83.カナリア色の月へ行こう

 二日の査問委員会を終え、ふたりは小笠原へ帰る直行便飛行機に乗る。

 小笠原に着いたのは、日暮れだった。


 でも、雅臣と心優は二人揃ってスーツケースを引きずって、おなじところへ向かっている。

 基地の警備口を出て、海沿いの道を黙って歩いている。心優の目の前に、大きな背中の大佐殿。

 どうして黙っているのか。心優にもその気迫というか、意気込みとか緊張が伝わってくる。


 それは心優も同じだった。

 官舎に着いた。


「独り暮らしで子供がいないんで、最上階の四階なんだ。荷物は出航前に届いてある程度は整えに帰ったんだけれど、荷ほどきは終わっていない」

 アメリカキャンプを通り過ぎたところ、裏手に鬱蒼とした森林が広がっているそこに海に面して団地がある。そこが日本人官舎。幹部の独身男か家族連れの隊員が優先されて住むようになっている。


「埃っぽいと思うけれど、いいかな」

 雅臣が申し訳なさそうに、後をついてきた心優を見下ろした。

「大丈夫だよ、どこだっていいの」

 そういうと、雅臣が嬉しそうに笑ってくれる。


 なにがと確かめもしないのに、でも、お互いに解っている。

 これから、ふたりそろってどうなってしまうのか。どうしたいのか。そんなのひとつに決まっている!


 二ヶ月も我慢したんだから。だからって帰ってすぐにそれかと言われると、卑しい気もするけれど。それでも構わない!


 二人で階段を上がり、ドアの前に立った。雅臣が鍵を手にして開けた。

 ドアを開けると、人が住んでいるような匂いではなかった。どこか無機質でなにか物質的な匂いだけ。


 それでも海側の窓から優しい光がこぼれている。

 小笠原の夏、官舎裏の島森林から、夕蝉の優しい声と島特有の森蛙のひそやかな鳴き声が聞こえてくる。


「横須賀とおなじ間取りなんだね」

「官舎は日本全国同じ間取りだよ」

「そうなんだ。うん、でも。同じって嬉しいかも。だって、また臣さんと同じように過ごせるんだよね」


 あの時みたいに。そう囁いて雅臣を見上げた途端、彼がスーツケースを放り出して、また玄関の壁に心優をドンと押しつけた。またあの時と一緒!


「お、臣さん?」

 あの時は室長だった上司が間近に迫ってきてドキドキしていた。彼の指が当たり前のようにして黒いネクタイをほどいた。いま心優はそれを思い出している。

 そして、あの後のいままで感じたことがない、熱くて、灼けるような、ベッドの熱愛。


「はじめて一緒の夜は、まだかわいい猫の顔だったのにな」

 雅臣が心優の顎先をくいっと上向きにする。

 彼の黒いネクタイがふっと揺れる。そうして心優の目を上からじっと覗き込んでいる。


「いまは、女っぽくて欲しそうな顔してる」

「臣さんのせいじゃない……。慣れていないわたしにいっぱい……、」

 教えたくせに。カラダにかんじさせたくせに。覚えさせたくせに。

「いっぱい、なんだよ」

 ベッドの上で覚えていること、覚えさせられたこと。それをあからさまに言えるはずもないから、心優は頬が熱いままそっと目を逸らしてしまう。


「じゃあ、もう俺と一緒に楽しめるよな。教えられるばかりのボサ子ちゃんじゃないだろ」

「なに、急に意地悪になって」

「待てないんだよ。艦から降りたら、いつもこんなだよ。海の男の渇望、知らないだろ」


 それはわたしもだよ……。息だけの声で、心優もつい漏らしていた。聞こえたのか、雅臣は心優の鼻先でにっこり余裕の笑みを浮かべている。


「じゃあ、いいな」

 そういって、雅臣がまた玄関先で心優を抱き上げた。また靴を履かせたまま!

 ひょいっと軽く抱き上げてくれる大佐殿。あの時はただただ連れ去られるボサ子ちゃんだったけれど、今日の心優は驚きながらも、でも、ぎゅっと彼の首に抱きついた。


「嬉しい。あの時、みたい……」

 雅臣の額に自分の額をくっつけて、心優は涙ぐんだ。

「わたしにとって、あの日々がいままでいちばん幸せな時だったから……」

 それを取り戻した。心優は泣いて、雅臣に抱きついた。心優を両手に抱き上げたまま、雅臣はそっと耳元に口づけてくれる。


「これがずっとだろ。今日から……」

「うん」

 彼の首に抱きついて、心優は彼の肩先にもたれる。そのまま雅臣が大きな手で、心優の黒髪をするすると撫でながら歩き出す。


 またひょっこりと片側を引きずる歩き方……。

 横須賀と同じように、雅臣がいちばん奥にある部屋のドアを開ける。夕の茜に染まるその部屋には、懐かしいベッドがあった。


 そこに心優ははじめての時と同じように、ぽーんと放られる。

 ベッドにはきちんとベッドカバーもしてあった。でもそのまま雅臣が制服姿のまま、制服姿の心優の上へと覆い被さってくる。


「今日から、ここで、いいな」

 寝かされている心優の目の前で、彼が黒いネクタイをほどく。そして、大佐の黒い肩章と金星がついている白シャツのボタンも手早く外して、ザッと脱ぎ去った。


 はじめての時。彼のこのパイロットの肉体を見て、きゃーっとなったことを心優は思いだしたが、何度見ても惚れ惚れしてしまうので、やっぱり心優は今回も『きゃー』と感動してしまう。


「なんだよ、もう。いい加減、見慣れろよ」

「だって。……その、久しぶりに見たから……」


 心優の真上、すぐそこに大佐殿のシャーマナイトの目がある。その目が柔らかい茜の中、濡れた石のように綺麗に光ってせつなそうに揺れている。

 心優の伸びた頬の髪をそっと静かにかき上げると、彼が目を閉じた。心優も、静かに瞼を伏せる。すぐ感じた、柔らかくて熱い彼の唇。


「心優、待ち遠しかった」

 わたしも……。言いたいのに、優しいくちづけが熱烈な激しいものに変わっていく。

 熱い吐息が心優の口元にふりかかる。濡れる感触と熱く絡め取られ、奥まで愛される激しさに、心優は呻くことしかできない。



 海の男の渇望がそこに顕れている。それは唇だけではない。彼の大きな手も迷いがない。

 心優の腰にあるスラックスのベルトを外し、いつかのようにショーツもスラックスも一緒に掴んだ雅臣が、一気に引き下ろし、力任せに心優のつま先から抜いてしまう。

 その手際の良さと力強さ。前はただただ驚いていたのに、もうそこまでされたら心優も待てない。下は彼が脱がしてくれたなら、わたしは……と、心優はネクタイをほどいてすぐに制服の白シャツのボタンを外していく。


「ほんっとに全然変わっていない。俺の好きな、心優の……」

 爛々と目を輝かせ嬉しそうに頬を緩ませたお猿。

 心優も素肌を晒してしまうと、もうそれだけで息が弾んで抑えられない。


 抑えられないのは心優も一緒だった。海の男の渇望? それなら海で闘ってきた女だって、陸に帰ってきてめいっぱい男に愛されたい!


 熱い男の皮膚と女の肌が重なる。


 心優もかんじるまま欲しいままに、彼の黒髪をかきむしって引き寄せて欲しがった。

 はあはあと心優の息も上がる。

 女の渇望もかなりのもの。ようやっと取り戻したわたしの彼。その人に愛されたくて愛されたくて、でも職務優先と必死に抑えてきた。

「お、臣さん……、わたし……」

 自分でも分かる。雅臣が獰猛に責めているからだけじゃない。待ちに待っていた愛撫に、どうしようもなく敏感に反応している。

 なにもしなくても、もう心優のカラダはお猿を欲している。


 徐々に薄暗くなる夕闇の中、裸になった心優を見下ろしている雅臣の目が真剣すぎて、少し怖い。いつもの愛嬌で、軽く笑って、なんなく心優の素肌に触れてきたお猿じゃない。


 雅臣が見つめて動かなくなったのは、心優の胸元。そこへと彼が手を伸ばした。

「つけてくれているんだな」

 裸になった心優が身につけているのは、もうそれだけ。彼がくれた『猫の目』。あの時のような夕闇の空。そして、彼を見つめる心優の眼差し。同じだと言ってくれた約束の石。


「いま、おなじ目になっている」

 そういって、雅臣が裸の心優に覆い被さってくる。そこからは、心優が待ちかまえいていた猿に抱きつかれる。


「臣さんだけよ、おねがい、わたしだけ愛してよ」

「もちろんだ。おまえだけだよ」


 艦から降りたら猿になる。理性を保って艦に乗っている大佐殿が、女だけを求める動物になる。

 薄い夕暮れだったのに、やがて、素肌でもつれあう二人を見つけたとばかりに、大きな月が東の窓に見えてきた。


 カナリア色の月灯り。月光に晒され解き放たれた渇望が弾け飛んでしまう……。


「かわっていなくて、俺の心優のままで、嬉しいよ」

 お猿はお猿が普通だからなのか、余裕の愛嬌笑顔のまま。


 カナリア色の月にみつめられて、心優はしばらくその光の中に連れ去られたような錯覚を起こした。


 南の島の月、潮騒。島ジャングルの生き物たちの声。

 これからここで、彼と一緒に暮らす。

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