80.うちのウサギを頼んだよ


 食事を終え、艦長室に戻ってみて、心優は目を見張る。

 いつも食事をしている窓際のテーブル、そこに食事が置かれたままになっていて、ご夫妻の姿がない。


 それでも、どちらかお一人だけ食事をしている食べかけのお皿だけがある。

 もしかして。御園大佐だけが食事を済ませていて、奥様はまだ起きていない? それとも食事をしていないだけ?


「おっはようございます」

 艦長室のドアが開き、そこへ白い飛行服姿の鈴木少佐が現れた。

「おはようございます。鈴木少佐。いかがされましたか」

「今日中に隼人さんが補給艦に乗り換えて陸に帰るって聞いたから、挨拶に来たんだけど……。あれ?」


 鈴木少佐もパイロット仕様の腕時計を見下ろして首を傾げている。


「葉月さんは? もうすぐミーティングの時間じゃないの、隼人さんもいないってどういうこと?」

「お二人だけでお食事をしていただいて、わたしはカフェテリアから帰ってきたところです。そうしましたら、お食事は済んでいないご様子で、お二人ともいらっしゃらないし」

 すると、鈴木少佐の表情が曇った。

「ま、まさか。また……? この前、なったんだろ?」

 心優も気がついて血の気が引いた。

 では、いまベッドルームでまたお二人だけで対処している!?


 鈴木少佐と顔を見合わせ、二人揃ってすぐさま艦長ベッドルームへと向かう。

 艦長ベッドルームのドアを心優はノックする。

「御園大佐。どうかされましたか? お食事がそのまま……」

 それだけでドアが開いた。

 ドアが開いたかと思うと、眼鏡の大佐がすぐにサッと部屋から出てきてドアを閉めてしまう。


「なんでもない。艦長が寝坊しているだけだ」

 しかも、鈴木少佐が一緒にいることに気がついて、あの大佐がギョッとした顔になる。

「英太。なんだ、こんな朝早くから訪ねてきたりして。おまえ、今日は非番なのか」

「そうだよ。しばらく指令室とブリッジは緊急事態体勢だったから、許可がないと近寄れなかったんだよ。ラングラー中佐に聞いたらもう大丈夫だって教えてくれて、しかも隼人さんが今夜はもう補給艦に乗り換えて陸に帰るって聞いたから会いに来たんだよ」

「それは、それは……。よっしわかった。俺とお茶をしに行こうな」

 そういうと、御園大佐は自分より背が高い弟分の少佐の背を押して、ベッドルームから遠ざけようとした。


「え、あ、葉月さんは? 侵犯措置以降、ゆっくり話せていないんだよ。また、危なかったんだろ。苦しかっただろうって、俺、話したくて」

「俺が帰る前に頼みたいことがあるから。英太じゃないと頼めないことなんだ」

「俺じゃないと? うん、わかったよ、もう」

 そういって白い飛行服のパイロットの弟分を御園大佐は連れ出そうとしている。

「あ、園田。悪い。艦長の寝起きが悪いんで後を頼んでいいか」

「それは構いませんけれど……」

 なんかいつもの御園大佐ではない気がする? そんな眼鏡の大佐が『悪いな』と心優に拝み倒して鈴木少佐と出て行ってしまった。


 心優はさらに首を傾げる。それでももう起きて食事を急いでしてもらわないといけない時間。心優は思いきってノックして、少しだけドアを開けてみる。その隙間から声をかけてみた。

「艦長、失礼いたします。そろそろ八時になりますよ」

 なのに。返事がない。これはおかしいと思ってドアを開けて部屋を覗いてみる。


 丸窓が開いていて、爽やかな春の風が入り込んできている。高知沖の潮風は温かで、春といえども今朝はもう初夏のような陽気。その下にあるベッドにも、明るい陽差しがこぼれている。

 でも心優はそのベッドを見て、何も言えなくなってしまった。

 そこに素肌の栗毛の女性が、白いアップシーツにくるまって、すうすうと眠っている姿が……。


 それを一目見ただけで、心優は察してしまう。それと同時に、あの眼鏡の大佐が今朝から様子がおかしくて、しかも鈴木少佐を慌てるように遠ざけたわけもわかってしまう。

 心優も他人事ながら、ちょっと頬が熱くなってしまった。

 昨夜、ご夫妻がこの部屋で愛しあったんだということに――。


 もう~、御園大佐ったら。やる時はやるんだから。しかもわたしにこんなご夫妻の後始末を押しつけていった!


 しかしそれも信頼されている証拠、でもある。心優は気を取り直して、ベッドルームにお邪魔した。

「艦長。葉月さん。もう八時ですよ」

「う~ん、頭いたい……」

「え、そうなのですか。頭痛薬でも持ってきましょうか?」

「いい。もう、起きられるから」

 そういって、素肌のまま栗毛の女艦長がむっくりと起きあがった。

 きちんと胸元を隠して起きあがってくれたけれど、それでも、明るい陽差しの中で彼女の身体のあちこちにある傷跡がはっきりと浮かび上がる。


 いつか心優が目の当たりにした左肩と胸元の傷だけじゃない。背中、肩にも銃創がある。腕にも傷跡が……。まるで彼女の戦歴のようだった。

 なのに。どうして? 素肌で白いシーツにくるまっている母親のような女性が、すごく綺麗に見えるのは何故?


「レモンのお水、持ってきますね」

「うん、ありがとう……、心優」

 夫との睦み合いの後を見られてしまっても、御園艦長は落ち着いている。

 レモンウォーターをベッドルームに持って戻ると、御園艦長は水色の薄い綿ガウンをさらっと羽織った姿で、ソファーに座っていた。

「頭痛がするとのことで、ミーティングはおやすみされたらどうですか。御園大佐にお任せしたらどうでしょう」

「そうする。あの人のせいでこうなったんだもの」

 心優に見られてもまったく動じていない。


「お水をどうぞ」

 レモンスライスが入っている水のコップを差し出すと、彼女がそれを一口飲んだ。やっと目覚めたスッキリした顔になっていく。

「心優、ごめんなさいね。こんなみっともないプライベートの姿を見せてしまって……。そんなつもりじゃなかったし、毎晩そうなっていたわけじゃなくて、ほんと、その……あの……昨夜だけ……」

 やっとミセス准将がらしくなく頬を染めて口ごもった。

 アイスドールに血が通ったかのように初々しい薔薇色の頬になっている。


「よろしいのではないですか。御園大佐も我慢ができなかったのでしょう。また一ヶ月も奥様が防衛最前線で精神を律して任務を全うしようとしていると思ったら、ご主人として心配だったのでしょう。愛してあげたかったのでしょう」

「わかってるんだけれど……。だめって言ったんだけれど……」

 心優は何とも思わない。それが夫妻として普通のことで大事なことじゃないかと思うだけだし、これでミセス准将がまた頑張れるなら、一線を越えることをやってのける御園大佐によくやったと拍手をしたい程だ。

 そして……。ちょっぴり羨ましかった。そんな夫妻の姿が。


「鈴木少佐が早くお話したい様子でした。落ち着いたら艦長からお声をかけてあげてください」

「うん、わかったわ。私も暫く英太とは話していないから会いたかったの」

「ご主人がいる間、遠慮していたかもしれませんよ」

「そうね、きっとね」

 そこはちょっと申し訳なさそうな顔になった。もともとある鈴木少佐の想いを御園准将はきちんとわかっているのだろう。


「はあ、近頃は時々だけれど朝がだめになっちゃって……、寝不足になると覿面てきめんなのよ」

 そういって准将はこめかみを押さえて頭痛に耐えている。

「では、せっかくですから。ゆっくりしてくださいませ。お食事はこちらに取り分けて運んでまいりますね。指令室の男性達にはうまく誤魔化しておきます。ゆっくり身体と頭も目覚めたら、ゆったりとデスク室にご出勤ください。また明日からご主人がいない日が始まるのですから」


 テキパキと身の回りの世話をする心優を見て、准将がふっと笑った。


「テッドとは違うわね。やっぱり。テッドだったら絶対にこんな姿見せられないもの。彼も察しても、決して見ようとしないし見なかったことにするし、素知らぬ顔を必死にしてくれると思う。だからって、心優に見せてよいってわけじゃないけれど……」

 女性秘書官が側にいる場合と、男性秘書官がいる違いをそこにかんじているらしい。


「せっかく女性としての秘書官を必要としてわたしを横須賀から引き抜いてくださったのですから、そこは存分にお使いください。それに……わたしも……」

 心優もちょっと言いにくいなと口ごもる。それでも。

「わたしもこの航海中、艦長に女性としての気持ちを汲み取っていただいて、だから城戸大佐への想いが通じました。ですから、これからも女同士でお願いいたします」


「そうね。甘えてしまいそうね」

「こちらこそ、お母様として頼りにしております。いえ、お姉様としても」

「そんなに気を遣わなくていいわよ」


 艦長が笑って、やっとすっきりしたように薄いガウン姿のまま立ち上がる。

 もう一つの開いている丸窓まで行き、そこから入ってくる朝の潮風にあたろうとしている。窓辺に立つと、彼女の栗毛がさらっとそよぐ。白い肌にすっとした綺麗なカラダに、上品な水色のガウン。その立ち姿はまさに美麗な奥様だった。


 なのに瞳が、心優がよく知っている凍った琥珀に戻っている。

「心優。私の航海はもうすこし続きそうよ。これからもお願いね」

 男達にすべてを譲るまではまだもう少し時間がかかる。准将がまた空母の艦長として任命される時はまだやってくる。

「わかっております。これからも准将のお側についてまいります」


 さらに彼女が海に視線を馳せたまま告げた。

「次の航海では、雅臣を副艦長として連れていこうと思っている」

 心優は目を瞠る。この航海で雅臣が艦長として素質があると認められたことになる。


「妻になる女として、覚悟はできているわよね、心優」

「もちろんです」

 夫が海軍の空母艦艦長であって、妻の自分は海軍准将の護衛官。夫妻で防衛最前線に挑む軍人である以上、平穏ばかりの結婚生活ではない。穏やかな時間ばかりではない。その覚悟をもって、妻となれるか。軍人ではない、結婚する女としてミセスに問われている気がした。


「覚悟はできております。准将」

 心優は彼女に敬礼をする。

 それがソニックというパイロットを愛した女の覚悟。



 その日の午後、御園大佐は黒ネクタイと黒い肩章付の白シャツ制服に着替えて、空母艦を後にする。

 別れ際、奥様がいつもの澄ました顔になっているのをみて、ちょっと寂しそうに笑った眼鏡の顔が印象的だった。

「園田。今朝は有り難うな。うちのウサギを頼んだよ」

 無意識じゃないのかな? 彼の大事なウサギを託された。

 次にお二人が夫と妻の顔で会えるのは、横須賀の港。

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