84.シルバースター

 夏の長期休暇に沼津の実家と、雅臣の浜松の実家に挨拶を終えたら、入籍だけすることになった。

 結婚式はどうするかまだなにも考えていない。

 雅臣と暮らし始めて、それだけでめまぐるしい。航海から帰還して一ヶ月があっという間に過ぎた。


 しとしとと雨の日が続いている。小笠原も梅雨の影響を受けて、珊瑚礁の海が少しだけくすんだピーコックグリーンの日々。


 長い間留守にしていた御園准将室も平穏を迎えつつある頃、心優はとても信じられないことをミセス准将から告げられる。


「来月から中尉に昇進するから、よろしくね」

「どなたが、ですか?」

 午後の業務が始まってしばらく。一息つきたそうにしていたミセス准将に、いつものチェリーのアイスティーを作っていた時だった。


「貴女にきまっているじゃない。勲章も叙勲されるわよ」

 え!? 心優は驚き固まった。

「ま、待ってください。わたしはまだ、半年前に少尉になったばかりです。それに、勲章だなんて!!」

「先日の航海任務での実績が認められたということよ」

 絶句する。こんなことがあっていいいのか。自分にはもったいないに決まっているし、まだそんな実力ではない。


「わたしには勿体ないものです。まだそんな実力はありません」

「貴女がそう思っても、本部がそれに相当すると判断したのよ。受けておきなさい、というか、受け取りなさい」

 まだ躊躇っている心優をみて、御園准将が溜め息をつくと、准将室の大きな木彫りのデスクから立ち上がった。そうしてティーワゴンの上でお茶を淹れている心優のところまでやってくる。


「貴女だけじゃないのよ。シドは大尉に昇進、彼も勲章を授与される。私を護って負傷したアドルフも勲章を授与されて、定例試験の時期より早めに試験を受けて少佐に昇格する予定なの」

 その時、心優はシドの言葉を思い出した。『小笠原に帰ったら大変なことが起きる。御園の一員になる。軍隊が実力重視の場所だってわかるはず』と――。


 このことだったのかと、やっと痛感した。ほんとうにこんな事が起きる。そしてこんなことができるのは御園准将の側にいるからに決まっている。この人とこの人に繋がっている上官達がどれだけの権威と権力を持っていることか。それを証明している。


「承知いたしました。あの、有り難うございます」

「貴女の実力が、ようやっと開花しただけでしょう。道場や試合という場所以外でその力をどう使えばよいかとても迷ったことでしょうね。でも、生々しい厳しい場所での開花であって、それは引き込んだ私としてはちょっと心苦しく思ってはいるのよ」

「いいえ。もよとり、武道たるものどうして存在するかと言えば、そこなのです。でも、いつかスポーツだけで済めばいいのにとは、航海中に思ったことがあります」

「そうね。私もそう思うことがあるわよ。私自身もどうして自らを傷つけるようなところへ身を投じてしまったのか……」


 そこで御園准将が暗い顔になる。


「それは傷つける者がいたからです。どんな形でも、傷つける者から護りたくて武装する。闘おうとする。それが武力になってゆくことは哀しいことですけれど、いまの世界では避けられないことでもあります。でも、なるべくならお互いを牽制するだけで終わらせる。お互いの国を護るに留める。それを航海で知りました」


 心優の言葉に、御園准将が目を丸くする。そして、暗かった顔から笑顔がこぼれる。


「心優、貴女、今の言葉を半年前に言えた?」

「いいえ、まさか。空手家という枠から抜け出せない状態のまま小笠原に来たのですよ。海の上の世界がどのようなものか、ようやっと知ったのですから」

「それだけ言えれば、知っていれば、解っていれば。中尉として充分よ。それに空手家ではなくて、もう将軍の立派な護衛官なんだもの」


 半年でそれだけ成長したのだと言ってくれる。そう言ってくれるのならば、心優も自信を持とうとは思う。


「護衛部の中佐から、これからは訓練官として参加して欲しいとの申し出があるわ。考えておいて。実戦経験がある隊員になったのよ。身体に叩き込まれている的確な技、そして任務の経験を護衛を目指す隊員に指南して欲しいと言っていたわ」

「左様でございましたか……。かしこまりました。考えておきます」


 小笠原の基地に帰還してからも、心優はまた様々な人に声をかけられる。

 空母で起きたことは機密事項にはなっているが、それでも基地の一部ではその事情を知っている者もいる。そして、その空気はなんとなく一般隊員にも伝わっていく。


『大陸国戦闘機墜落は、ミセス准将の空母の側で起きたらしい』

『空母でなにかあったようだ。非公開にされているが侵入者があったのではないか? それでハワード大尉が艦長の盾になり負傷して一足先に帰還。その時に侵入者を制圧したのが園田少尉……』


 基地の者は機密事項についてはおおっぴらに話すことは出来ないけれど、なんとなく誰もが知っている。


 だから外に漏らすことが出来ないが、基地の中で心優を見る隊員達の目が出航前と変わっていることに気がついた。


 それまで准将の側に付いているお気に入りの女の子が来た――と見られていたのに、男性隊員達がどこか畏れを抱いたようにして、敬礼をしてくれたり、丁寧な挨拶に会釈をしてくれるようになった。

 しかも『城戸大佐と結婚する』という話も既に知られており、大佐殿の妻になる人としても、どこか遠巻きにされている気がした。



 午後の業務を終え、夕方の業務に入る前に、心優は休憩をもらいカフェテリアに向かう。

 高官棟の五階にある。つまり空部大隊本部と准将室がある二階上になる。


 そこのエレベーターが開いて、フロアに出ると、向こうに雅臣と橘大佐が一緒にいるのが見えた。向こうもこちらに気がついた。


「心優ちゃん! お疲れ!」

 相変わらず調子が良い橘大佐の明るさに、心優も笑顔になる。

「お疲れ様です、橘大佐」

 二人の大佐は『空部隊本部指揮班、雷神室』という新しくできた一室にいて、心優がいる大隊本部とは少し離れた場所の部署にいる。


 それでも、元々エースだった二人の大佐が並んでそこにいるとかなり目立つ。

「雷神のミーティングは終わったのですか」

「おう、いまさっきな。最近、葉月ちゃんが雷神から徐々に手を引いているからさ、俺達だけでね」

 これも航海から帰還してきてから変化したことだった。それまで雷神といえば、御園葉月准将のものと言ってもいいぐらいに、彼女がいて当たり前、彼女がなくてはならないものだった。


 なのに。航海中も少しずつミセス准将はその気配を見せるようになっていたが、甲板の訓練も数日おきの見学になり指揮にはもう立とうとしない。ミーティングも同じく二日に一回顔を出す程度で、雷神の指揮は橘大佐と雅臣に任せるようになっていた。


「英太がちょっと荒れているんだな。あいつ、葉月ちゃんがいない雷神なんてあり得ないと思っているんだよ」

 橘大佐が溜め息をついた。心優もそれは目に浮かぶほどわかってしまい、なんと返答して良いのかわからなくなる。雅臣もちょっと困った顔をしている。

「准将もわかっていて、突き放しているとは俺達もわかっているんだけれど。ちょっと手に余っているんだ。あいつ、スワローにいた頃からきかん坊だったし」

「だよなあ。そのスワローにあいつが在籍していた時、この俺でさえ手に余って、葉月ちゃんに丸投げしちゃったぐらいだからなあ」

「准将もわかっていて、いまは黙っているんだと思います。わたしから一応、報告はしてはみますけれど」


 でもそこで大佐二人が『いやいや、報告はしなくてけっこう』と手を振った。そこはもう俺達の仕事と大佐の二人が揃って言いきった。


「英太もわかってるんだよ。姉貴がどこに行きたがっているか。どうしたいか。でもさ、一緒にいたいんだよ、空に。それは俺達も一緒。だけれど、彼女はいつも俺達の前を行く。艦を下りても空から離れても、きっと空をみているよ。きっともう……、俺達がまだみていない何かが見えていて、俺達をそこへ連れていく準備をしているはずだ」


 長年、パイロット同士で、艦では相棒だった橘大佐の言葉。准将はもう、どこへ行こうか決めていて、そしてもうそこを目指している。


 心優はまだ同じものが見えないけれど、それでも、彼女が艦を下りる準備をはじめ、そして次へ行くための準備を始めているのは肌で感じていた。


 艦を下りて、やっと陸に戻ってきて落ち着いてきたと思っていたのに。中尉になるとか、ミセス准将がなにやら始めようとしている空気に胸騒ぎが止まない。


 なにかが変わろうとしている気がして……。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


「え、中尉に昇進!?」

 今夜も官舎の周りは蛙の鳴き声。暑くて窓を開け放しているので、余計に大合唱で聞こえてくる。


 でもいま二人はカレーの匂いに包まれ、二人一緒にキッチンに立っていた。

「そうなの。もうびっくりしちゃった……。いいのかな、本当に。勲章ももらえるんだって。シルバースターの勲章だって」

 勲章も!!! さすがに雅臣も驚いて心優の隣で固まってしまった。

 心優がごはんをよそって、雅臣がカレーをかけているところで、彼が鍋の前でそのまま止まっている。


「そんなつもり、なかったし。たまたまそうなっただけだし。ほんとうに、あの一瞬のことだけでもらっていいのかな……」

 まだ飲み込めない。でも、茫然としてした雅臣が我に返ると、懐かしい元上司だったときの室長の横顔になった。

「一瞬だったからだろう。本当に、あの時は一瞬だった。あの一瞬、俺も動けなかった。准将もきっと……隼人さんが言うように、心の底で縛られて若い時のような勇敢さも足止めされて動けなかった。あの時、ハワード大尉もいなかった。その全てが壊されそうだった一瞬のその時にもっと早く動けたのが、園田少尉だった」


 雅臣が、大佐殿が心優を見下ろす。


「俺もパイロットだったからわかる。一瞬がどれほど大事で恐ろしいことか。その一瞬を制したのに、一瞬のことだけで? 違うだろう。その一瞬で動けるよう、子供の頃から鍛練してきたんだろう。心優の軍隊での金メダルじゃないか」


 ハッとして、今度は心優が固まる……。軍の金メダル。本当の勲章の色はシルバーだけれど。


「だから、心優。いいんだ。いままでの自分の全てがあの一瞬にあって、心優は准将だけじゃない。殺されそうだった大陸国のパイロットも、動けなかった俺も、護ってくれたんだから」

 そして、心優が茫然として持っていたカレー皿を、雅臣がそっと取りさりキッチンに置いた。


「おめでとう、心優」

 彼が嬉しそうに微笑んでくれたから、心優もやっと笑顔になれる。

「ありがとう、臣さん」

 真っ正面から、優しく抱きしめてくれる。彼といると、彼にカラダを労ってもらえると、女性にしては背丈がある心優でも華奢な女性になってしまう。そんな彼に心優は甘えてしまう。


「そっかあ、これでますます最強な奥さんってことになっちゃうな。でも、沼津のお父さんも喜ぶと思うな! いますぐ知らせて来いよ」

「うん、そうする」

 胸に抱きしめて、黒髪を撫でてくれた雅臣の笑顔に促されるようにして、心優はダイニングテーブルの上に置いているスマートフォンを取りに行く。


「あ、お父さん。心優です」

 ダイニングからリビングへと歩いて、心優は珊瑚礁の海が見える窓辺に立って父に報告をする。

 はあ? なんだって!? はあ? なんだって? 父が同じ事を繰り返して驚いているので、心優は笑ってしまう。


『そうかあ……。やはり、御園の側にいると違うな。でもな、心優。それだけ責任が重くなるということなんだぞ。わかっているのか』

 手放しで喜ばない。そこにはそれ相応の重さがあること、苦しくなっていくこと。父はそれを忘れていない。また、それは娘を案ずるものであることは、心優も重々承知だった。


『あまりにもスピードがありすぎて心配だな。まあ、ミセス准将がいるから大丈夫だとは思うが……。あ、それよりな。おまえ、式場とかどうするんだ?』

「まだ決めていないよ」

『母さんがめちゃくちゃ浮かれまくっているぞ。最近はお母さんがドレスを着るのかってくらい結婚雑誌を買いあさってながめているらしいぞ。兄ちゃん達もおまえが結婚するって知ってひっくりかえっていたわ』

「失礼だな……、兄ちゃんたちったら。自分たちはさっさと結婚したくせに。妹の結婚でなんでそんなに驚くのよ」

『これで、妹が海軍で昇進して勲章をもらうと聞いたら、おまえ、兄ちゃん達が拝んでくれるかもしれないな。あはは!』


 なにごともスムーズに生きてきた兄達に比べ、心優はくすぶってばかりだった。そう思うと、やっと兄達のように生きていけるようになったのかなとも思う。


「心優、できたぞ」

 振り返ると雅臣がもう食卓を整えてくれていた。

『お、雅臣君の声が聞こえたな。いまから夕食か』

「うん。彼がカレーを作って待っていてくれたの。秘書室にいるわたしのほうが帰りが遅くなることが多くて。でも雅臣さんも秘書官だったからなんでも一人でできるの」

『大佐殿に作らせるだなんてなあ……』

 たいしたもんだなんて、父が変な溜め息をついてそこで話が終わった。


 美味しそうな食卓ができあがっていて、心優は笑顔でテーブルにつく。

「臣さんの男カレー、大好き!」

 男の感覚で作られた辛口で濃いめ、お野菜ごろんごろんの豪快なカレーライス。心優が大好きなメニューのひとつになってしまった。


 いただきます。

 ふたりそろっての食事も、最近は当たり前になってきた。


「お父さんの笑い声って豪快だな。電話越しでも聞こえてきたよ」

「そうなの。その逆に怒る時も声が大きいから、それはそれで怖くなっちゃうんだけれどね」

「まだご挨拶前だけれど、お父さんとお母さんも受け入れてくれてきたみたいでひと安心だよ」

「わたしはまだ不安かな……。ほんとうに臣さんのお母様に気に入っていただけるのか……」


 雅臣と二人で暮らしてみても、独り暮らしが長かった雅臣の方が家事も慣れている。逆に心優は寄宿舎生活が長かったので、いきなりの婚前生活に戸惑うことが多い。

 なのに。そこは大人の彼がきちんとフォローしてくれて、なんとか幸せな毎日を送っている。


 雅臣はもう秘書官ではなく、現場の指揮官になったので、なにもなければ割と早めに帰ってくる。逆に心優は准将室中心のスケジュールで動くので、残業も多く定時であがれることはほとんどない。


 ……なんて、夫に家事ばかりやらせてる嫁になっちゃいそう。しかも、嫁が夫より腕っ節の良い空手家で、それ一筋で来た女とくれば、母親はどう思うのだろうと不安だった。


「大丈夫だって。俺ももう三十後半で、しかも事故の後はひねくれて暗くなっていたし、実家を避けていたから。母親は『その子のおかげみたいね』って喜んでいるんだって何度言えばわかるんだよ」

「ちゃんと言ってくれた? 空手ばっかやってきたボサ子だって」


 清楚なお嬢様が息子を支えてくれていると夢みていたら気の毒になってしまうから、そこも心優は心配。


「ボサ子なんて言わないに決まっているだろ。でも、空手の日本選手団にいて、准将の護衛官で凄腕の女の子とは伝えている。うちの母ちゃん、楽しみにしていたけれどなあ」

「ほんとに?」

「ほんっとに。心優だったら大丈夫だって。自信持てよ。そっちこそ、うちの母ちゃんみて驚くなよ」

「どういう意味?」

「俺の母親だなあーって納得すると思う」

 なんか言いにくそうなので、心優は首を傾げるし、やっぱり不安になってしまった。


「それから。今日は心優に知らせたいことがある」

 美味しく食べていたのに、目の前の彼が急に改まった。ちょっと伏せた眼差しに、心優は胸騒ぎ。

「なに。臣さん」

 心優も食べる手をとめて、改まった。


「実は。来週から暫く、とある研修にでかけることになったんだ」

「え。なんの研修?」

 せっかく一緒に暮らし始めたのに? でも仕事なら仕方がない。心優は飲み込もうとする。


「悪い。御園准将からの指示ではあるんだけれど、言えないんだ」

「言えない……?」

 言えない研修と聞き、心優がすぐに思い浮かべたのは、研修に行くと言って実は極秘任務に就いていたシドが受けていた使命だった。


「それって極秘、なの」

「うん。家族にも言うなと言われている」

「シドみたいに危ない任務に行くの? それとも、臣さんだけまた艦に乗っちゃうの! なんの研修なの!」

 直属の上司である御園准将が、雅臣よりも毎日一緒にいる護衛官の心優には一切ちらつかせてくれなかった。それほどのところに行ってしまう?


「いや、フランク中尉みたいなそんな極秘任務ではない。これは言い切る。任務じゃない。ほんっとうに研修な」

「どれぐらい行くの?」

「うまくいけば、一ヶ月かな」

 うまくいけば? 意味がわからない。

「うまくいけばって、仕事のこと?」

「うーん、ともかく。これは俺も話をもらって『行きたい、やりたい』と思ったんだ。それに……。終わればそれはまた俺にとっては糧になるもの。一生に一度というか……」

「危ないことじゃないんだよね?」

「うん、大丈夫――」

 いつもの爽やかな微笑みをめいっぱい見せてくれたけれど、歯切れが悪かった。やっぱり不安だった。


 なんの研修? いつ帰ってくるの? 

 いつか彼が艦長として航海に出て行くようになったら、こんな気持ちになることは覚悟しておかなくてはと思っていたのに。


 まさか、艦から降りて一ヶ月で、大佐殿が何かを任命されてわけのわからない研修に行ってしまうだなんて。


 覚悟が出来ていないうちの、見送り。そして、熱愛まっただ中の婚前生活に浮かれていた心優は、急激な寂しさに襲われてしまう。


どこにいっちゃうの、大佐殿?

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