない。
ヨハンは巫女の好意に甘えることにした。
分けてもらった食料を胃に収め、今日着水した温泉に向かう。
ろうそくの小さな灯りを縁に置き、満天の星空を見上げながら広い温泉につかるというのは格別な体験だ。
が。ふと目線をずらしたところに巨大な竜の影を見つけてしまい、色々と考えていたことがすべて吹き飛んでしまった。
温泉から慌ただしく上がると、身体を拭いて、借りた反物ではなく干していた自分の服を着る。少し湿っていたが、生乾きの臭いもないので大丈夫だろう。反物は大雑把に畳んで脇に抱えた。
あまり長く患者から離れるのも、職業柄落ち着かない。
近にあった川で、手ぬぐいを濡らすための水を汲んで(暗くて落ちそうになった)巫女の寝所に戻ると、巫女は静かにまどろんでいた。
「戻りました。熱を見ます」
ひと言声をかけて、ヨハンは巫女の額に手を当てる。
「まだ熱いですね」
額の手ぬぐいを、汲んできたばかりの水に浸して絞り、また乗せる。巫女の様子はだいぶ落ち着いてきたように思えた。
「検査の結果は朝には出ます。巫女様はここのところご多忙でしたから、過労もあったのだと思います」
「たしかに忙しい日々でした……熱を出すのなんて久しぶりです」
うつらうつらと、巫女は答える。しかし口調ははっきりとしていた。
「僕が巻き込んでしまったばっかりに……」
「いえ、時間の問題でした。術士さんからでなくとも、誰かから知ることになっていたでしょう」
巫女は、ヨハンの言葉を遮る。
「謝罪は時に負担になります。口にした本人の、心からのものであっても、です」
「それは……」
言いかけて、口を閉じた。そして、
「巫女様にご協力いただけたおかげで、妹や村人たちは助かりました。ありがとうございます」
「はい、どういたしまして」
巫女は微笑むと、手を伸ばしてヨハンの腕をつかみ、そのまま流れるような動作で引き倒した。
「え? え?」
そして病人とは思えない機敏な動きでヨハンの上半身の服を剥ぎ取り、くるりと転がして背中に抱きつく。
「まだ寒いんです。だから、一晩湯たんぽ代わりになってください。それでは、おやすみなさい」
最後にふわりと布団をかけて、巫女はすぐに静かな寝息をたて始めた。
「え、あの? え、えっ!?」
巫女は眠っているというのに、どういう仕組みか、がっちりと固められてほとんど身動きが取れない。
ただ、熱っぽい巫女の体温と、背中に押し付けられた「ありがたいもの」の感触に、感覚が集中してしまう。
ヨハンは、混乱しながら一睡もできない長い夜を過ごすはめになってしまった。
◇ ◆ ◇
翌朝のこと。
白み始めた空の下、巫女は身体を冷やさない程度の軽装で、軽く体を動かしていた。
温泉でさっと汗も流したし、川の冷たい水で顔を洗ったおかげで、眠気も吹き飛んでいる。
ひと通り終えると「ふう」と深呼吸し、その場でぴょんぴょんと跳ねる。
そのまま勢いを利用して、三回連続後方倒立回転跳びの最後に半回転のひねりを加えて着地を決める。
体調は万全だった。
「寝ていなくていいのか」
竜が岩陰から顔を出す。
「すっかり良くなりました。検査結果も陰性で、つまりは過労だったようです」
巫女は、ぴょんぴょんと飛び跳ねてみせた。竜は半目でそれを見ている。
「あの人間はどうした」
「術士さんですか? 熱を出して寝込んでいます。先ほど検査をしたので昼過ぎには結果が出ますが、まあ、流行病でしょうね」
「医者の不養生か」
「そんなことを言ってはかわいそうですよ」
巫女は苦笑した。
ずっと患者たちと接してきて、今まで発病しなかったあの青年は、治癒術士としてきちんと防疫をしていたと言える。
昨日はさすがに心身の疲労がひどかったようで、ついに病に負けてしまったのだが。
「あなたが術士さんを連れてきてくれたおかげで、元気になれました。ありがとうございます」
「病で死なれたら寝覚めが悪いと思っただけだ」
竜はそっぽを向く。巫女は思わず吹き出してしまった。
「何がおかしい」
「いえ、違うんです。私を心配してくださったんですよね? それが嬉しくて。それで、あの……」
巫女――娘は、両手の人さし指をつんつんとつつき合わせながら、竜を見上げる。
「お母さんって、呼んでいいですか?」
竜は虚を突かれたような顔をした。
しばし間があったが、
「……好きにしろ」
竜はまた、ぷいとそっぽを向く。それを聞いて、娘はくしゃりと笑う。
顔を出し始めた朝日が、竜の鱗を、いつもより紅く照らしていた。
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