5.竜と娘の日常:まじない札

 娘が、気絶した男を背中側から両腕で抱えて引きずっている。

 巫女装束――もとい生贄の衣――と違って、普段着にしている村娘の服は動きやすいだろう。しかし、脱力した大人の男を、細腕に見える娘がひとりで引きずってくる光景はたいそう異様だった。

 それが二度三度どころか、数えるのも飽きるほど続けば、ため息の風圧を調節できるくらいには見慣れてしまうというものだ。


「今度はどうした」


 娘が口を開く前に、竜は問いかけた。


「いつもの通りです。境界線を越えて薬草探しをしていたので」


 よいしょという声とともに、娘は男を横たえた。


 境界線。

 娘が巫女に転身した日、竜が人間たちの記憶になかば植えつけるように結んだ約束のひとつだ。

いただきに棲む竜と巫女の領域』と、人間たちに立ち入りを許した領域との、言葉通り「境界線」である。

 そこを越えて竜たちの棲家に立ち入ることは、その命をもって償いをするに値する行為だ。

 と、いうことになっている。


 実際には、迷い人や珍しい薬草採取目的の立ち入りはあるし、紅き竜に挑まんとする命知らずも少なくない。竜たちの棲家に迫るような人間の立ち入り自体は、以前よりも増えたくらいだ。


 その人間たちをどうするかというと、まず巫女である娘が対応する。

 いつぞや現れた生贄の一団と、それに便乗して(しかし隠れていたところを娘につまみ出され)現れた武装集団に宣言したとおり、本当に巫女である娘ひとりがことにあたる。


 迷い人なら穏便に、ならずものなら腕ずくで。


 いざとなれば竜も加勢するのだが、そこまで娘が苦戦したことは数えるほどしかない。

 そして娘(と、ときどき竜)が相手を無力化したあとは、


「では、お願いします」

「仕方ないな」


 娘にわれ、竜は魔法を展開する。

 眉間に、紅い宝石のような輝きが現れ、魔法陣がいくつか宙に現れる。

 それらは一瞬で男を包み込んで、消えた。

 これで忘却と記憶操作の魔法は完了だ。


「お疲れさまです」

「毎度毎度、人間とは懲りぬものだな」

「そうですねえ。この人はたしか、身ごもった奥さんの滋養になるものを探していました」

「人間の事情などはどうでもいいがな。そんな男なら忠告だけで済んだだろう。なぜ気絶させた」

「村娘の服装だったせいか、甘く見られたようでして。素直にここまで来てはくれなさそうでしたので、仕方なく顎下に掌底を」

「大体のところはわかった」


 境界線を越えて来たものは、説得に応じればそのまま境界線のあちら側まで送れば済む。

 問題は、説得に応じなかったり、ならず者など頭からその気がない人間たちだ。

 魔法をかけるために竜の元まで連れてくるのは、いくら娘でも負担だろう。


「私が魔法を使えれば、あなたのお手をわずらわせることもないのですけど」


 娘は何度か、竜の魔法を自身でも使えないかと試したようだ。

 しかし竜と人間では勝手が違うし、忘却の魔法も記憶操作の魔法も、特殊な上に高度な魔法だ。いかな娘といえど、これはどうにもできなかった。


「というわけで、最近行商人から珍しい品を手に入れたんです」


 娘はどこからか、小さな紙片を取り出した。

 紅き竜の巫女として山の恵みなどを商う一方、娘も人間たちから様々なものを手に入れ、竜に土産として持ってくることもある。


「まじない札、と言うそうで。この紙にあらかじめ魔法を吹き込んでおくと、誰でも魔法を使えるんだそうです。ただし、一枚につき一度きり。使ったあとはただの無地の紙になります。使い捨ての道具ですね」

「ほう」


 色々な道具を作り出すものだと少し感心し、同時に、娘が言おうとしていることがわかった。


「私に吹き込めと言うのだな? 忘却の魔法を」

「はい!」


 我が意を得たりと、娘は満面の笑みを浮かべる。


「数枚持ち歩いていれば、私でも記憶の対処ができるようになります。そうすれば、私もあなたも少しは手間が減ると思うんです。もちろん、私はなるべく使わなくても済むよう、最大限に努力します」

「ふむ……。ものは試しだ、少し作ってみるか」


 竜は娘の要望を聞き入れ、まじない札に忘却の魔法を吹き込んだ。竜が見るに、魔法はきちんと札に留まっているようだった。

 使えるものならよし。使えなくともさして支障はないだろうと、竜は札をしまう娘を見ながら思っていた。




 竜がまじない札に魔法を吹き込んでから、何日か経った。

 娘は、境界線を越えてきた人間と何度か遭遇したようだが、竜の元へ運んでくることはなかった。


「案外使えるようだな、それは」

「はい。いいものを見つけました」


 娘は微笑む。


「それで、札を補充しておきたいのです。また魔法を吹き込んでくださいますか?」

「いいだろう。出せ」

「はい」


 娘は、腰に巻いていた道具入れから札を取り出した。

 その数は竜が思っていたよりも多く、また以前見たものと少し違うようだった。


 すべての札に魔法を吹き込んで、竜はふうとひと息、娘のいない方角に息を吐いた。漏れ出た炎が空気を揺らす。


「しばらくはこれで足りるだろう。万が一、他の人間の手に渡ってもしゃくだ」

「十分気をつけます」

「しかし、珍しい品だけに質が一定しないのだろうな。前のものとはいささか勝手が違ったぞ」

「ああ、それは」


 そこまで言って、娘は言葉と動きを止めた。まるで固まってしまったかのように。


「娘」

「……」

「娘よ」

「……はい」


 おずおずといった様子で、娘は目線を合わせないまま返事をする。

 竜は確信した。


「お前、これをどうやって手に入れた。行商人からではないな?」

「行商人はもう旅立ってしまうそうだったので、その」


 娘は言いよどむ。右手と左手の人差し指をつんつんと、つけたり離したりしている。


「作り方を教えてもらえるように『お願い』しました……。教えてもらったあとに、私が聞いたことなどを、まじない札の忘却の魔法で『忘れて』もらって……。あ、でも、ちゃんと作り方などは変えていますから、そっくりそのままではないんですよ!」


 娘はもう、明後日の方を向いていて竜を見ないようにしている。

 つまりは、先ほど竜が魔法を吹き込んだまじない札は、娘が行商人から「聞き出して」作ったものだということだ。


「悪用、か……」

「気をつけます……」


 それからは、竜が抜き打ちでまじない札の枚数を娘に尋ねるようになった。

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