75.誰にも見られたくない

 部屋に散らばっている薬、気を失ってしまったミセス艦長。

「やばい、心優。どうにもならない!」

 シドが畏れ多いはずの御園の奥様の頬を、「奥様、奥様!」と構わずに何度も叩いた。


「もしかしてシド……、准将が失神したのを見たのは初めてなの?」

「母親やオジキ達から聞いていたけど、初めてだよ!」

「どいて、シド!」

 御園准将を抱きかかえている彼を突き飛ばし、心優が代わりに腕の中に准将を預かる。いつもの甘酸っぱい花の匂いがする彼女を腕に抱いて、心優はそっと床に寝かせる。


 訓練で習ったように、まずは意識の確認をする。呼吸を確認する。心音、脈――と確認する。気道を確保した状態で寝かせる。


「大丈夫。呼吸はあるし、脈もはっきりしている。気を失っただけ。前もそうだったから」

「そ、そっか。よ、よかった」

 こんな事、フランク中尉も普段なら思いついてやってくれそうだったのに、今回のシドはあからさまに動揺している。そんなところが、黒猫のおじ様達から見て、シドはまだ『チャトラ』でしかないレベルという意味なのかもしれない。


 次に心優は、床に散らばっている薬を見下ろし、胸ポケットに忍ばせいてたメモ用紙を開いて眺めた。床に跪いて、散らばっている薬の名前を確認する。


「たぶん、暫くしたら目を覚まして、もしかすると吐くかもしれないから、私の部屋に行ってベッドの下にある洗面器を持ってきて」

「……心優、おまえ……」

 落ち着いている心優を見て、シドが唖然としている。でも喚き散らして慌てていた姿を鎮め、落ち着いた顔立ちに戻っていく。

「わかった。ベッドの下だな」

「そのあと、ミスターエドを探してきて。彼ならなにかしてくれると思う」

「わかった!」

 シドが外に出て行く。心優はラングラー中佐から託されていたメモ用紙を確かめながら、必要な錠剤を集める。


 託された『花のお守り』と呼ばれる薔薇模様のモザイクの入れ物。それは心優のデスクの引きだしに鍵をかけてしまったまま。いま散らばっている薬は、とても質素な銀色のピルケースから飛び散ったもののようだった。艦長が誰にもわからないよう、でも常備している入れ物のよう。


「心優!」

 シドが来たかと思ったら、雅臣だった。

「あちこち走り回る前に、各セクションに内線しまくって御園大佐を見つけた。英太がいるパイロットの詰め所付近で聴取していたようだ。いま、すぐに戻ってくる」

 パイロットのセクションだったら、そんなに遠くはないが近くもない。

「臣さん、艦長デスク室の冷蔵庫から冷たいミネラルウォーターを一本持ってきて!」

「わ、わかった」

 心優が頼んだことを、雅臣もすぐに聞いてくれ走っていってくれる。


 シドが帰ってくる。洗面器だけではなく、バスルームから気を利かせてタオルも持ってきてくれた。

「ここに置いておく。エドはそこらへんにいると思うから、探して呼んでくる。たぶん、このまえみたいにそこから降りてくると思う。艦長室は誰も入らないようにしなくては」

「ラングラー中佐はいまは総務オフィスルームにいて忙しそうにしていたから指令室にはいないと思う。いなければ、……」

 ラングラー中佐が不在なら、誰に艦長室を任せたらいい? ハワード大尉はいなくなってしまった、同じ秘書室のコナー少佐? それともミセス准将と四中隊時代から同僚だったダグラス中佐? 木田少佐? でも艦長室に隊員が何かの用事で訪ねてきて、中佐や少佐が対応したら艦長はどこにいるのかなにをしているのかと疑問に思われる?


「心優、水を持ってきた」

 雅臣も戻ってきた。冷えているペットボトルを差し出してくれているのに、どうしたらいいか考えあぐねている心優が受け取らないので彼が訝しそうに佇む。

「心優――、どうした」

 雅臣も跪いて、迷っている心優を覗き込む。


「大佐。どうしたらいいですか。艦長のこの姿を悟られないよう、艦長室に誰も入らないようにしたいんです。でも入るなと強く拒否すると、何かがあったと悟られてしまう。艦長がいなくても、誰かが来ても何事もないように感じさせるにはどうしたらいいですか」

 雅臣の目が、途端に険しくなる。心優の上司だった室長時代の秘書官だった時の眼差しに。


「御園大佐に――といいたいところだが、奥様がこの様子ではご主人の隼人さんしか、奥様の体質については対処ができないだろう。橘大佐か俺が艦長室を代理で対応すればいいと思う。そうだな、こんな時は、先輩であって副艦長である橘大佐の方がしっくりするだろう。そして、俺が管制室を監督する――」

「大佐、お願いできますか」

「もちろん。わかった。橘大佐に知らせて、静かに艦長室の対応を固めてくる」


 雅臣がさっと対処に向かっていく。慌てて走っているとその姿だけで感じ取られると思ったのか、とてもゆったりした歩幅で去っていった。


 それをシドが静かにみつめている。


「ほら。あのオジサン、こう言う時にすんごい肝が据わってんのな。さすが、領空線ギリギリのところで、最北大国や大陸国のスホーイやミグと競ってきただけある」

 どこか悔しそうに、でも、その眼差しは敬意に満ちていた。シドも本当は雅臣のことはずっと前から一目置いてくれているようだった。


「俺もエドをさがしてくるな」

 シドは軽やかな足取りで駆けていった。


 床に息もしていないように青ざめているミセス艦長と心優だけになってしまった。

 でも心優は彼女を起こしあげる。大丈夫。気を失ってしまっただけ。こんな痛々しい彼女を心優は既に見ている。あの時も、彼女が痙攣をしながら過呼吸を起こして気を失った。ただ、あの時は気を失う前に薬を口に含んだ。今回は含む前に気を失ってしまった。


「艦長、御園准将――」

 声をかける。でもまだなんの反応もない。

 せっかく旦那様が側に来てくれたのに。一緒に眠ってくれると、本当は夫妻として一線を引きたい旦那様から職務の禁忌を犯すように同じベッドで寝ると言ってくれたのに。御園大佐も予感していたのに。その旦那様が留守の間にこんなことになるだなんて――。


 何を見て、何に襲われて、また彼女は恐怖に陥れられていたの?

 昨夜、侵入してきたあの厳つい黒い男がナイフを振りかざして心優を襲っていた時、もしかすると御園艦長は『幽霊という傭兵』と既に遭遇していたのかもしれない。


 意識の底にそれを鎮め、ひたすら艦長としての責務を果たそうと踏み耐えていたのかもしれない。でも、海東司令も来てくれ、護衛を無事に看護に引き渡し、こちらに来てしまった大陸国のパイロットも無事に引き渡した。拘束した不審者ももうこの艦にはいない。安心した時、緊張が解けた時、たかがゆるみ、そこに抑えていた恐ろしい幽霊がナイフを持って現れた?


「准将……。葉月さん……」

 緊張が解けて安心した瞬間に襲われるだなんて――。痛々しくて、心優の目に涙が浮かぶ。その人の額を、畏れ多いけれど、心優はそっと撫でた。


 冷や汗をかいていて、栗毛の前髪がしめっているのが、また涙を誘う。

 心優はそこまでは護衛に行けない。行けるなら、そこで小さいままだろう栗毛のお嬢様を心優が立ちはだかって、動けない葉月さんの代わりになって幽霊と闘ってあげるのに――。


 心優の中に、初めて――。『護る』という熱い想いが湧き上がってくる瞬間だった。


「……ないてるの、みゆ……」

 か細い声が聞こえ、心優はハッとする。

 栗色の睫毛が震えて、うっすらと目を開けている。

「艦長、ご気分は」

「また、気を失ったの?」

「はい」

「そう」

 それだけいうと、また艦長が目を閉じてしまった。そして途端に青ざめた顔になって、またガクガクと身体が震えだした。


「っく、はあっう」

 首元を押さえ、また艦長が息苦しそうな顔になる。

 うそ、続けて起きるものなの!? それって身体が持ちこたえることできるの!? 心優も蒼白となる!


「ううっ、アイツが、アイツが、眠くなった途端に、来て……、笑う……、やっぱり……おまえが、いたから、艦が、こうなった……・って!」

「違います! 艦長をののしるものは、幻覚です。艦長は立派に回避されました。艦長がこの艦に乗っていたからです。大陸国のパイロットも救われたではありませんか!」

「く、くるしい……だろ、楽にしてやるって……、あのときみたいに、あのとき……みた・・いに」

 また痙攣を起こし始めた。心優は今度こそ、『悪魔払い』の意を決する!

 先ほど適量で拾って握っていた錠剤を取り出す。ペットボトルの蓋を開ける。


「艦長、失礼致します」

 アルミ箔を破って錠剤をつまみ、御園艦長の唇をこじ開けて無理矢理に薬を押し込んだ。


 それでも荒い息づかいのまま。心優はそのままペットボトルを唇にあて、ゆっくりと水を流し込む。御園准将も心優がなにをしているのか理解してくれたようで、懸命に飲み込もうとしてくれている。でも唇の端から、冷たい水がとろとろと流れ落ちていき、彼女の襟元を濡らしてしまう。しかし、ようやっと『ごくん』と喉が動いてくれた。


 薬を飲み込んでくれた合図だった。

 ガクガクと震えていた身体が徐々に静かになる。苦しそうに歪んだ表情も、穏やかになって頬に赤みがさす。


「はあ、はあ……、あの人は……どこ……」

「いまこちらに来ます。大丈夫ですよ」

「はあ、はあ……、みゆ、ありがとう……、ありがとう……」


 彼女の琥珀の目が熱く潤んで、心優を見つめながら涙を流している。それを見ただけで、心優も泣きたくなってしまう。


「あなた、つれてきて……ほんとうに、よかった……。わたし、すごく、安心している……わかる?」

「はい。お役に立てて嬉しいです。これからも、ご主人がいない時には、頼って頂けたらと思います」

「でも、わたしがいるせかい……、あなたには似合わない気がしている……。ただ、そばにいて、なごませてくれたらいいと……」

「わたし、城戸大佐の妻になります。大佐はこれから御園と共に歩むことでしょう。妻として、その世界にいることはいけないことですか?」


 まだ荒い息づかいをしているまま、でも、心優のその告白に、御園准将がびっくりして心優を見上げた。


「もう、そんなことに、なっていたの?」

「はい。陸に帰ってからと思っておりましたのに、言ってしまいました」

 すると、力無いまま床にあった御園准将の手が、そっと心優の手を探して触れた。握ろうとしているのに力が入らないようで、でも僅かに握ってくれる。


「おめでとう、みゆ……。陸に帰ったら、お祝い、させてね」

 優しい母親のような眼差しで見上げてくれている。琥珀の目が今日はとてもあったかい。生きている目。もうアイスドールのガラス玉ではない。


「じゃあ、これからは、私と一緒に……陸から、夫と空と海を守らなくちゃね」

「はい、もうそのつもりです」

 艦長の妻となるからには、覚悟しなくてはならないことがどれだけあるのか。心優はこの航海で知った。御園の世界が似合わないなんて言われるほどに、ただただ無知な軍人だった自分はもう要らない。


 この人のように、傷ついても、心優はその世界で生きていかなければならない。夫を海に送り出し、陸で夫を待ち陸から彼を守り、彼の帰還を祈り、彼が安心してくつろげる家庭を作ろう――。


 きっと琥珀の奥様も、いまはそれを夢に描いて、過酷な艦長業務に耐えている。

 でも、これからは『妻として陸で護る』ことを二人で目指していくことになるだろう――。


「葉月――!」

 御園大佐がやっと現れた。

「あなた……」

 澤村ではない、御園大佐でもない。『あなた』。ミセス准将が夫を望むその声は、しとやかな奥様の声。


 御園大佐も妻の側に駆けてきて、すぐさま床から抱きかかえた。


「悪い。もっと早くここに戻ってくるつもりだったんだ」

「ごめんなさい。一睡もしていなかったから、とても眠くなって、待ちきれなくて……。身体も温まってとても気持ちよくなってうとうとしちゃったの。そうしたら……」


 優しく抱き起こしてくれた夫の胸に、ミセス准将も柔らかに頬を寄せている。あんなに夫ではない、妻ではない、私と貴方は艦では別姓別々のものと拒否していたのに、結局のところミセス准将も夫が一緒に眠ってくれることを心待ちにしていたようだった。


「もう大丈夫よ、あなた。心優が薬を飲ませてくれたし……」

 そうして、御園准将が麗しく濡れた瞳で夫を見上げた瞬間――、また彼女が胸を荒げ始める。

「吐きそうか」

 奥様が口元を押さえながら、無言でこくこくと頷く。それを見て、心優はすかさずシドが持ってきてくれた洗面器を大佐に差し出した。


 御園准将が洗面器に顔を埋める。


「園田、もういい。あとは俺がするから出て行ってくれ」

「でも」

「誰にも見られたくない。わかってくれ」


 あの御園大佐が悲痛を滲ませた眼差しで心優に訴える。

 なにかお手伝いをしたい。そう思っていた。でも……。


「なにかありましたらお呼びください。失礼致します」

「他の幹部にももう俺達二人だけにしてくれるように言ってくれるか。緊急事態には応じる」

「了解しました」

 それだけ答え、心優は御園准将を見ないようにしてベッドルームを足早に退出する。


 ドアを閉めると、苦しそうな嗚咽が聞こえる。

『大丈夫だ。大丈夫』

 誰もが知っている『ミセス准将、ミセス艦長』は、凍った横顔で神懸かり的な指揮をする空母艦の女王様。なのに、あんな痛々しいお姿。


 見られたくない。夫の気持ちも、准将を支えてきた大佐としても、隠したいものなのだろう。


「園田少尉、遅くなりました」

 背後から急に声がして、ビクッとして振り返ると、今夜も艦長ベッドルームのドア真上にある通気口から、ミスターエドがいつのまにか着地した状態でそこにいた。


「准将をお願いします。お薬は飲ませました。また吐いております」

「すぐに処置致します。人払いをお願い致します」

「了解しました。どれぐらい」

「一時間で結構です」

 心優も頷きドア前から動くと、ミスターエドはまた音もなくドアを開け、すうっと入室していった。


『隼人様、離れておりまして申し訳ありませんでした』

『俺もうっかり離れてしまっていた。シドが抜けて、エドも警備を強化してくれていたのだろう。気に病むな。それより、頼む』

『かしこまりました。すぐに処置致します。お嬢様をベッドへ』

 艦長の秘密を閉じこめたベッドルームで、その秘密を死守している男達が動き始めた。


 心優はホッとして、プライベートルームから艦長デスク室へと向かう。

 艦長室には既にシドが戻ってきていて、橘大佐と話し合っていた。そのシドと目が合う。


「朝の四時にきっちり交代する。きちんと身体を休めておけよ。ここはもういい」

 クールな中尉殿の顔で言われる。

「かしこまりました、中尉。では、先に休ませて頂きます」

 艦長デスク室からプライベートルームへと向かう通路のドアで敬礼と一礼をして、心優は退室する。


 通路すぐ手前が心優の小部屋だった。開けっ放しになっているドアを閉め、心優は部屋に戻る。


 ベッドに腰をかけ、心優は星空の丸窓を見上げた。

 とても静か。さざ波の音がまた戻ってきた。


 あんなに忙しかったのに、もう艦長室は落ち着いている。

 この部屋で、先程まで雅臣と抱きしめ合っていたのに……。その甘さもすぐに消えてしまった。


「そうだ。痛み止め……」

 雅臣が持ってきてくれた痛み止めを、心優はやっと服用することができた。

 シドに言われたと通りに、眠くなくても横になる。


 御園准将は、いま、少しでも安心できたのだろうか? いま彼女のベッドルームは夫妻だけの空間。この世界でいちばんの存在である御園大佐に抱かれて、心安らかになれただろうか。


 あの旦那さんが来て正解だった。心優だけではどうにもならなかった。ミスターエドがいるとわかっていても、彼も空母を見守る使命を与えられていて、いつも側に控えているわけではないようだった。


 これからも、心優はこんなことに出会ってしまうのだろう。

 その覚悟……。

 今夜の風は優しい。まどろみも静かに訪れた。

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