76.蒼い月が見えた日は

 アラームが鳴る前に、腕の痛みで目が覚めてしまう。

 もう丸窓は夜明けの茜に染まっていた。心優はゆっくりと起きあがり、薬を飲んだ時間を逆算して確かめる。


 服用しても良い時間だったため、ベッドサイドの棚の上に置いた薬とミネラルウォーターを手にとって飲んでおく。

 水を飲んだら目が覚めた。薄着で眠っていたので、きちんと訓練着を着込んで身支度をする。


 小部屋を出て、隣にある艦長のベッドルームを見たが、とても静かだった。きっと落ち着いたはず……。そう思いたい。


 艦長デスク室に行く。夜明けのほのかな茜に包まれているだけで、灯りがついていなかった。

 シドがいない。その代わり、艦長デスクの皮椅子に座っている人がいる。その人は丸窓へと椅子を向けていて、心優には背中しか見えない。

 頬杖をついていて、でも俯いている。もしかして、眠っている? 心優はそっと艦長デスクへと歩み寄り、正面からその人を確かめた。


 その人は眠っていなかった。眼鏡をしたままの顔で俯いて、でも眼差しは丸窓の茜をみつめている。


「おはようございます、御園大佐」

 彼は心優の気配をとっくに感じていたのか、いきなり声をかけられたような驚き方はしなかった。


「おはよう、園田」

「フランク中尉はおりませんでしたか」

「もうすぐ園田が起きる時間なら、それまで俺がここにいるからと、もう就寝させたよ。俺も、一人になりたかったんでね……」

 紺色の指揮官服の衿が胸元まで開かれていた。着崩れしているその姿が、とても疲れ果てているようにも見えた。


「艦長は落ち着かれましたか」

「うん。さっき、眠った。あの後、暫くは吐いていた。園田の部屋で世話になった時とおなじだよ」

 あの時の痛々しさを思い出して、心優も俯いてしまう。


「蒼い月だったよ、今朝は」

 蒼い月? 心優は首を傾げる。


「夜明けに、白く透けて沈んでいく月が蒼く見えるんだ。葉月は、なにかを確かめるかのようにして、夜明けの月を追いかけて家を飛び出すことが時々ある。その時、空母の甲板に行くこともある」

「それは、小笠原で、ですか? 夜明けに、空母になんて行けるんですか」

「行けるさ。海辺や港、峠の上にいくこともあるけれど、空母の時もある。准将に上りつめ、空母の甲板を指揮している彼女の特権だ。小笠原の船舶班連絡船の操縦士達もよく知っていて、夜明けに葉月がヴァイオリンを片手に現れると何も言わずに空母まで連絡船で送ってくれる。夜明けに彼女がなにかのセレモニーをしている。そう言われているよ」


 そこで御園大佐が少し黙った。話が終わったのかと思って、心優も顔を上げたのだが、彼がまた話を続ける。


「はっきり覚えている。葉月がこの儀式を始めた夜明けを。彼女を二度も殺そうとした男の刑が執行され死去した。その知らせを聞いた夜、葉月は初めて、いままで届いていた男からの贖罪の手紙の封を切ったんだ。夜明けまで食い入るように読んでいた。彼が服役している間、その手紙が何通届いても葉月は封を切らなかったのに。その男が逝ってしまってようやっと、彼の本当の気持ちに向きあう気になったのだろう。読み終わったら家を飛び出していた。俺も気付かれないように後をつけていったら、葉月は空母艦の甲板へ向かっていた。そこでヴァイオリンを弾き始めたんだ。蒼い月に向かって……」


 犯人と向きあうその気持ち。どのようなものだったのかと、心優も密かに思い馳せるが、到底及ぶはずもない。その思いは夫である御園大佐にもあるのか。


「先ほども眠る前に、その月が丸窓から見えていた。葉月も気がついて、『いつもの私の月だ』と言った途端、安心したように眠った。彼女にとって、あの蒼い月は『終わりであって、始まり』なんだろう」


 幽霊という男がいなくなる。闇が消えていく夜明け。そして、もうその男がいなくなった夜明け。夜と朝の狭間に見える儚い蒼い月。なんだか心優にも、その意味がわかる気がする。


「それを見ると安心するのだろう」

「左様でございましたか……。ひとまず、落ち着かれたようで安心致しました」

「うん」

 うんと言って、御園大佐はちいさく微笑むと、とてつもなく寂しそうな哀愁漂う横顔を見せる。


 そのまま何も言わなくなった。ただ、茜をみつめて。


「よろしければ、シャワーでも浴びたらどうでしょう。わたしがデスク室に待機しておりますから」

 紺の指揮官服の袖口が汚れていた。嘔吐する奥様のお世話で、汚してしまったのだろう。そう思ってのシャワーを勧めてみた。


 それでも御園大佐は黙って、ただただ夜明けの茜をみつめている。


 あまりにもそのままで、何も応えてくれなくなったので、心優も途方に暮れた。それなら言われてはいないけれど、珈琲を淹れてみようと心優は御園大佐から離れた。


 心優が珈琲を淹れている間もずっと、御園大佐は夜明けの空を眺めているだけだった。蒼い月はもう空にはない。茜も消えた。青空が広がっている。その変化を憂う眼差しでただただ……。


「いい匂いだな。ありがとう、園田」

「いいえ……」

 珈琲の香りに気がついてくれ、やっといつもの余裕ある微笑みを浮かべ、御園大佐が艦長デスクの正面へと向き直った。


 パソコンの電源を入れ、奥様の准将がまとめている書類を確認している。


「本日、ここは俺が責任を持つ。准将は発熱したということにしよう。実際にそうだし……。度重なる非常事態を切り抜け、気が抜けたのだろうということにしてくれ」

 途端に、大佐の顔になった。しかも艦長席にどっしりと腰を据えて、その威厳も醸し出している。


 今日、心優の直属上司はこの人になる。

「かしこまりました、御園大佐。管制室と指令室に周知してまいります」

「うん、そうしてくれ」

 御園大佐のデスクにカフェオレを置く。


 彼はもうマウスを握って、艦長業務の準備を始めている。工学科にいる人なのに、艦長業務をすぐに引き継げる力もあるだなんて……。奥様がやっている仕事をきちんと把握しているようだった。


「確認を終えたら、シャワーを浴びて着替えるから、その間は艦長室を頼む。朝食は是枝シェフには艦長室に届けるだけに留めてくれ。艦長は熱を出して胃腸も弱っていると言って、優しい食事を頼んで欲しい。朝の八時半に指令室のミーティングを行う」

 次々と出される指示を、心優も急いで手帳にメモをして、『かしこまりました』と頷く。


 御園大佐が心優が入れた珈琲カップを持つと、ようやっとホッとした表情に緩んだ。


「葉月が言ったとおりだ。なんだろう、園田に話してしまうなんて……」

 それは光栄のようで、でもとても重たいものだった。御園家の話は覚悟して聞かなければならない。そしてこれからも続くのだろう。

 でも心優には覚悟ができている。だから、ここではそっと笑って見せた。


「なかなか聞けない御園ご夫妻のお話ですね。一般隊員として忘れてしまいましょう」

 そういうと、御園大佐がちょっと面食らった顔になった。そしておかしそうに笑った顔。


「なんだ。この航海の間、随分と変わったもんだな。あー、葉月があんな苦しそうに吐いているのに、嬉しそうに教えてくれたよ。そのー、城戸君と、陸に帰ったら……って」

「え、ええ……。そうなんです」


「だからなのか。凄い覚悟を決めた女の顔だな。この男と決めた大人の女の顔だ。いい顔だ。俺も祝福するよ。帰ったら葉月と一緒にお祝いをさせてくれ」

 嬉しかった。このご夫妻にいちばんに祝福されることが。でも、まだここで浮かれてはいけない。

「有り難うございます。その前に、無事に帰還しなくてはなりません」

「真面目だなー。つまんないじゃないか。そうだ。管制室の彼に珈琲でも持っていきな」

「いえ、結構です。そんなお気遣いはほんともうやめてください。奥様の准将もさんざん気遣ってくださって、それで彼と約束するまでに至ったのですから」

「へえー。あの葉月がそんなお節介していたんだ。じゃあ、俺もお節介やりたい!」


 あの御園大佐が無邪気に張りきる姿に、今度は心優が面食らう。


「はい、これは上官命令な。行っておいで~。俺、後ろからニヤニヤ眺めているから」

「え? や、やめてください。そんなこと」

「はい、早く行く! 行かないと無理難題押しつける」


 御園大佐からの無理難題!? ある意味、奥様の御園准将より、こちらのおじ様上司のほうが心優は末恐ろしく思うことがある。特にその策士っぽい意地悪な微笑みが一番怖い。


「で、では。お言葉に甘えて……」

 本心は嬉しかった。昨夜は雅臣からプロポーズをもらったばかりなのに、その余韻に浸る間もなかった。しかも『大佐、どうしたらいいですか』とお願いしてから、雅臣は『艦長室の対処は任せろ』と頼もしい大佐殿の顔で引き受けてくれてから、管制室にこもりっきりで顔を合わせていない。


 本当は、会いたかった。

 珈琲をもう一杯準備をして、心優は艦長室を出る。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 管制室のドアを開けると、指揮カウンターのレーダーとモニターを監視するところで、雅臣がパイプ椅子に座って眠そうにしていた。


「城戸大佐。お疲れ様です」

 雅臣が心優に気がついた。


「おう、おはよう。きちんと眠ったのか。痛み止めは飲んだのか」

「はい。痛み止めを服用したら、すぐに眠ってしまったようです。フランク中尉と交代したところです。大佐はいかがですか。お疲れでしょう」


 こちらをどうぞ――と、心優は珈琲カップを差し出した。


「ありがとう。ちょうど欲しかったところだよ。あと一時間したら橘大佐が仮眠から起きる時間だから、俺と交代してくれる」

「そうでしたか。あと少しですね」

「うん。『そちら』もなんとかなったみたいだな」


 雅臣が小声で囁いた。心優もこっくりと頷く。


「心優は……、横須賀であれを見たんだよな……」

 御園准将の発作を目の当たりにするのは、雅臣は初めてだった。彼もショックだったのか、気落ちした様子で溜め息をこぼした。

 でも心優は、決してそのような仄めかす会話もするべきではないと心得え毅然と応える。


「艦長ですが、発熱の症状がでたので、本日は御園大佐が艦長室の代理をいたします。艦長も度重なる非常事態に一睡もせずに対処されたので、疲れが出たようです。本日の指令室はその体勢で行くとの、御園大佐からの伝達です。八時半から指令室でミーティングを行います」

「あ、そうなんだ……。うん、わかった」

「艦長にご用がある場合は、御園大佐か艦長室に控えているわたくしかフランク中尉までお願い致します」

 雅臣もハッとしたのか、表情が引き締まった。

「わかった。俺が甘かった」

「いいえ……。そのことは、またいずれ聞いて頂きたいです」

「了解。もうここは心配しなくていい。園田は艦長室に戻れ」

 雅臣も管制室を護る指揮官の顔に戻ってしまった。ほんとうは会いたくて来たのに……。心優から一線を引いてしまった……。


「失礼致します」

 大佐の横顔で頷く雅臣から、心優も背を向けてしまう。そうしたら振り返った視線のその先、管制室のドアをこっそり開けてこちらを見ている眼鏡の男性と目が合ってしまう。


 本当に御園大佐が、ニヤニヤとのぞいていた! 心優は急いでドアへと向かう。


「大佐ったら。おやめくださいっ」

 管制室のドアを閉めてから、心優は御園大佐に食ってかかる。

「いやー、奥さんから『横須賀で恋仲だったと思う』と聞かされていたし、横須賀から園田を引き取った時も城戸君ったらちょーっと未練がましかったんだもんな。その二人が、ついにと思うと、オジサン感慨深い」

 またそういって胡散臭い微笑みを見せながら、心の中では任務中に隙を見せる雅臣を見てみたいと面白がっているに違いない。もしかすると『お猿な雅臣』を知られてしまうかもしれない?


「ちっとも甘い雰囲気をみせてくれなかったのが残念だなあ」

「見せませんから。もう御園大佐ったら、そうして面白がって。ご自分だってお若い時は一線を引かれていたんでしょう」

「でも、崩壊したから」

 崩壊……。なんだか心優は納得してしまう。こうして奥様の危機を嗅ぎ取って、空母艦まで駆けつけてしまった旦那様。そうして任務中の奥様のプライベートルームにずかずかと入っていって、最後はきちんと危険な状態に陥った奥様の側にいて離れなかった。


「ですが。私と城戸大佐にそれはできません」

「だよな。これからだもんな。でも、最後は自分たちが夫妻であるからこそ、その職務を全うしていけることを忘れないで欲しい」


 御園大佐のその言葉が、心優の胸を貫いた。

 とても説得力がある一言だった。それは御園大佐と御園准将の姿そのものではないだろうか。


 心優もそっと頷く――。


「はい。大佐と奥様のお姿、忘れません。お二人のことを思い出して、彼と一緒に全うしたいと思います」

「うん。これからだな。俺達も応援するよ」


 自分を空母に乗れるようにしてくれた恩師のいまの微笑みは、温かなもの。心優もつい嬉しい笑顔を見せてしまった。



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