77.父のロザリオを……

 ミセス艦長の体調も二日ほどすると、回復。艦長デスクにいつもの姿を見せてくれるようになった。


 なったのだけれど……。


「艦長、こちら、もう少しわかりやすく書いて頂けますかね」

 眼鏡の大佐殿が、あのミセス艦長に冷めた眼鏡の眼差しで、さらっと書類を突き返している。


「澤村が日本語で書いて欲しいと言うから書いたのよ。なにか文句ある? 私の日本語のクセを知っているでしょう」

「知っていますとも。女学生のような可愛い丸っこい字で、時々妙な日本語ビジネス文章をお書きになると」

「だから。日本語が見づらいなら、英語でいいでしょ!」

「未だに文章が上達していなくて、これでも元側近としてショックを受けているんですよ! 准将ですよ、いま。准将なんですよ」


 あのミセス艦長が『あー、うるさい』と子供っぽく耳を塞いで、頭を振って栗毛を振り乱す。


 そして心優の隣のデスクに座るようになったシドもげんなりとした顔をあからさまに見せた。

「あー、なんか。奥さんに同情しちゃうな。めっちゃ口うるさい部下が乱入してきたってかんじ?」

 心優も実は心の中で『そうねえ』と言いたくなっていた。


 御園大佐が艦長室の業務を手伝うようになると、始終、この有様。日本人ではないシドが『殿様に口うるさい家老かよ』と喩えた時は吹き出しそうになった心優だったが、まさにそのとおりだった。


 准将の字が丸っこいのは心優も知っている。帰国子女で十歳からアメリカ生活を過ごしてきたからだと思っている。その代わり英語は抜群だった。

 しかし、ご主人である御園大佐は英語もフランス語も抜群で、そのうえ日本語もきちんとしていて、美文字の部類に入る。そんな完璧なトリリンガルの旦那さんがいれば、それは奥様もひとたまりもないだろう。


「まったく。久しぶりにおまえと事務仕事をしてみれば、なんなんだよ。すべてテッドにやらせてきたな。テッドの方が日本語的にも後輩のはずなのに、テッドの方が上達しているってどういうことだ!」

「ん~、もうー、あったまに来た!」

 うわー、またミセス艦長が爆発した。心優とシドは目を丸くして、艦長席を立ち上がって栗毛をかきむしるミセスに言葉を失う。


「隼人さん、もう帰ってよ!!」

「なんですか。どうやって帰ればいいんですか。泳いで帰ればいいんですか。あ、そうか、イルカさんの背中に乗って帰ればいいんですかね」

 旦那さんが一枚上手なのか、しらっとした眼鏡の顔でまったく動じていない。

「またイルカさん! もう杏奈にいうような喩えは使わないで!」

「そう言われましても、女の子のような可愛い文字を書くし、うちの杏奈とおなじ女の子なんでしょう」

「しつこいわね! 杏奈だってパパが『イルカさん』って言ってももう喜ばないわよ! じゃあ、どんな日本語を書けばいいか、お手本を見せてよ」

「かしこまりました。お見せしましょう」

 奥様が突き返した書類を、旦那さんがにっこり笑顔で受け取る。旦那さんが勝ったようだった。


 御園大佐が臨時デスクにしている応接テーブルに戻って、ソファーに腰をかける。

「すぐにお返ししますから」

 だけれど、そこで終わるミセス准将ではなかった。

 旦那さんが懸命にお手本を書き込んでいるうちに、そうっと艦長席から立ち上がってそうっと艦長室を出て行こうとした。


 心優とシドも気がついて、ハッとして『お供しなくちゃ』と席を立ったが、彼女が『シー』と口元に指を立てて『来ないで』と二人を制した。そして、そのまま静かに出て行ってしまう。


 旦那さんはまったく気がついていない。奥様をさらに制圧してやろうと嬉々としてお手本を書き込んでいる。


 でもシドが言ってしまう。

「御園大佐。奥様、出て行かれましたよ」

 今度はあの御園大佐が『なに!?』とギョッとした顔になった。本当にキョロキョロして奥様を探している。でも既に遅し。艦長デスクはもぬけの殻。


「あのウサギめっ!」

 出た。無意識のウサギ! そういうとそれまで余裕綽々だった旦那様が、今度は大魔神のように立ち上がる。

「このやろう。絶対に逃がさない! いい、俺が艦長を捕まえてくるから、そこで待っていてくれ」

 心優とシドはそろってコクコク頷いて、今度は御園大佐が飛び出していくのを見送った。


 シドがデスクに頬杖をついて大きな溜め息。

「はー、夫妻になると騒がしい人達だな。奥様があんなに乱れちゃうんだから。ほんと、旦那様いないほうがいいんじゃないかなっ」

「そういうこと言わないの。御園大佐がいてくださったから、艦長が元気になったんじゃないの……」

「そうだけれどさー。ここでの奥さんは、アイスドールのミセス准将であってくれないと、俺も調子狂うな。そりゃ、ああいう奥さんも可愛いけどさ」

 ミセス准将をつかまえて、『可愛い』と言えちゃうシドも相当なもんだと心優は呆れてしまう。


 そんなシドと艦長室に二人きり、取り残されてしまった。


 彼も静かになって真面目に事務仕事を始めた。時々警備隊と一緒に警備巡回に参加しているので、指令室の紺色指揮官チームの作業服ではなくて、いつも黒い戦闘服のまま。その姿で静かに事務に勤しんでいる。真面目にやるとシドはなんでもそつなくこなせて、手際もいい。そして日本語の読み書きも上手。これは黒猫の大人達から日本で働くことを想定した上で英才教育をされてきたのではないかと心優は感じている。そのせいなのかな? 若い黒猫二世のシドができて、どうして御園家当主になろうとしているお嬢様ができていないのかと旦那様がムキになっていたのは。


 心優もほっと一息。確かにこのままだと騒々しいだけの艦長室になってしまいそうで、すごく気力を吸い取られそう……。思わぬ状態だった。

 二人だけの艦長デスク室は静かなだけで、ペンを走らせる音、キーボードを打つ音だけが聞こえる。隣のシドが大人しいと逆に不思議に思ってしまう。


 だが、彼がキーボードを打ち続ける心優に話しかけてきた。

「おまえさ、帰ったら城戸サンと結婚するんだよな」

「どうしてそんなこと聞くの。それは陸に帰ってからはっきりさせるから、今は内緒」

「旦那様に言われたんだよ。本気で二人が結婚をすると決めたから、余計なちょっかいをだして引っかき回すな――て釘を刺されたばっかり」

「御園大佐が?」

「隼人サン。俺のこと、ガキの頃から知っているからな。どんな手を使ってでも手に入れてやるっていう俺の貪欲さ」

 御園大佐が釘を刺すほど、本当にそんな性格なんだと、心優は改めてシドの気の強さに驚かされる。


「それでも。心優にひとつ頼みたいことがあるんだ」

 いつになく彼がしおらしい気がした。普段は自信満々のシドだけれど、本当はその内面に複雑なものを抱えていることを心優は知っているつもりだった。小笠原でのシドは、時々、哀しい遠い目を見せることがある。


「なに。わたしでできること?」

 うん――と頷いたシドは、隣のデスクに座ったまま黒い戦闘服の襟元を開いたかと思うと、胸元から何かを引き上げ取り出した。


 首にかけていたそれを、シドは頭から外し、心優に差し出した。


「これ。預かってくれよ」

 それは、古びたロザリオだった。それだけで、シドが大事にしてきたものだとわかる。


「大事なものじゃないの? 首にかけているんだからそうでしょう。肌身離さず持っているってことでしょう」

「それ。親父のロザリオ」

 さらにびっくりして、心優はますますそのロザリオを遠ざける。シドが父親について触れたのも初めて。


「どうして。お父様がシドにと思って持たせているんでしょう」

「まあな。でも俺は俺のロザリオを持っているんだ。これは親父が子供の頃からつけていたやつ。養子になる前に会って、これをくれたんだ。なんか……。なにかの拍子にそれが『俺ごとなくなる』と申し訳ない気持ちになるんだよな」

「申し訳ない気持ちにならないよう、シドが頑張って持ち続ければいいじゃない」

 シドがまた、普段は見せないような優しい笑みを見せたから、心優は驚いて黙ってしまう。


「俺の母親と同じ事をいうな。なんかさ、そのロザリオだけは紛失したくないんだよ。もし、俺になにかあったら……」

 いつもの彼らしくなくて、心優はヒヤリとしてしまう。父親から贈られたロザリオを預かって欲しいと願うその先に彼が思い描いているものに。


「やめて、シド。やっぱり預かれないよ」

「俺になにかあったら最後は俺と一緒にしてくれ。俺の遺体がなければ、母親に届けて欲しい。それには御園に通じている人間に頼むしかないんだ。心優はこれからずっと奥さんの側にいるのだろう。適任だ」

「どうして……。お父様はシドを守って欲しいと思って持たせているんでしょう」

「遺体も見つからないような死に方をするかもしれない。その時、俺と一緒に粉々になったら嫌なんだよ。心優が持っているなら、俺はそこに還る。それだけで還れる気がするんだ。死出の旅の目印は、神父をしている親父のロザリオ。そうあって欲しいんだよ」


 父親が神父? シドが父親のことを明かしていくので、心優はもうなんと応えていいのかわからなくなる。それに神父さんは子供を持つことは御法度だったのでは?


 なにも言えない心優を見て、またシドが微笑む。


「な、俺の素性ってある意味やばいんだよ。シークレットベビーてやつ? だからフランクのおじさんが養子にしてくれたってわけ。そのぶん、表と裏を繋ぐ連絡役として育てられている」

 そういうことだったのかと、心優も納得した。

「親父に初めてあった時は驚いたけどさ。子供の頃は父親が誰か教えてもらえなかったからモヤモヤしていたんだよ。それがやっと晴れて、それで養子になって母親とは違う表の顔で裏と行き来する決意をした。そのロザリオを持たせてくれたこともほんとはマジで嬉しかったんだよ。だからこそ、俺の今の仕事ではなにかあった時、身につけていてはいけない気がした。ドッグタグもあるし、俺のために作ってくれたロザリオもある。それで充分だ。親父の分身は、戦場には連れて行きたくない……」


 シドも苦悩して、自分の居場所を探し続けて、ようやっと自分が立つべき場所を見定めて闘っている。そんな男がここまで願っているのだから……。心優はついに、そのロザリオに触れる。


「わかった。預かるよ、シド」

「ほんとか」

 シドの驚いた顔。

「預かったからって、いつどうなってもいいと思わないことが条件。任務が終わったらロザリオに会いに来るのが条件。遺体がなかったらずっと持っている、還ってくると信じて――。でも、その時にお母様自身が息子の死を認め、哀しみに苦しんでいたら渡す。それでいい?」

「ああ、それでいい。有り難う、心優」

 シドの大きな手が心優の手を包みこむようにして、そこにロザリオを握らせてくれる。


 緑の大きな翡翠のような石が埋め込まれているロザリオだった。

「お守りになると思うのに、もったいない気がする……」

 やっぱりまだ残念でならない。お父様自身の気持ちが込められているはず。

 それでもシドはもう一つのロザリオを見せてくれる。

「俺が生まれた時に、親父がこっそり作ってくれたロザリオなんだ。俺はこれが相棒だからいいんだ」

 シドのロザリオには黒い石が埋め込まれていた。ブラックオニキス? ブラックダイヤ? ブラックスピネル? 黒曜石? 良くわからないけれど、艶と輝きがある。


「このクロスが俺のドッグタグだ」

 本当のドッグタグと一緒に、シドはそのロザリオを首にかけていた。今日までは二本も持っていたことになる。


「嫁さんが、わけのわからないロザリオを大事にしていたら城戸サンももやもやするだろうな」

 心優はハッとする。シドの気持ちに感化されちゃって、彼の気持ちがそれで落ち着くならとそれだけの気持ちで受け取ってしまった。そうだ。雅臣がこれを知ったら、なんて言えばいい? シドの父親のロザリオと、言ってはいけない?


 困り果てている心優を見て、もうシドはいつもの意地悪なニヤニヤ顔をしていた。


「俺と心優にも大事な秘密があるってこと。夫になるからって油断するなってもう一度言っておく」

「や、やめてよ。本当の大佐って、……」

 心優はまたそこで口をつぐんでしまう。雅臣も、人が知らない姿を持っている。本当は女の子には自信がなくなっちゃう、動揺しちゃう、三枚目のお猿さんだってこと。それはそれでシドにはまた言えない。


「まあ、あの人もさ。これから御園には必要な人だし、これから俺が護っていくんだろうな。仲良くやっていくから安心しな」

 大佐殿はこれから俺が護っていく――。そんなことにも心優は初めて気がついた。そうか、艦長になるだろう雅臣がこれから権限を使って秘密隊員を配備するなら、このシドになる可能性が高いということだった。


「あの、中尉。これからも、よろしくお願い致します」

 夫をお願いします。既にそんな気持ちだった。

 でもやっぱりシドは上から目線の意地悪な眼差しでニヤニヤしている。

「あのオジサンを護ることと、心優をいつか奪うってことはまた別問題な」

「もう、だから。わたしはダメだって言っているでしょっ」

「俺、これからますます男盛りだぜー。この身体が欲しいって、熟女になっていく心優も感じちゃう時がくると思うなー」

「その頃には、絶対に! わたしより若くて綺麗な女の子に、シドは夢中になっているはずだから!」

「若いからオイシイってわけでもないだろ。俺の経験上、三十代も四十代も経験済み。だから一回、食わせろっていってんの。不味かったら諦めつくし」

 どんな女性遍歴!? しかも、不味かったら? もう、ほんとにこの生意気な言い方、腹が立つ!


 なのにシドが途端に、小笠原で見せていた遠い目を見せる。

「心優に出会えて良かった。親父のロザリオを預けられるような人間には、絶対に会えないと思っていたから」

 シドが真面目な話をすると、逆に心優が落ち着かなくなる。自信満々で子供っぽいシドだと頭に血が上ってばかりだけれど、大人しいシドはどこかに消えてしまいそうな目をしていて怖くなる。


「なんだろな。真っ正面からやり合ったからかな。で、おまえがまともに受けてくれたから」

「でもシド。強引だったよ」

「それが俺のやり方だもんな」

 あの強引さ。なんとなく、今になって心優はわかってしまった気がする。やっぱり子供っぽい。遊んで欲しい相手に、有無も言わせず、強引に『遊ぼ』と約束を押しつける。


 でもまともな大人にはうまくかわされてきたのだろう。或いは、倦厭されてしまう。心優は大人のような要領もなかったし、確かに真っ正面から受け止めてしまった。そこからシドとの付き合いが始まったのも確かだった。


「おまえ、度胸つけたらマジでほんまもんの護衛官で、格闘家だったな。初めての任務で、不審者を制圧するってなかなかできないぜ。そこも惚れたな」

 惚れた!? いままでのからかい混じりの誘惑とは、違う響きだったので心優はたじろいだ。


 しかも、今度は女としてではなくて、同じ戦闘をする隊員として?

「あ、ありがとう。フランク中尉にそういっていもらえると、ますます自信になる、かな」

「おまえさ、まだなーんにもわかっていないと思うけどな。今回、艦長を護って、傭兵の男を女ひとりで制圧したって功績、帰還したらものすげえことになるぞ」

「そうなの?」

「もう艦の中でもすげえ噂になっている。園田少尉は凄腕の護衛官、傭兵と同等だって」

「やだ、そんな噂! まだシドや警備隊みたいな機敏さはないよ」

 それでもシドが呆れた顔をした。

「ほんとに小笠原に帰ったら、おまえ、びっくりするから覚悟しておけよ」

「な、なに……。びっくりすることって」

 シドがニヤリと笑う。


「ほんっとに御園の一員になってしまうってこと」

「そうなると、どうなるの!?」

「だから。小笠原に帰ったらわかるって。それから、御園がというより、軍隊も実力主義ってことを痛感するだろうよ」


 そして最後に、シドが水色の目で心優を真っ直ぐに見つめる。真顔で……。その顔は、シドが闘っている時のクールな面差し。


「これから付き合いが長くなるだろうな、俺とおまえ。だから、ロザリオ、頼んだぞ」

「うん。わかったよ、シド」


 翡翠のロザリオを心優は大切に握りしめる。大事な友人? 同僚? 先輩? そんな不思議な関係になったシドから託されたこと。

 この不思議な関係も、これからも続くのだろう。


 一週間後、調査団が無事に現場検証と聴取を終え、迎えの輸送機で帰還した。

 停泊を続けていた艦がやっと動き出す。

 いよいよ艦は東へと向かう。帰還へと――。

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