74.恋する大佐は、三枚目


 トラ猫王子、やっぱり勝手に食事をしてふらっと艦長室に帰ってきた。

 なのに夜が更けると、シドの眼差しが鋭くなっていき、彼も腰にロッドを装備する姿――。


「俺、夜中のシフトが性に合っているから、三時か四時までは大丈夫。それまでおまえが先に休んでろ。怪我もしているんだから眠っておけよ」

 艦長室の業務も今夜は終了。御園艦長がベッドルームに入った後、シドと相談したとおりのシフト夜勤を実施する。シドの配慮に甘え、心優もひとまずベッドルームに入った。


 シドもふらっとして戻ってきたけれど、御園大佐も食事に行くとふらっと出て行ってそれっきり……。あの人も、ふらっとしている。

 でも心優もわかっているつもり。そうしてあの旦那様は、既にあちこち渡り歩いて情報を収集しているのだろう?


 シドに艦長室を任せ、心優は艦長室奥にある小部屋ベッドルームに入った。

 それでも午後まで休ませてもらったので、目が冴えている。でも、ベッドに横になると丸窓の夜空が見えて、気持ちが落ち着く。


 かすかにさざ波の音。あの朝からずっとここに停泊したままの空母。帰還する予定日を数日越えるだろうという話を聞いている。

 ひとり静かに横たわっていると、いままで気にならなかった腕の痛みを感じやすくなってズキズキしている。


「痛み止め……」

 ベッドサイドにあるテーブルに手を伸ばして気が付いた。処方された薬がなくなっていた。

「いけない。ドクターに夜までに取りに行くよう言われていたのに……」

 薬なども限りがあるので、少しずつしか処方できないと言われているのを思いだした。


 でも。あそこまで歩いていくの、もう疲れたな……とも思っている。明日の朝まで、我慢できるかな、できないかな、どうしよう……。思いあぐねていると、珍しく、心優のこのベッドルームのドアからノックの音。


「はい」

 誰? まさかシド? それならばドアを開けるのは慎重に開けないと? いや、でもシドは護衛となったらかなり真面目で真剣に取り組んでいるはず。この隙に襲われることはないだろうと思いたい。


「城戸です」

 え、まさかの臣さん!? 大佐殿がわざわざプライベートルームに訪ねてきてくれて、心優は困惑する。それでも、雅臣ならとドアまで向かい開けた。


 紺の訓練服を着た雅臣がそこに立っていた。

「食事の帰りにドクターに呼び止められたんだ。園田が薬を取りに来ないけれど、忙しいのか、大丈夫なのかと言っていたから、俺がもらってきた」

 雅臣の手には、処方された薬の袋。

「そうなんです。いま思い出して、すっかり忘れていたと困っていたところです。有り難うございます」

「具合、どうだ。朝はしんどそうだったからさ……」

 途端に、臣さんの口調になった。それで心優もつい気を緩めてしまう。

「うん、大丈夫だよ。午前中休ませてもらったから、いますぐに寝つけなくて困っていたところ」

「そうなんだ」


 心優は艦長デスクの事務所へと向かう通路へと視線を向ける。


「フランク中尉がよくここまで通してくれましたね」

 艦長室を出入りする人間はいまはシドが見張ってくれている。たとえ、幹部の男性でも女性達がいるプライベートルームへは通してくれないはずだった。

「そう思っていたんだ。心優に薬が届けばいいから、フランク中尉に手渡してもらおうと頼んだら、自分はここから動きたくないから、大佐が自分で渡せばいいでしょう――なんて、つっけんどんに言うくせに、通してくれたんだよ」

「そうなんだ……」

 意外だった。あんなに雅臣に敵対心の眼差しをぎらつかせていたシドがあっさりと雅臣を心優のところへと行かせてくれていた。それとも『冷めた』と言っていたから、どうでもよくなったのかもしれない?


「あの、あのさ……」

 薬はもう心優の手にある。なのに雅臣はそこに立ったまま戻ろうとしない。

「なに、臣さん」

「は、はいって、いいか?」

 え? 大佐殿、なんて言ったの? 心優は聞き間違いかと、返事ができなかった。

 でも、雅臣はとっても気恥ずかしそうにして、口元をもごもごさせている。


「あのさ、その、話したいことがたくさんあるんだ。帰るまでは、もう、お互いの職務に専念すると約束はしているけれど。こんなことになって、心優も心配だし……、それに」

 それに? 心優は首を傾げる。

「その、心優に、きちんと言っておこうと思って……」

 なにを? 心優はさらに雅臣の眼差しを覗き込むようにして見上げる。

 なんだか今の臣さん。大佐殿の顔じゃない。少年のような可愛い顔をして頬が紅い。


 なのに、彼がそこで心優の顔を見て、ふっといつもの大人の男の微笑みに戻った。

「ほら、そういう。なにもわからないという心優の顔。ほんとうに俺は好きだ」

「臣さん?」

 横須賀で憧れていた中佐殿の顔、室長の顔、そして頼もしい大佐殿の顔。心優にとっては大人の男性……。その彼があの愛嬌ある微笑みで心優を見つめていたかと思うと、彼から一歩を踏みだし心優の小部屋に入ってきてしまった。


「え、あの、」

 戸惑っている間に雅臣はドアを閉めてしまう。彼を見上げて困っているうちに、真っ正面からぎゅっと抱きしめられた。

 腕に少しだけ痛みが走ったが、心優はちょっとだけ顔をしかめ我慢する。痛みで火照っていたことよりも、いまは胸がきゅっと熱くなってしまった。


 痛いことなど隠して、心優も雅臣に抱きついた。

「臣さん」

 雅臣も心優の黒髪の頭を胸にきつく抱き込んでくれる。

「本当に無事でよかった。俺より強いってわかっている。それでも……。銃を向けられた瞬間、ほんとに俺から心優がいなくなるって思うと……」

 久しぶりの雅臣の匂いに包まれ、心優もうっとりそのまま彼の腕にもたれてしまう。

「臣さん、臣さん」

 本当は怖かった。こうして早く抱きしめて欲しかった。ここまで抑えて堪えていたものが溢れてしまう。それが心優の目に小さく粒になって浮かんだ。


 涙を一粒だけ浮かべているその瞳に気がついてくれ、雅臣はそこにキスをしてくれる。

「ごめんな。フランク中尉と心優が小笠原で親しかっただろうことは直ぐにわかったし、なんだかいい雰囲気だったから焦って言ってしまった。本当は陸に帰ってからと思っていたけれど、俺も待てない。いま言っておく」

 うん。

 心優も小さく頷く。

 彼が言ってくれようとしているものはなにか、気がついている。

 そっと瞳を開けると、真上にはシャーマナイトの眼差し。ミセス准将が『守護みたい』と言ってくれたように、いまこの眼差しが心優の支え。


「心優、帰ったら俺と一緒になってくれ。妻に、なってくれるな」

 今度こそ、心優だけの、心優へのプロポーズだった。また心優の目に涙が浮かぶ。

「はい。城戸大佐」

「大佐って……」

 雅臣が笑った。もう心優は俺の部下じゃないよ――と。

 それでも心優の気持ちは雅臣の妻であって、大佐殿の妻でもあるという気持ちだった。


「臣さん。ほんとうにわたしでいいの? 臣さんなら、もっと仕事ができる、もっと要領のいい、綺麗な女性とチャンスいっぱいあったんでしょう」

 まだまだ未熟なボサ子でいいの? どんなにぶきっちょなお猿さんだったとしても、雅臣は秘書官でもエリートだったし、パイロットでもエースだった。そして今は艦長候補の大佐殿。立派な女性が相応しいかもしれない。


「大丈夫。俺は可愛い女の子とは上手くいかなかったから」

 ん? 可愛い女の子というレベル高い女性には敵わなかったけれど? 心優のようなボサ子ならすんなりいったとも聞こえる?


「あの、ボサ子の方が容易いって聞こえたんだけど……」

 雅臣がハッとした顔になる。

「ち、違う!! ほら、なんつーのかな。こう、上手く女性を扱える男ではないし、俺はそんな男になろうとも思っていないけど、心優なら俺をありのまま受け入れてくれて、楽しい日々を過ごせたと言いたくて――」


「……ほんとは、可愛い女の子と付き合いたかったんですよね? そういう女性は臣さんがなにもしなくても、寄ってきてくれたんだもんね? でも、付き合ったら、彼女達が望む『扱い上手な男性』には成れなくて挫折したんだよね?」

「違うだろっ。心優だって充分可愛く見えていたよ。ほら、だから、俺が言っている、わたしなにもわかりませんって可愛い顔!」


「扱いやすかったんですよね? 男慣れしていないから……」

「そこがまた可愛いところだったんじゃないか。俺ばっかり見てくれる心優の目に、俺は、俺は、その……」

「別にいいですよ。ほんとうに、臣さんと出会った時はボサ子だったんだもの。そのボサ子のなにが可愛いって、男慣れしていないぐらいしかないですもんね」


 だから、そういうことではないって――! と、雅臣が困り果てている。


「その、あの、今夜はワインで乾杯とかさ、彼女に何が似合うかなってプレゼントを考えるとか、彼女が可愛いランジェリーをつけてきたのに、それも良く眺めずにすぐに脱がすとか……そういうこと気が利かない『猿』って。心優だってわかるだろ? 俺って実はそういうこと苦手な、気が付かないムードのない男だって。ホルモン焼き行こうって言っちゃう男だって……」


 言っていることわかるし、最後の心優とは気が合うという点を添えてくれたのは嬉しいけれど、その前の、付き合っていた彼女のこと上手くいかなかった点を挙げているにしても、お付き合いしていた姿が透けて見えちゃっていて、臣さん不合格。


 だから、心優も仕返しをしてみる。

「塚田さんの奥様に言われたんですか?」

「はあ? なんで知っているんだよ!!!」

 ついに雅臣が顔を真っ赤にして額を抱えながら、ふらふらと後ろのドアへと後ずさった。


 塚田中佐の奥さんは、雅臣の元カノでもあって、心優はもう知っている。そのカノジョと付き合っていた時のことを仄めかしたのではと突きつけると、雅臣が目眩を起こしたようにふらついた。


「いや、その彼女のことを話したんじゃなくて……、いままでの女の子の総合まとめ……じゃなくて、あ、ごめん、今の彼女に話すことじゃなかった……んだ?」

「塚田中佐の方が、女性への気遣い上手だものね」

「それ、言うな~。彼女に愛想つかされたのは納得済みだけれど、塚田と結婚するて聞いた時はそれなりにショックだったんだ。部下に女を獲られた室長って暫く噂になったし……。塚田も気にしていたし……」


 そんなことがあったんだと、心優はちょっと驚く。

 雅臣はいじけるようにドアへと背を向けてしまい、ドアに額をつけて唸っている。なんだか拗ねているその姿まで、お猿に見えてきてしまった。


「……まさか、心優に知られていただなんて。ど、どうして」

「塚田さんから聞いたのではなくて、井上少佐が意地悪で教えてくれたんです」

 雅臣がぐりっと振り返った。

「また、アイツか!! アイツ、塚田と彼女が付き合う前に、俺と別れたばかりの彼女をそそのかして遊んで捨てた男なんだぞ」

「それも、知っています。そっちの方は塚田中佐が妻を独身時代に弄んだとお怒りでしたから」

「そう。アイツは俺と塚田にとっては敵。しかも心優にまで手を出そうとしていた!!!」

「でも、臣さん。わたしのこと、引き留めてくれなかったですね~」

「だから、それは、……ほんっとに俺、自信なかったんだってば。だってさ、俺って女の子のこといなると、ほんっとちぐはぐなことばっかりやらかすから……。御園に引き抜かれたなら、もう心優は前に行くだけ。御園の側にいるだけで、いい男に囲まれるに決まっている。ぜったいにこれから出会う男の方が、俺より二枚目に決まっているって、怖じ気づいたんだよ!」


 それは当たっているかも? 今も心優の目の前で、いっちゃいけないことをうっかり言ってしまうぶきっちょな大佐殿は、三枚目のお猿さんにしかみえない。

 三枚目のお猿さんを、エリートの素敵な大人の男性だと心優だって決めつけていた間違いはある。


 でも、いまは……。

 心優は目の前で、額を抱えて三枚目の顔をしている彼に、ぎゅっと自分から抱きついた。


 強く、腕いっぱいに彼の大きな身体を抱きしめる。


「心優……?」

「でも。わたしはそんなお猿さんだから、あなたが好き」

 わたしのお猿さん。わたしだけが愛せるお猿さん。

「好きよ、お猿さん。愛している。わたし、あなたの奥さんになって、あなたの家庭も護っていくから」

 彼が動かなくなる。心優に抱かれたまま、抱き返すこともできずに、ただ心優を驚いた目でじっと見下ろしている。


「臣さん?」

 まだ心優を黙って見下ろしている。なにか幻をみているかのように。

「最初に言葉を交わした時から、ここにいる」

 雅臣がまた拳をどんと自分に胸にあてた。

「心優の今の目、初めて俺のことを話してくれた時と、同じ目」

 雅臣が優しく微笑みながら、心優の頬を撫でる。

「猫っぽいこの目、心優、俺の目のことをシャーマナイトみたいだといつか言っていたな。俺も今は同じように思っている、心優の目もシャーマナイトだ」


 え、わたしの目も。シャーマナイト? 心優は初めて自分の瞳を石に喩えられて、目を見開く。


「初めて会った時から、心優は俺をこの目でじっと見てくれていた。俺と同じ、大事にしてきたことを急に失うことになって、意にそぐわない場所にいるしかない。そんな子が俺のところに来た。俺はコックピット、心優は道場。でも、戻ることはもうない場所。この子は俺の気持ちを見透かしている、わかってくれている、いつか本心で話してみたい。でも、俺は室長だからそんな姿みせられない。そう、揺れていた。拙くても、秘書室の一員になろうと頑張っている心優を見て、この子は歩こうとしているんだと思った。この子が歩き始めたら、俺も歩けるだろうか……そう思っていた」


 だから。心優が少尉までステップアップできるようにと、雅臣は考えていてくれたんだと気がついた。


「いろいろあったけれど、やっぱり俺は心優に連れられるようにして、心優を追いかけて、ついに俺は空に戻れた」

 雅臣が心優の瞳にキスをする。

「心優は、俺も護ってくれていた」

「臣さん――」

「俺……、男としては三枚目だ。それでも、これだけは言える。心優と一緒にいたい。誰にも渡したくない。俺のところに来て欲しい」


 臣さん……。また心優の目に涙が浮かぶ。


「もう、返事は言ったよ」

 お猿さん、愛しているって。

「帰ったら、親父さんと沼津のお母さんに会いに行く。挨拶に行くよ。許してもらえたら、すぐに入籍したい」

 雅臣が再び、心優をその広い胸に抱きしめてくれる。

「うん……」


 嘘、ボサ子だったわたしが、結婚――? 急にふわふわ甘い気持ちに包まれて、心優はずっと雅臣に胸に抱きついたまま。


 ――ドン、ドン。

 ドアを激しく叩く音がして、ふたりはさっと離れた。シドが聞いていた?

『奥様、奥様――。しっかり!』

 違った。心優の小部屋のドアを叩かれている訳ではなかった。でもドアの向こうからシドの慌てた声が聞こえる。


 雅臣と顔を見合わせ、ふたり一緒にドアの外に出てみる。

 御園艦長のベッドルームの扉が開いている。


「心優! 心優、聞こえるか!! こっちに来てくれ!」

 ベッドルームの中からシドの叫び声が聞こえてきた。


 心優と雅臣は慌てて駆けつける。

 艦長のベッドルーム。ベッドの下。そこにあの日のような御園艦長がいた。身体をがくがくと震わせ、目を大きく見開き、息苦しそうにしている。


「ちょっと心配で様子伺いにドアをノックしたらまったく返事がないから、もしかしてと思って蹴破ったら……」

 すごい強引な判断だったが、それでもシドの勘が当たっていた。

 ものすごく真っ青な顔をしている。いまにも引きつったまま呼吸困難を起こしてそのまま果てるかのような異様な表情をしている。


 床には薬が散らばっていた。どれも手にできず、そのまま倒れてしまったのか。


「フランク中尉、俺は御園大佐を捜してくる」

「頼みます、城戸大佐」

 雅臣が駆けだし、艦長室を出て行く。こんな時は、大佐殿と真面目な中尉として落ち着いている。


「奥様、奥様!」

 あのシドまで顔色を変えて焦っている姿。

 御園准将があの時のように失神した。

 心優とシドは驚いて顔を見合わせる、青ざめる――。

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