62.艦長、更迭も厭わず!
艦長の隣についた雅臣と橘大佐もインカムヘッドホンをした姿で茫然としていた。
「先程までは、夜明け前で水平線のあたりの雲が紅く燃えているように見えただけでしたが……」
雅臣の報告だったが、御園艦長はただ茜に染まる景色をみつめている。
昨夜の雨雲が厚くたれ込めている空、その重く降りてきてるような雲に朝日が反射している。そして空を覆う雲が染まっている。海も染まっている。
「四方が同じ色。パイロットには天敵だわ」
艦長の呟きに、大佐二名もうなずいている。
「これはパイロットの感覚を狂わせてしまうかもしれませんね」
雅臣も空を見上げて不安そうだった。なのに、甲板から轟音。たったいま真っ白な戦闘機も茜色に染まってカタパルトから空へと発進してしまった。
「私は全体の指揮に専念します。橘大佐、侵犯措置をお願いします。城戸大佐、6号スプリンターと7号バレットに撮影と偵察をさせてください」
「イエス、マム」
大佐両名、声を揃え、それぞれの無線チャンネルへと指示をする。
パイロットを指揮する二人が口を揃えた。
「四方同じ色だ。バーティゴに気をつけろ。計器との感覚を一致させろ」
「バレット、スプリンター。バーティゴに気をつけるんだ」
『バーティゴ(空間識失調)』。パイロットが平衡感覚を失う現象。
簡単に言うと、どちらが上空でどちらが地面であるか方向感覚を失うこと。何も見えない夜間飛行で起こりやすく、日中でも高度ある上空では空と雲ばかりで水平線が見えないと上下の感覚を失い、上昇しているつもりで急降下していることになり地面に激突し事故になりかねない危険な状態に陥る。
いま、空は青くはないが一面が紅い。海も雲も紅い。水平線が雲で隠れているところもある。だからこそ元パイロットの指揮官達が、一面薔薇色の光景にすぐさま危険を察知し絶句していたのだ。
「計器を絶対的に信じろ。いいな」
「感覚がおかしく感じるようになっても、計器を信じろ」
橘大佐の念押しを、雅臣もおなじく繰り返した。
「ラミレス中佐、この気象現象に覚えは」
この艦の操縦責任者、つまり舵を司る航海士長である中佐に、艦長が話しかける。
木製の蛇輪を握っている彼が答える。
「希に。海上が一面に染まるのはみたことがありますが、ここまでのものは初めてです。雲が多いせいでしょう」
「このような現象が起きた場合、どれぐらい続くか見当はつくかしら」
「長くても、三十分程度でしょう。太陽が水平線から昇りきれば変化があると思います」
「わかったわ、ありがとう」
ミセス准将の横顔はもういつもの凍った横顔に整っていた。
「二隊とも、ADIZ(防空識別圏)から領空ラインに向かってきています」
管制員の報告に、御園艦長がなにやら考えあぐねている。
艦長がなにもいわないので、焦れている橘大佐がミセス准将に問うた。
「艦長。本当に領空侵犯措置の二機と偵察機だけでいいのか。念のため、こちらも編隊で万が一の侵犯に備えては――」
「その必要は今はない。こっちが出撃機を増やしたところで、向こうが『言いがかり』をする為の揚げ足に使われる可能性がある。今回の二編成での大量出現も、こちらを慌てさせて『いつもとは異なる対処』をさせることで、それを『防空識別圏を飛んでいただけなのに、攻撃と勘違いして対戦意志を持って出撃してきた』と言われるに決まっている。ギリギリまで『通常通りの対処』で行くわよ。ただし、6号機のスプリンターには上手に撮影をして証拠を残すように指示して」
「わかった。では、領空線付近まで来たら、侵犯措置を実行する」
艦長の決断に橘大佐も従う。そして雅臣も。
「6号機スプリンター、3号ゴリラと、5号マックスの侵犯措置対応を撮影しておくように」
「城戸大佐。バレットには『ハウンド(猟犬)』と伝えて」
『通常通りに対処する』と言った艦長だったが、ここで既に『秘策』を仕込んでいた。管制室にいる男達の空気がまた固まった気がした。
『ハウンド』、猟犬。艦長という主の命で従う犬になれという意。御園艦長がいま手綱を握った『ハウンド』は、雷神エースの鈴木少佐。7号機バレットには『万が一の時には、猟を、迎撃指示をする』とほのめかしたのだから――。
「ラジャー、艦長」
承知した雅臣が、すぐさま鈴木少佐に伝達する。
「バレット。キャプテンが『ハウンド』と言っている」
その後、バレット機がなにか言ったのか、通信をしている雅臣も神妙にうなずいている。
「キャプテン。自分は最高のハウンド(猟犬)だ――と言っております」
「そう、わかった」
最高の猟犬。キャプテンの一声で俺はいつだって噛みつけるという鈴木少佐からの意思表示だった。これでこちらの体勢は少数精鋭で整った。
――『あと二十秒で、侵犯ライン』
管制員の報告に指揮カウンターにいる大佐二名と艦長が固唾を呑む静けさ。
「来るな。帰れ」
橘大佐が念じるようにレーダーに呟く。
「いつもの脅しで帰ってくれ」
雅臣も同じく。彼の額にも緊張の汗が見て取れる。
ミセス艦長はいつもの冷めた横顔のまま。こんな時、彼女のロボットのような無感情さが頼もしく思える、いつか雅臣が言っていた言葉を心優は思いだして『本当だ』と実感する。
誰よりも驚かず騒がず、慌てず、いつもの顔。感情を一切表さない。
「3号『ゴリラ』。ぎりぎりに寄って牽制しろ」
レーダーに現れた多数の点は、十機をひとまとめにして、二方向からこちらに向かってきてる。西側に十機、北側から十機。その北側から来た編隊が先に領空線までやってきた。3号ゴリラ機と5号マックス機がそこで待機している。
本当に、脅し? それにしては機体数は多すぎるし、二十機まとめてこちらに向かって来るだなんて攻撃的すぎるのはあちら側ではないか。これを艦長は『通常対処』で乗り越えようとしている。
「領空ライン到達、しかし、侵犯せず」
――『キャプテン、目視で四機確認。下方に二機、』
雷神3号機『ゴリラ』からの報告。
侵犯はしない。でもあちらも『いつもいつも、俺達が主張している警戒エリアギリギリに空母で通りやがって』と思っているのか、だからこその派手な牽制。
――『キャプテン、まるでドッグファイトでも仕掛けてくるかのように、挑発的な編隊を組んでこちらに寄ってきます』
ゴリラ機のガンカメラからの映像もこちらに届いている。あちらも真っ赤に照り返している戦闘機を紅い雲間を切り裂きながら、ゴリラ機に接近したり急上昇をして脅したりしている。それを十機で。
たった二機で最初に到着した十機編成に警戒しているゴリラ機とマックス機には、すぐそこの領空ラインを割ってこちら国内に入ってこられたとしても、いつもの冷静な『退去勧告』だけで退いてくれるのだろうかという焦りを煽られているのがわずかに声に顕れている。
「ゴリラ。マックス。どちらも落ち着きなさい。大丈夫。いつも押し気味に海域を通過する私に対する警告よ。そっちがその気なら、こっちもこれだけの準備がしてあるというお知らせ。いつもどおりに落ち着いて対処をするのよ。もしもの時は、助けに行くから」
冷たい指示でも、決して突き放しているわけではない頼もしいアイスドールの声。
――『ラジャー』
「それよりも無駄な旋回と上下を行き来する飛行を控えなさい。わかるわね」
――『了解。平行飛行にての対処に努めます』
バーティゴへの対処だった。雷神3号機の『ゴリラ』の声もとても落ち着いている。ミセスへの信頼が窺え、心優はそれだけでこの緊張が少しやわらいだ気がした。
「キャプテン。西の十機編隊は退去をはじめております」
「そう……」
艦長はこんな時でも、あからさまにほっとした顔はしない。でも橘大佐と雅臣は脱力したように大きく息をしてほっとした顔。
「やっぱ、派手な脅しか。二十機も空に出撃させたりして、ようやるわ」
橘大佐の呆れた声。そして雅臣も。
「いつもこの海域ギリギリの航路をとるミセスの艦に対しての警告、こうでもしないとあちらも業務の面子が保てなかったのかもしれませんね」
――『ゴリラ機周辺から、三機退去』
――『西方十機、ADIZから出ました』
――『マックス機周辺からも、二機退去』
心優が見ている艦長の手元のレーダーから、たくさんあった点がひとつ、ふたつみっつ、よっつ――と、少しずつ少しずつADIZラインを出て行き大陸へと帰っていく。
心優もホッとする。雅臣が言ったとおりに、御園艦隊をいつも以上に脅かすためのパフォーマンスに過ぎなかった。
「流石、ティンク。俺の出番なしかな。侵犯措置もなく、帰ってくれそうだ。俺なんか、対等に出撃しないとと焦ってしまったけれど、向こうの手に乗らなかったから、向こうも拍子抜けして帰っていくな」
二十機で国境に近づいてこられても、いつもの処置で充分、むこうに乗せられ慌てて対等の出撃をしていたら波風を立てる。日本側から波風を立てさせる、それが狙いであって、そうなったらあちらの思うつぼ。それをしなかったミセス艦長は、橘大佐さえも唸らせる。
でも御園艦長はすべての大陸国の機体が退去するまでレーダーを見つめて返答すらしない。
「あと四機――」
雅臣も落ち着いているが、なかなか離れていかないしつこい機体に焦れている。
――『こちらゴリラ。肉眼で機体の確認が出来なくなりました。降下にて雲の中に入ってそれきりです』
――『こちらマックス。同じく、降下にて雲間に消えました』
「まだレーダーでは側にいるから、油断しないように」
――イエッサー。
いつもはイエスマムの男達も、任務職務中になると指揮官の性別を悟られないためか、誰もが『イエッサー』と言う。そんな時、彼等が『男でも女でも、俺達はミセスという指揮官に従う』と男の指揮官以上に認めている証拠のように心優は感じている。
「あと二機です」
管制の報告に、徐々に隊員達の緊張が解けてくるように心優には見えた。もう大丈夫だろうと……。
「領空侵入確認!」
管制員が突然叫んだ。
御園艦長もレーダーを再度見下ろす。
心優も隣で確かめて絶句する。あと二機だったうちの一機があからさまに、領空ラインを越えて、こちらの国の空域に侵入してきた。
「橘大佐、ゴリラとマックスに対処を。城戸大佐、ひきつづきスプリンターに撮影を」
――『キャプテン、追いつけません!』
――『見失いました!』
ゴリラとマックス二機の声も届く。
「一機だけなの」
落ち着いたミセスの問いに、管制員も「一機だけです」と迅速に答える。
橘大佐もすぐさま行動に移る。
「ゴリラ、マックス。すぐに追え! みつけたら即時に措置に移れ」
―― イエッサー!
二機が国内へと侵入した一機を追うのがレーダーにも映る。
雅臣も動く。
「バレットも追え。スプリンターも撮影を続けろ」
―― イエッサー!
こちらも侵入してきた一機を追う。
だが、管制員が一気に落ち着きをなくして青ざめていくのを心優は見てしまう。管制長が指揮台にいるミセスに振り返って叫ぶ。
「キャプテン、こちらにまっすぐ向かってきます」
―― キャプテン、みつかりません!
「レーダー見ているのか! 絶対に見つけろ!!」
ゴリラからの報告に、橘大佐が吼えた。
「キャプテン! あと八分でこちらに到達します」
管制室がざわめいた。侵犯した一機が、確かに空母に向かって一直線。レーダーにも一点だけこちらにぐんぐんと近づいてくるものがある。
一度、十機編隊二隊が退いた様子を見せ、こちらを少しだけ安堵させた隙を狙ったかのような侵犯。しかもハイスピードでこちらに迫ってくる。
雅臣の顔色も青ざめている。
「艦長! まさか……。こちらの空母を狙うための、一機侵犯ではないですよね。どこかで止めないと、この艦が撃墜されます!」
「艦長、どうする! ゴリラもマックスも見失った! 侵犯機に追いつけない。とんでもないスピードで来ているぞ」
橘大佐が口惜しそうにして、ミセス准将に詰め寄る。だかその時。
『見つけた。キャプテン、侵犯機を発見』
鈴木少佐の声だった。
「バレット、みつけたの! そのまま追跡しなさい」
『キャプテン、自分もみつけました。バレットの後をつけて、撮影しています』
鈴木少佐の僚機、相棒のスプリンター機からの落ち着いた声も届いた。
『画像、送ります』
ミセスのモニターに、発見された侵犯機が映される。
真っ赤な雲の中を二機が切り裂きながら降下している映像だった。前にいるのが大陸国の戦闘機、後を追う白い戦闘機バレット機が同じく降下しながら追っている映像だった。
しかしその映像は紅く染まる霧のような雲をまといながらのもので、とても鮮明なものではなかった。
それでも目が良い元パイロットのミセスと大佐二名が顔を見合わせる。
「私だけかしら? 背面で降下しているように見えたけれど?」
「俺も思った。背面で降下しているように見えた」
「俺もです。背面に見えました」
そこで三人がさらに表情を止め、お互いに同じ事を思いついたかのように、でも確証がないので言葉には出来ないのか無言になっている。
『キャプテン!』
鈴木少佐の声が届く。
『背面で急降下している。もしかして……』
艦長と大佐二名が躊躇っていただろう言葉を彼が言い放った。
『パイロットがバーティゴを起こしている可能性があると思う!』
「バレット、そう思うのはどうして」
『背面で急降下なんて不自然だし、正常体勢でも急降下は重力負担がかかるのに、背面で急降下するのはもっと重力がかかる。なのに、まるで海に落ちるためのような角度で落ちていってる! こんな恐怖のある操縦は自らしないと思います』
「スプリンター、貴方はどう思う?」
『自分もバレットと同じです。不自然です。空母への攻撃が目的の接近だとしても、あのような体勢を望んで接近するパイロットはいないと思います。四方が薄紅の霧ばかりで、自分も上下感覚に不安を覚えています』
そしてスプリンター機のクライトン少佐がもっと驚くことを伝えてくる。
『ですが、キャプテン。バーティゴであっても、意図した接近であっても、空母に向かって降下しているのは確かです! 念のための対処をお願いします!』
どうする! 管制室の誰もがそんな顔で、指揮カウンターにいるミセス准将へと視線を集めた。
これは正真正銘のバーティゴか? パイロットがバーティゴを起こしたが為の、思わぬ侵犯なのか――。
或いは、バーティゴと見せかけた演技をする高度テクニックを持ったパイロットが指令を受けて、空母に近づき撃墜を目論んでいるのか――。
そこで、橘大佐も雅臣も判断をしかねている。だから、艦長へ『どうする』、『どうしますか』と求めている。
御園艦長はまだ黙っている。彼女も必死に見極めようとしているのが、隣に控えている心優にも判る。
「お嬢! 計算したら、いまの状態だと侵犯機が左舷に激突する計算結果がでたから報告する!」
「わかったわ。クリストファー。ありがとう」
長年、艦長と同じ中隊で同僚として付き添ってきた空部管理長のダグラス中佐が管制員と一緒に座っている空管理システムで計算した図を艦長のモニターに送信してくれる。
それを見て、心優は吃驚する。戦闘機が鋭い角度で空母艦の左舷に到達する図になっている。
「海東司令からの連絡は? いつもなら侵犯機が出現した時点で司令の指揮がはいるのに……」
ふと気付けば、この時点で空母を瞬時に指揮下にする『空母航空団司令(CAG)』からの通信が届いていない。
「ラングラー中佐、横須賀中央指令センターの海東司令への連絡と報告を」
「イエス、マム」
ラングラー中佐が管制室を飛び出していく。
「しかし、艦長。司令の指示を待っていたら、間に合わないぞ」
橘大佐の進言に、ミセス准将が少しだけ管制室を出て行くドアを見た。
「あちらもなにかあったのね。仕方がない」
なにか察したミセス准将の表情がさらに堅くなり、琥珀の眼差しが意を決した鋭さを増した。
「皆さん。いまから私が言うことに従って頂きたく思います」
いつもの冷めた声でミセス准将が管制室にいる全員に話しかける。
「ひとつの決断をします。正しいか正しくないかはわからない。おそらく、それが正しくなければこの対処の後、私は横須賀の司令部により『更迭』されるでしょう。それでも、皆さんには私の指示に従って頂きたい。責任は私がとります。いまから貴方達がすることは、わたくし御園葉月の指示でしたこと。よろしいわね」
管制室がシンとした。
「イエッサー、御園艦長。俺はかまわないぜ」
すぐに従ったのは橘大佐。
「イエッサー。御園艦長。自分も従います」
雅臣も同意した。
―― イエッサー、ミセスキャプテン!
管制の男達が全員、声を張り上げた。
「今からの指示を冷静に的確にこなすように!」
いつものロボットの顔で、アイスドールの横顔で告げていく。
「侵犯機はバーティゴの可能性があるため『不慮の事故』として扱い、侵犯迎撃はしません。侵犯機パイロットの救助にあたります」
また一瞬、静まった。侵犯機がほんとうに事故でこちらにうっかり来てしまったのかはまだわからない。それでも本当にバーティゴだったら、パイロットのせいではない。そこで撃墜をしてしまったら、悪気のない侵犯で相手国のパイロットの命を奪うことになる。でも、侵犯は見逃せない――。そんな防衛の葛藤がみてとれた。
「ただし。この艦に損害がでないことが第一! どうあってもこの艦に激突、墜落してきた場合は、撃墜します。その両方を考慮して指示します」
―― イエッサー!
管制室がやっとひとつにまとまったように心優には感じた。
それでもどうなるの? この艦に飛行機が落ちてくるの? それとも目の前で人が乗っている飛行機を撃墜するの? わたし達が? 艦長が? 鈴木少佐が? そんなの……嫌だ! 心優の心が叫ぶ。
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