85.どこに行っちゃうの、大佐殿?

 翌日、心優はすぐさまミセス准将に問うてしまう。

「昨夜、城戸大佐から聞きました。研修に行くけれど、どのような研修か家族にも言えないと」

 朝一番。朝の准将室ミーティングも終わって、御園准将がデスクについてすぐだった。


 彼女は綺麗な栗毛を朝のそよ風に揺らして、いつもの如く楚々とした横顔で万年筆を握って静かなまま。

 いつもの綺麗な琥珀色なのに、凍っている眼差しをみせられる。


「そうよ。きつく言っておいたの。大事な研修だから、たとえ妻になる婚約者にも言ってはだめよと……」

「どうしてもですか。メールぐらいにして、電話も控えて欲しいと言われました」


 心優がいちばん納得できないのはそこだった。航海に極秘で行くわけでもない、危ない極秘任務でもない。ただの研修。なのに電話は控えて欲しい。土日に帰ってくることもできない。どこで研修かも言えない。さらに、心優から休日に会いに行くこともダメだと言われたのだ。


「会いに行ってはだめなのですか……」

「ごめんなさいね、心優。研修の間、雅臣にはそこ一点に集中して欲しいのよ。そいうい意味では気が抜けない研修なの。息抜きに婚約者に会うような余裕が逆に隙になっては困るので、一ヶ月程度なら思い切って会うのはやめなさいと厳しく言いつけたのは私自身よ」


 全て、ミセス准将の差し金だった。信じられない。でも雅臣とここまで結ばれたのも、このミセスのおかげでもあった。そのミセスが『ここは一ヶ月我慢』と言いきるには、余程の研修なのだろうと心優は悟った。


「心配です。なにもわからないって」

「大丈夫よ。一ヶ月だけ我慢して」

「わかりました……。あの、城戸大佐の研修については他の方もご存じではないのですか」

「この研修に雅臣を行かせるかどうかの相談は橘さんにして、橘さんも賛成してくれたわよ。でも彼も口外は控えると言ってくれている。手配はテッドに頼んだわ。テッドもこの研修の重要性をわかっているから、知っているのは私を含めて三人だけ」


 そしてその三人は決して雅臣の行き先は言わないと決めているという。絶望的だった。


 もう、待っているしかないらしい。


「雅臣が留守の間、貴女は貴女の仕事をしてもらうわよ。しっかりしなさい」

 そういって、ミセスが立ち上がる。艦に乗っていた時とは違って、いまのミセス准将は優雅なタイトスカートの制服姿。その綺麗な立ち姿で彼女が応接ソファーの上に置いていある、綺麗な黒い箱へと歩み寄る。


「こちらにいらっしゃい」

「はい」

 心優も気を取り直して、ひとまず雅臣と離れてしまうことは忘れようとする。

 ミセス准将は綺麗な黒い箱をテーブルの上に置くと、その箱の蓋を開けた。

 そこには、シックで素敵な黒色のワンピーススーツが入っていた。シックでノーブルだけれど、綺麗で可憐なビーズがジャケットの縁とウエストラインに刺繍されているものだった。


「来週末、海東司令に会いに行くわよ。プライベートのお誘いだけれど、貴女も私のお供でついてきてね。その時は私服なの。これは私からのプレゼントよ」

「あの、司令に会うために?」

「そうよ。貴女のために、私がエドに誂えるように頼んだの。エドはね。お医者が本業だけれど、いちばん稼いで成功させた事業は美容サロンなの。美的センスがとってもいいのよ。そのエドが貴女に似合うように選んでくれたから間違いないわね。私のお洋服のコーディネイトもエドがいつもしてくれるの」


 あのミスターエドはお医者様であるのに、事業は美容サロンで、影のお仕事は諜報員って、どんだけ多能な男性なのと絶句してしまう。


「ほんとうに、頂いてしまってよろしいのでしょうか。こんな素敵な服、着たこともないし、自分で選んだことも買ったこともありません」

 すると、准将がいつも澄ましているのに、とても楽しそうにクスクスを笑い出して暫くずっとそうして止まらなくなったようだった。心優も首を傾げるだけ。


「あ、ごめんなさい。だってね。エドは、私を始めに、軍服さえ着ていればいいと思っていた『私達』の『はじめての私服選び』をずうっと担当してきてくれたんだなと思って……」

「どういうことですか」

「まずは、ジーンズばかりだった私が民間の方と会う時のお洋服を選んでくれて。そして、テッド。テッドが私の側近になって私服の仕事に連れていく時になって、彼も軍服以外のおでかけ着はなーんにも持っていなかったの」


 え、そうなんですか! と心優は驚く。御園准将の隣にいる部下として、それは完璧な中佐殿。彼のスーツ姿を見たことがあるが、それもまたカッコイイ素敵な男性になる。でも、若い時はそうではなかったということらしい。


「英太もそう。初めての私服でのお仕事、広報に連れていくことにしたけれど、なんにも持っていなかったわね。そんな時はエドが登場。彼がすべてコーディネイトしてくれたわね。そうそう、隼人さんも全然興味がなかったの。でも隼人さんのお洒落の師匠は、私の従兄の兄様なのよ。香水なんて選びもしなかったのに、いまは兄様並みに季節ごとに探しているもの」


 そうして誰もが少しずつ『自分に似合うもの、着たいもの』を見つけてきたのだと准将が教えてくれる。


 だから心優も、これをスタートにして探してみなさいと諭された。


「ありがとうございます。お言葉に甘えて、こちらを着てお供させて頂きます」

 その箱を受け取ると、ミセス准将もとても嬉しそうだった。

 でも。心優も受け取ると心が躍った。シックで大人っぽいワンピーススーツ。お仕事で着る初めての私服スーツ。これを着て、美麗な准将の秘書官として司令殿とプライベートのおつきあいにでかける。


 それこそ秘書になったような気もして、今度は髪型が気になったり、メイクをどうしようとか考えてしまった。




 ―◆・◆・◆・◆・◆―



「じゃあな、また一ヶ月後。ごめんな」


 今日は夏制服姿の彼がいってしまう日。これだけはわかった。彼が小笠原を出て本島に行くことだけが。でもどこか教えてくれない。

 ボストンバックを担いででかける姿は、まさに航海に行こうとしている男のよう。


 玄関先で心優がじっと見つめていると、雅臣が困った顔で緩く微笑む。

「そんな目で見るなよ、すごく、弱いんだよな……、心優のその目……。俺の心臓がズキズキする」

「だって。どうにもできないんだもの。メールしかだめって……。准将に内緒で会いに行くとどうなるの?」

 雅臣が焦った顔になる。

「とんでもない! 俺、クビになる……」

「そうなの? そんなことなの」

「うん。そんなことだ」

 きっぱり真顔で言いきった。そんな雅臣のシャーマナイトの目を見て、心優も悟る。彼も本気で真向かう気迫で行くのだと。


「わかったよ、我慢する」

 そんな彼がボストンバッグを放って、目の前にいる心優を抱きしめてくれる。

「帰ったら俺達の夏休みだ。お互いの実家への挨拶が終わったら、どこかで一泊か二泊でもいいからゆっくりしよう」

「ほんとに?」

 好きな男の人と、何処かに泊まりに行くだなんて心優にとっては初体験だった。しかも婚約者の、憧れていた大佐殿と一緒。


「どこに行きたいんだ、心優は」

「隠れ家みたいな温泉かな」

「いいな、それ。一日中、心優を抱けるな……。くたくたになるまで、抱いてやる」

 そういって、彼が綺麗な微笑みで心優のくちびるにキスをしてくれる。


 一日中……、二人きり。軍服を脱いで、ほんとうの二人きり。長いキスをしながら、それを思うだけで心優もとけてしまいそうだった。


「研修中に探しておくな。心優も探しておけよ。帰ったら相談しよう」

 それを楽しみにして。そういって、雅臣は笑顔ででかけてしまった。

 心なしか、彼はその研修をとても楽しみにしているような気もする?


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 とうとう雅臣が行ってしまった。よくわからない研修に行ってしまった。

 すでに宿舎を引き払い、すっかり雅臣とふたり、官舎住まいに慣れてきたところだったのに、数部屋もある官舎に一人でいるととっても寂しい。


 もう、こうなったらガンガン仕事打ち込もうと、心優は意気込んでいる。

 たった一ヶ月じゃない。たぶん……。

 軍の仕事が極秘であることはままあること。ここで動揺しては大佐殿の妻とも婚約者とも言えないじゃない!


 そう言い聞かせ、心優は秘書室の仕事も、護衛部での新しい訓練官としての仕事にも邁進。



 今夜は大事な仕事がある。

 心優は、シックな黒のワンピーススーツを着て葉山に着ていた。

 マリーナに停泊するクルーザー。シェフが出張でフルコースの料理を作ってくれる船舶フレンチに、御園准将と共に招待されていた。


 迎えてくれたのは、若白髪の司令殿と彼の秘書官。彼等も品の良いスーツ姿、桟橋で待ちかまえていた。今夜は貸し切りだと聞いている。


「まっていましたよ、葉月さん。貴女の好きなものを揃えておきましたからね」

「海東司令、お招きありがとうございます。いつも素敵なお席をご用意くださって嬉しいです」

 司令はプライベートのつもりなのに。准将はあくまで上官からのお誘いという顔に徹している。


 海東司令は航海を終えた御園准将を労うために、あの手この手で上等なご馳走をしてくれるのが恒例になっているらしい。


 危うい雰囲気にならないか心優は警戒していたが、紳士的な男性としての労りと、それを快く受ける女性の清い空気しかかんじない。

 こうして二人きりになる場に誘うのも、誘われて警戒なく向かうのも、そこに『二人だけでしか話せないなにかがある』からなのだと、心優も心得ているつもりだった。


 海がよく見える窓際の席に、海東司令と御園准将が向かい合い。今日はレディファーストで海東司令がかいがいしく御園准将をエスコートしてご機嫌だった。

 なのに、御園准将はとっても素敵な水色のスーツを着ていても、やっぱりここでもアイスドールのお顔。だから余計に海東司令がなんとか笑わせようとしているのが、ちょっと痛々しい。


 そして心優は『お供専用』の少し離れたテーブルで、司令殿の秘書官と向かい合っていた。

「いつもあんなになるんだよな……。ミセスが航海から帰ってくると、ほんと司令は尽くそうとするというか……」

 おつきの秘書官も溜め息をついている。司令としてそれはちょっとどうかと頭を痛めているようだった。

「大神中佐なら、もうご存じですよね。海東司令と御園のご関係。司令の御園と共にありたいという気持ちの表れではないでしょうか」


 向かい合ってオードブルを口に運びながら、心優からかまをかけてみた。すると大神中佐が目を見開いて驚いている。


「けっこう、はっきりくるね。園田さん。もっと控えめで……」

「准将の後ろにひっついているだけの女の子と思われているのはよく知っています」

 そう告げると、いきなり彼がくすっと笑いを抑えに抑えていた。

「どうやら、今回の航海で化けたというのは本当のようだね」

「とっても刺激的な航海でした。本心は二度とごめんなのですが、准将が艦長を務める以上、これからも心してお供をする覚悟です」

「うん、いいね。秘書官の鏡だ。今回もミセスに負けず劣らず冷たい顔をするラングラー中佐と無言で向きあって食事かと思っていたけれど、自分のお向かいさんも素敵な女性で今夜は嬉しいですよ」


 そういって、素敵なスーツ姿の大人の男性が、心優のグラスにワインボトルを向けてくる。

 本当はお酒は飲まないと決めていた心優だったが『ひとくちだけ』ご馳走への感謝の気持ちを込めて、グラスに注いでもらうことにする。


「園田さんも遠慮なくどうぞ。どうせ、僕たちは食べるだけしかできないのですから。おもいっきり行きましょう」


 いつもは怖い顔で海東司令の隣に常にいる司令秘書官の大神中佐。そんな彼もスーツを着ていても、男っぽくて凛々しい。さすがエリート秘書官。でも心優の夫になる男も、元々エリート秘書官。負けていないものね……と密かにほくそ笑んでしまう。でもその反面、恋しくなってしまって困る。臣さん、会いたいな。声を聞きたいな……という想いが募るばかり。


「今夜は園田さんも素敵ですね。城戸大佐とご結婚されるとか、おめでとうございます」

「ありがとうございます」


 准将についていると、こちらも極上の女性としてエスコートをしてもらえるので、なんだか心優は落ち着かなくなってしまう……。元はボサ子だったのに、こんなところにこんな姿でいるようになるだなんて。一年前の自分を思うと激変だった。


 食事をすすめていると、徐々に准将も笑い声をたてるようになってきた。海東司令と懐かしい空の話をしている。

 海東司令は准将より五歳ほど年下。かの女性パイロットを一目見た時の……と、雅臣と話していたようなことをこちらも話している。


 食事も最後になってきた頃。すこし、上官二人の会話が止まった。良く喋るのは海東司令だったから、彼が口をつぐむととても静かになる。


 その海東司令が唐突に告げる

「貴女の次のポジションが決まりそうですよ」

 御園准将の食事をする手が止まる。彼女が琥珀の眼差しで、若白髪のスーツの男を静かに見上げた。


「かねてより計画されていた小笠原に訓練校を設置するという話、工事の着工も目処がつき、そろそろ人事へと移る段階です。そこで初代の校長を務めて頂こうという話が出ています」


「校長ですか」

 御園准将が微笑まずに答えたが、その目は海東司令に感謝する眼差しに心優には見えた。


「ありがとうございます。横須賀訓練校の校長をしていた叔父とおなじ仕事に就けるのですね」

「そう。航空機専門の訓練校ですから、貴女にはぴったり……。というより、そこは単なる居場所に過ぎず、貴女はそこを拠点にして暗躍するのでしょうね。期待していますよ」

「暗躍ですか。いつも酷いですわね、司令ったら」

 御園准将が笑うと、海東司令も笑う。二人がワイングラスを掲げ、無言でカチリと合わせた。


「司令のためなら、離島でも存分に暗躍いたしますわよ」

「嬉しいね。頼りにしていますからね。御園のお嬢様」

 この食事は定期的にかわされる『秘密契約の確認』なのだと心優は感じた。


 ミセス准将にとっては、海東司令という将来有望なかばいだてをしてくれる上官が必要。

 そして海東司令は、どうしても手を下せない時の『奥の手』が必要。闇で動いてくれる味方、御園家が持つ『黒猫』が。

 そんな二人を見て、心優の心にまた滾るものが襲っていた。


 近い将来。わたしは訓練校校長の秘書官となり彼女を護り、陸から彼女と共に海の男達をサポートする。


 陸にウサギが帰ったら、今度、海にいるのはわたしの夫と彼女の夫だろう。

 ぜったいについていく、離れない、一緒に彼等を護る。その思いで溢れていた。

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