二章:村人と巫女

1.流行病と治癒術士(前編)

 何かの気配がした。

 ごくり。と、自分の唾を飲む音がうるさく感じられる。

 獣か人間か。どちらにせよ、見つかれば青年――ヨハンの命はない。

 紅き竜との約束の境界線をはるかに越えて、山を登ってきているのだから。




 麓の村から見上げる山は、動植物や鉱物、温泉など、自然の恵みが豊富だ。標高が高いところにあるものほど貴重で、人間にとっての恩恵は大きい。


 しかし、山のいただきには紅き竜がいた。


 かつては悪竜と呼ばれ、その強大な力で討伐に向かった勇猛果敢な猛者たちを蹴散らし、麗しの生贄を食らっていたという。

 投げ捨てられた屍が転がった辺り一帯は「境界地帯」と呼ばれ、人々は恐れをなし、生贄を運ぶとき以外での入山を控えていた。

 今から一年と半年ほど前、「紅き竜の巫女」が現れるまでは。


 美しい巫女は、竜と麓の人間たちとの仲介役を担い、人間たちが立ち入れる境界線を山のかなり高いところまで引き上げてくれた。そして、境界線のさらに上にある「紅き竜と巫女の領域」の珍しい品を持って、時々麓に商いにやって来るようになった。

 巫女がもたらす薬草などは、人間たちの間で珍重されている。


 薬草が欲しければ、ふた月に一度訪れる巫女を待つほうが確実だし安全だ。

 しかしヨハンには、それを待てない理由がある。

 自らの命を危険にさらしてでも薬草を手に入れなければならないのだ。




「えっと、ここは……温泉?」


 意を決して歩き進んだ先は、湯気で視界が悪かった。メガネが曇るからなおさらだ。

 そして、意図せず「何者か」の方向に向かってしまったらしい。ちゃぷり、と水音がする。


「どなたかいらっしゃいますね?」


 湯気の向こうの何者かが、若い女の声でヨハンにそう問うた。


 見つかった。


 湧き上がる緊張と恐怖。

 ヨハンは一歩も動けなくなった。

 ぱくぱくと口を動かすことしかできないでいると、水音が大きくなる。声の主が近づいてきているのだ。

 ざばりという音とともに、女の影が湯気の向こうに浮かんだ。


 不自然な湯気で見えない。


 ヨハンは思わず、曇ったメガネを拭いて目を凝らす。しかし、目の前にいる裸|(であろう)美人の姿は、異様に濃い湯気がかかって全く捉えられない。

 濃い湯気の切れ目から、ちらちらと影で見える女性らしい曲線が魅力的で、想像力が最大限にかきたてられる。


「困りましたね、こんなところにまで来るなんて」


 たいして困ってもいない様子で、歌うような声がする。それが湯気に隠れた美人|(たぶん)のものだと気づくのに、一瞬を要した。


「あ、あなたは――もしや、紅き竜の巫女様でいらっしゃいますか!?」


 さきほどまでとは違う種類の緊張で、ヨハンの声が裏返る。


 紅き竜の巫女。

 捧げられる生贄をなくした立て役者。

 山の恵みをもたらす竜の使い。


 呼び名はいくつかあるが、通称「巫女様」。

 元は悪竜に捧げられた生贄のひとりではないかと囁かれているが、誰も彼女の素性は知らない。


 紅き竜に近づける唯一の存在で、村々に山頂付近の貴重な品々を商いに来る。

 麓の村々を回りながら生活するヨハンも、何度か姿を見かけたり、薬草などを譲ってもらったことがある。


 巫女は美しく、泰然とした独特の空気をまとっていた。気さくな性格だが、話しかけるとき、ヨハンはいつも少し緊張してしまう。


「ええ、私が巫女ですが」


 その麗しの巫女が、濃い湯気を挟んでいるとはいえすぐ側に、一糸まとわぬ姿でそこにいるのだ。動揺せずにはいられない。


「あなたはたしか、村々を回る治癒術士でしたね」


 巫女は取り乱しもせず、湯気越しに会話を続ける。


「ご存知でしたか!」

「ええ。よく薬草を買われていましたし」


 巫女が扱う薬草は、今では治癒術士であるヨハンの必需品だ。重い病も怪我も、巫女の薬草を材料にした薬ならば効果がある。


「それにしても、境界線を越えてくるだなんて。意外と無謀なんですね」

「それは、その……」


 ヨハンは口ごもる。


 ――境界線を越えて竜と巫女の領域に足を踏み入れたものは、その命を以って償う覚悟をしろ。


 人間たちの入山を許す代わりに、竜が出した条件だった。

 こうして巫女に見つかった以上、ヨハンの命はないのかもしれない。

 それでも。


「無礼を承知でお願いします! 紫の薬草を分けてください!」


 ヨハンはその場で勢いよく土下座した。

 一瞬の沈黙のあと、


「ええと、お話が見えないのですが……」


 ちゃぷ、と再び水音。巫女は温泉につかりなおしたようだ。


「……ひと月前に巫女様にお越し頂いたあと、麓の村々で病が流行はやり始めました」


 はじめは普通の風邪だと思われていた。しかし程度が重く、家族や近くにいた人間も次々と倒れていった。

 子供や年寄りなど、体力のない者は命にかかわる。


「――というわけで、早急な治療が必要となります」


 ヨハン――治癒術士ヨハンは、先ほどまでの不安などどこかにやってしまったかのように、流暢りゅうちょうに説明した。


「聡い巫女様ならお察しいただけたかもしれませんが、特効薬の材料である紫の薬草の在庫がほぼ底を尽きました。病の重い者はすでに少なく、終息に向かうかと思われていたのですが、運悪く……」


 言葉を切り、浅く呼吸をする。


「昨日、僕の幼い妹が発病し、刻々と状態が悪くなるばかりなのです」


 ヨハンは土下座したまま、巫女の言葉を待つ。

 返答はない。

 濃い湯気の中、ヨハンが自身の心臓と呼吸以外に音がないのではないかと錯覚し始めたころ。

 不意に、すぐ側で足音が聞こえた。


「顔を上げてください」


 巫女の声だった。

 言われたとおり、声がした方へと顔を上げると、湯浴み着の巫女がそこにいた。

 艶のある黒髪や、すべやかでほんのり赤味がある白い肌はまだ少し濡れていて、健康な青年であるヨハンの目には大変毒だった。


「お見苦しい姿で申し訳ありませんが、どうか気になさらないでくださいね」


 ヨハン胸中を知ってか知らずか。言葉とは裏腹に、巫女は自分の姿を気にした様子もない。


「紫の薬草ならまだあります。すぐにお渡しできるのは、とりあえずこれだけですね」


 湯上がり姿にばかり気を取られていたが、巫女は籠を持っていた。差し出されたその中を覗くと、妹ひとり治療するには十分すぎる量の薬草が入っている。


「あ……ありがとうございます! これだけあれば、リリアナ――妹だけでなく他の患者も治療できます!」

「それはよいことです。病の流行自体はまだ続くでしょうから、しばらくはまめに麓に下りましょう」

「た、助かります! それであの、これを薬草の代金としてお受け取りください……」


 ヨハンは、道具袋から巫女への代金として持ってきた品を差し出した。

 上等かつ丈夫な、赤と生成りのふたつの反物だ。


「これはこれは。あなたの村の名産品ですね、なかなかいい品です。ちょうど普段着も巫女らしくしようと思っていたんですよ」


 巫女はにっこりと笑って反物を受け取った。

 交渉成立である。ヨハンはほっと胸をなでおろした。


「ところで、これ何だと思います?」


 巫女は、首から紅いかけらをあしらった首飾りを外して手のひらに乗せ、ヨハンの目の前に差し出して見せた。

 いつも巫女が身に着けている、半透明の紅玉のような飾りだ。


「これは、いつも巫女様が身に着けている……」



「私の逆鱗げきりんだ」



 巫女が、首飾りを治癒術士の手に触れさせたと同時に。第三者の声と、湯気に浮かぶ巨大な影が現れた。

 境界線を越えた先、巫女とともに存在する、人語を操る巨大で強大な生き物。

 それは、山の頂に君臨する紅き竜に他ならない。


「ひいっ!?」


 ヨハンの口から情けない悲鳴があがる。

 同時に、巫女が札のようなものをヨハンの額に押しつけた。


「あなたのためですよ」


 巫女の声を最後に、ヨハンの意識は途切れた。




 ヨハンは飛び起きた。

 辺りを見回すと、そこは見慣れた自室だった。


「あ、起きたのか」


 部屋の入り口から、仕事を手伝ってくれる友人アカネが入ってくる。


「とてももどかしくて幸せな夢と、恐ろしい夢を同時に見た気がする」

「鼻血出てんぞ」


 アカネはヨハンの寝台側の椅子に腰かけ、ちり紙を差し出した。


「疲れてたんじゃねーの? みんなが止めるのも聞かねーで、ひとりで山登ってさ。境界線越えるギリギリんとこで巫女様に見つけてもらったんだろ?」

「え?」

「まだ寝ぼけてんのかよ。お前が自分で言ってたんだろーが」

「僕が……?」


 受け取ったちり紙を鼻の穴に詰めながら、ヨハンは首を捻る。

 もっと別の出来事があったような気がするが、肝心なところで記憶にもやがかかり、思い出せない。


「まあいいじゃねーか。リリアナの処置も間に合ったことだし」

「それ、僕がやった?」

「当たり前だろ? お前、ほんとどうしたんだよ……。まあ、それだけ緊張してたんだろうけどな。治療が終わった途端ぶっ倒れたし」


 お前へたれだもんな。アカネは短い赤髪をかき上げながらため息をつき、立ち上がる。


「リリアナの様子見てくる。まだ熱あるしな。ヨハン、お前は動けるならとりあえず顔洗ってこい」


 そして、さっさと部屋から出て行ってしまった。

 ひとり残されたヨハンは、どこか釈然としない思いを胸に抱きながら寝台から体を起こし、床に置かれた籠を見つけた。

 籠の中の薬草が、巫女とやりとりしたことを証明していた。




 それからは、村人たちの治療で忙しい日々が続いた。

 病の流行自体は終息に向かいつつあったが、それは一時期に比べてという意味であり、まだまだ病人は多かった。


 妹のリリアナが回復するころには村も落ち着き、治癒術士ヨハンは、他の村々にも赴いて治療をして回った。

 すでに巫女が手を打っていたところもあり、仕事自体は思っていたよりも順調に進んだ。

 他の治癒術士たちや、時に巫女と協力しながらそれぞれにできることを続けていった甲斐もあり、山の麓は徐々に本来の生活を取り戻していった。




「そういえば、最近巫女様見ないね」


 病が治って体力の戻りつつあるリリアナが、粥を口に運びながら呟いた。


「ここのところ、流行病はやりやまいのせいであちこち忙しくしてらしたから、お休みしてるんじゃないかな」


 ヨハンは腰に仕事道具が入った包みを巻きつけたまま、茶で喉を潤す。

 この三週間、巫女は三日と間を空けず麓に下りてきていた。

 平時はひとつの村へふた月ごとに訪れているので、いつもの三倍ほど働いていたことになる。休みをとっていると考えるのが普通だ。


「今回は僕もとても疲れたよ。巫女様も体調を崩されてないといいけど……」


 もう一度茶を口にし、ひと息ついた。

 数日前見た巫女の、多少疲れが見えるが、余裕のある笑顔を思い出す。


 そのとき、地面が少し揺れた気がした。


「なんか今、外でドスンって聞こえなかった?」


 リリアナの言葉で外に注意を向ける。なにやら人の声で騒がしい。

 ヨハンが窓に近づくと、ドアが乱暴に開けられる。

 そちらを見ると、息を切らし血相を変えたアカネが立っていた。アカネはヨハンを見つけるなり、


「お前何やらかした!?」

「へ?」

「いいからちょっと隠れ――」



「そこか」



 重く低い声が聞こえるや否や、ヨハンたち三人は何かの力によって外に吸い出され、地面に投げ出された。目が回る。

 体を起こしてずれたメガネを直して顔を上げると、とんでもないものが目に入ってしまった。


 宝石のように美しく紅い鱗に覆われた巨大な竜が、視界のほとんどを占めてたのだ。


 竜は固まってしまったヨハンを見つけると目をすがめ、


「責任を取れ」


 それだけ言い、口に咥えていた円盤状のものを投げつける。

 長い紐付きで、縁もぐるりと編み紐で覆われたそれはヨハンの首に引っかかり、投げられた勢いのままぐるぐると回る。


「ぐえっ!?」


 そしてすぐさま、竜はヨハンの服を咥えて飛び立った。

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