70.どうして『夫』なのですか?
艦のクルーが紺色の訓練着を着ているの対して、海東司令と御園大佐は基地でそうであるように白いシャツに黒い肩章の制服姿。潮風に黒いネクタイを翻した姿でそこにいる。
「司令、どうして艦長代理などが必要なのですか」
珍しくミセス准将が海東司令に真向かう。でも司令はやはりやんわりと微笑むだけ。
「私が判断したことだが、それに意見をするのだね。御園准将」
「いえ……。そういうわけではございません」
海東司令が切羽詰まっている時でさえ淡々としているミセス准将が、今日は狼狽えている。
「ですが、代理が必要になる状況であるとのご判断は従いますが、その代理がどうして御園大佐……いえ、わたくしの夫なのですか」
「ここに、君の夫とかいう男がいるんだ」
平然と言いきった男の笑みが、心優には怖く見えてきた。
「夫という男と仕事をしてきたのだね、貴女は」
こんな時に、この若い司令は、時には敵わないミセス准将の上に立つ。あのミセス准将の表情が固まった。
「いえ……。夫など、ここには……おりません。失礼いたしました」
「まあ、急遽決めなくてはならなかったので、驚かせてすまなかった。私自身、御園大佐が適任としか思い浮かばなかったんだよ。彼には調査団とは別の角度からの聴取を頼むことにしている。このようなことが立て続けに起きたので、いままでの体勢で良しとは上にも報告はしづらいので、補強をすることにした。総司令総監も承知した上での任命なので『夫だから』というわけでもない」
まだ少し、納得できない様子のミセス准将だったが、一時海東司令の眼差しをじっと見つめた後、すっと引き下がってやっと敬礼をした。
「承知いたしました、司令殿。『澤村』を本日より指令部にて受け入れさせて頂きます」
「うん、頼んだよ。では、早速、おおまかな報告を艦長室で聞かせてくれ。その後、不審者を確認する」
「イエッサー」
ミセス准将が『イエッサー』と言うなんて……。いまこの艦の長は海東司令になってしまった。
―◆・◆・◆・◆・◆―
艦長室の艦長デスク。その椅子に、若白髪の男が当たり前のように座った。その両脇に、彼の秘書官と護衛官が控えた。
「指令部の諸君、昨日はご苦労様。かなりの非常事態が二度も起きたが、よく乗り越えてくれた。感謝する」
その椅子にいつも座っているミセス准将は、夫の御園大佐と同じ位置に立ち、海東司令に敬礼をしている。心優とラングラー中佐はその横にそっと控える。
ミセスの後ろに、橘大佐と雅臣が控えた形で敬礼をしている。
直々にやってきた海東司令だったが、艦長席を懐かしそうに撫でる。
「久しぶりだよ。この机」
そうだった。この司令も艦に乗り続けてきた人。三十代のほとんどは陸で過ごすよりも、ほとんどが海上にいて艦長を務めてきた人。そして、この空母艦に乗っていた人だった。
「司令も、昨日はおやすみになっておりませんよね。是枝に食事を準備させましょうか」
ミセス准将の言葉に、海東司令がいつもの穏やかさで微笑む。
「是枝君の食事か。懐かしいな。彼の食事があるから、航海を楽しめたものだよ」
「わたくしも同じでございます。司令より紹介頂いた是枝シェフのおかげで、わたくしも食事を楽しみにして過ごせております」
ミセス准将も僅かに微笑むと、
「アドルフ、シェフに連絡……」
そう言って、ハッとしたようにして御園准将が瞬時に俯いてしまった。
そこにいる男達も心優も、艦長の想いに沈黙してしまう。
「かしこまりました、艦長」
答えて動いたのは、心優自身。艦長がつい呼んでしまいたくなる護衛の『アドルフ』がいないのなら、自分がやればいい。自分のデスク、内線受話器を手に取り心優は是枝シェフに司令への軽食を頼んだ。
受話器を置いた時、少しだけ、ふわっとした目眩が起きた。
なんとか堪えたが、そこで海東司令と目が合ってしまう。
「園田少尉。初めての航海で、初めての非常事態、そして戦闘。よく艦長を護ってくれた。疲れただろう」
「いいえ。大丈夫でございます」
それでも海東司令は心優をじっと見ている。普段は穏やかな微笑みで、語り口も柔らかいのに、彼が目を懲らすと鋭くて怖い。
「御園准将、園田少尉は負傷をしなかったのか」
「軽傷ですが、腕にナイフの刃先が突き刺さったようで、三針ほど縫っております」
「そうか。こちらの護衛も満身ではなしか」
切れた腕の傷の幅は狭かったが、刺し傷としては割と深かったようだった。心優のロッドが腕から飛ばされた時の刺し傷だった。ナイフの刃先だけが深く刺さり、それで思ったより出血していたようだった。
部分麻酔で五針縫った。あとは痛み止めでなんとか過ごしている。腕が熱っぽくなっている気がして、薬のせいかたまにぼうっとする感覚を覚えるようになった。それでも心優は朝方まで必死で堪えていた。だって……。ハワード大尉がいないから。ここで自分も護衛は無理だと判断されたら、艦から降ろされてしまう。
そんなの嫌だ。最後までミセス准将のお側にいてお守りして、初めての航海を全うしたい。横須賀まで帰りたい。それに雅臣といま離れるのも嫌だった。彼との気持ちを繋ぎ直した航海を彼と終えたいから……。
「そう思って、アドルフと交代させる護衛官も連れてきた」
新しい、護衛官? 心優は思わぬ司令の手配に息を止める。『そんな護衛なんていらない』。艦長のことをよく知りもしない隊員は駄目だ。この指令部は御園の事情をよく知っている者ではないと、上手く連携が取れない。そんなの、海東司令こそ知っているはずなのに。心優は密かに憤る。
それでも海東司令は、側にいる秘書官に、艦長室の外に控えているとかいう護衛官を連れてくるように指示をした。
「失礼いたします」
そこに、海東司令と御園大佐と同じく、白いシャツに黒い肩章を付け、きちんと黒ネクタイを締めた青年が現れる。
またそこで、心優はギョッとする。そして、御園准将は『なるほど』と少し呆れた溜め息をついて、でも納得している。
艦長室に海東司令の指示でやってきた『新しい護衛官』は、金髪の青年――。『シド』だった。
「彼も『小笠原』から連れてきた。御園大佐と一緒にね……。適任だろう、ミセス准将」
ものすごい『でっちあげ』をさらっと言い放つ海東司令に、心優は呆気にとられてしまう。
違うでしょ、シドは昨夜もこの艦にいたし、その前から艦にいて『指令部』を護衛していたのに。なのに、司令は『御園大佐と一緒に、小笠原から連れてきた』なんてそれらしい嘘を平気で言う。そして、そのまま今度は『裏のチャトラ』ではなく、表のフランク中尉としてミセス准将の護衛につけようとしている。
ミセス准将も司令のわざとらしい『嘘』に苦笑い。
「左様でございますね。彼のことは私もよく知っておりますので異存はございません。ここまでの手配とお気遣い、有り難うございます」
この艦には乗っていないことになっている『秘密隊員』だったから、ここで正式に乗船クルーとして配置したらしい。
そのシドが、凛々しいネクタイの制服姿で、ついに心優の横に並んだ。
「本日からよろしくお願いいたします」
従順な様子の生意気王子を見て、海東司令と御園准将がそろって笑った。その後に、眼鏡の御園大佐とラングラー中佐も少しだけ笑う。知らないのは橘大佐と雅臣といったところらしい。
それだけ『チャトラ』は極秘配置で、艦長と側近のラングラー中佐しか知らなかったことになるようだった。
「では、早速だが、調査団に侵犯機墜落の現場調査と隊員への聴取にはいってもらう。御園大佐は、私が依頼した趣旨の聴取を開始するようにしてください」
「かしこまりました、海東司令」
御園大佐が個別に依頼された聴取とはなんなのだろう。心優だけはない、御園准将も他の指令部大佐と中佐も訝しそうな顔を揃えている。
「本日は、ただいま着艦した艦上輸送機にまずは不審者の護送をしてもらう。警備をつけているので私は搭乗せず、まずはこの艦に残る。いまもう一機がこちらへと向かっているので、帰りはそれに乗って陸へ帰る。その時に、侵犯機パイロットとアドルフを引き受け、連れて帰る。その段取りだがよろしいかな」
海東司令の指示に、空母指令部の幹部が『イエッサー』と声を揃えた。
「今から、不審者を確認する」
「かしこまりました、司令殿。では、こちらです」
御園准将が心優とシドを見た。護衛について来いというアイコンタクトだと判って、心優とシドも揃って頷く。
海東司令が艦長デスクから立ち上がる。司令付きの秘書官側近と護衛側近が彼の後に続く。艦長室のドアを開けると、さらに警護をしていた横須賀司令部の警備隊員が海東司令の周りを固めた。
御園准将以上の堅固な警備。彼にもなにかあってはならないのだと、その研ぎ澄まされた空気に心優はあてられてしまう。自分も、艦長を護らなくちゃ。……護らなくちゃ。今から、あの狂暴な男達を制圧するのに必死な拘置所に行かなくてはならないから。
その時だった。またふわっとした目眩がした。今度は目の前が真っ暗に……。
――心優!
御園准将の声が微かに聞こえるだけ……。
でも心優は、床に倒れた気がしなかった。そして自分はどこにも掴まっていもない。なにかに優しく頼もしく受け止められている感覚だけがして、そのままそれっきり。
―◆・◆・◆・◆・◆―
ふっと、見えたのは鉄の天井に、白い雲と青空の丸窓。
慣れてきた小部屋の……。
心優はハッとして起きあがる。でも、誰かに肩を押さえられて、すぐに寝かされた。
やっと気が確かになると、自分の小部屋、ベッドに横になっている。
「はじめてのくせに、無茶したな」
ベッドの横から男の声がして見上げると、そこに金髪の彼がいた。
「シド!」
「ちっちゃな傷だけどさ、深さがあったみたいだから甘く見ない方がいい。おまえ、熱だしているんだぞ」
嘘。心優はびっくりして額に手を当てた。
「身体が必死になって傷を治そうと熱くなっている段階だな。それにおまえさ、昨夜、奥さんと一緒で眠っていないだろう。痛み止めだって飲んだだけで辛くなるのに、頑張りすぎだ」
それでも心優は慌てて起きあがる。
「やだ。わたし……。艦長についていきたかったのに。わたししかいないのに! あんな狂暴な男のところに行くんだよ。危ないんだから!」
「わかったから。落ちつけって」
水色の目が心優を窘めるように険しく見据え、また彼の長い逞しい腕に肩を押されて、寝かされてしまう。
「やだ、行くんだってば! ハワード大尉がいなくなっちゃうから、わたしが、わたしじゃないと……! わたしが駄目なら、シドが側に付いていてあげてよ。なんでここにいるの。行かなくちゃ、行かなくちゃ!」
「大丈夫だって。警備隊長もいるし、いまは海東司令が連れてきた精鋭部隊の警護もついているから。おまえと俺が頑張るのは、司令の一団が帰ってからだ!」
諭されて、心優はやっと寝たままジタバタしていた身体をおとなしく鎮めた。
落ち着くと、シドの顔が目の前にあった。少し伸びた金髪。昨夜はあった不精ヒゲが手入れされてなくなっていて、今日は以前通りの凛々しい王子の顔に戻っている。
「シド……。会いたかったよ。いつから……この艦にいたの」
「いつからだろうな」
彼がちょっと申し訳なさそうに目線を逸らした。
「でも。ありがとう。あの時、ほんとに死ぬと思った。お父さん、ごめんね……って思っていた」
彼がそこでちょっと呆れた顔で少しだけ微笑む。
「なんだよ。おまえが死ぬ時に思い出す男って、パパってわけかよ。そりゃ、あの大佐も気の毒」
わ、やっぱり判っていて雅臣を避けていた! 心優はそう思うと、顔が熱くなる、耳まで熱くなった。
「ほ、ほんとに。いつから空母指令部の護衛をしていたの? フロリダからいつ帰ってきたの?」
「そういうの、全部極秘で動くのが秘密隊員。でも……。奥さんが、おまえには黒猫のことまで明かすほどに信頼して、専用護衛にしているってことも今回よくわかっちゃったしなあ……」
彼が伸びた金髪の前髪をかき上げながら、そっと心優の上から退いた。
ベッドの側にある椅子に腰をかけると、彼が冷えているタオルを心優の腕にそっと乗せる。温まったタオルと替えてくれる。看病をしてくれていた。
「わたし、倒れちゃったの?」
「怪我をしたのに休養ナシで徹夜したからだろ。俺の横で急に目眩を起こしたように倒れそうになったから、俺がここまで抱き上げて連れてきたんだよ。艦長も俺に心優を頼むって、海東司令と一緒に拘置所に行ったよ。ちょっと疲れただけだよ。ドクターもそのまま休ませた方がいいってさ」
「そうだったの……。ありがとう、シド……」
といって、心優はさっと青ざめる。ということは? シドが勇ましく心優を抱きしめるところを? 雅臣が見ちゃってる??
「城戸大佐が、すんげえ、複雑な顔していたなあ」
シドがそこで面白そうにニマニマしていた。
心優はまた慌てて起きあがる。
「だから! シドはいつからこの艦にいたの!」
「だから、寝ていろって。おまえ、意外と聞き分けねえのな」
また力強い腕にグッと押し返され、心優は枕に沈められる。
再び、シドの綺麗な顔が目の前に。しかも今度は鼻先に。
「あのさ……。俺、めっちゃ焦ったぜ。あの病室に、奥さんだけじゃない、おまえも一緒に向かっているって知って。絶対におまえ、あんなプロの男を見たらビビって動けなくなるって思っていたからさ」
でも、辿り着いたら心優は勇ましく男と戦闘中でさらに驚いたとシドは言う。
「おまえが勇気を出して奥さんを護ってくれていたから間に合った。でも、おまえにも限度があると思って、すげえ焦りながら鉄格子を開けてた。飛び降りようとした時には、おまえに銃口が向けられていて、もうダメだって思った……それほど……」
いつも上から目線で生意気なことしか言わない王子の目が、麗しい水色に揺れた。彼も必死になって助けてくれたんだと、心優も何も言えなくなる。
「おまえにしちゃ、上出来だったよ」
ほら、やっぱり。彼らしい上から目線の言い方。なのに彼の目は、心優を切なそうに見つめて泣きそうだった。
心優がドッキリとした時にはもう、シドが心優におおいかぶさって頬に触れている。
「シ、シドっ……」
んっ……。
覆い被さるシドがそのままベッドに上がってきてしまう。そうして真上から、心優のくちびるを塞いで、強引に吸っている。
「シ……ドッ……あ、うっ……」
腕で押しのけようとしたけれど、怪我をしているから力がはいらない。しかも彼の逞しい身体が思いっきりのっかっていて身動きも出来ない。
心優はされるがまま、くちびるを奪われて愛されていた。でも、違う。だめ。そうじゃない! 彼にちゃんと伝えなくちゃいけないことがある!
なのに、それを聞きたくないのか、言わせたくないのか、シドは唇を自由にしてくれない。そのまま心優が着ている紺の訓練着の襟元を開こうとしていた。
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