61.レッドクラウド、紅の朝

 佐渡島を過ぎて、いま空母は電波をたまに切りながら航行している。


 その間、心優は神経を尖らせていた。電波を切りながら艦の情報を守りながら、警備隊の強化、そして装備の装着。警棒を腰に携帯するようになってから、心優も御園准将の気持ちが良く判るようになった。すごく神経がピリピリしている。


 いてもたってもいられなくて、あいている時間は護衛部の隊員や警備隊の隊員達と、組み手の訓練をするようになっていた。

 ―― 園田少尉はマジもんの空手家。

 艦の中でもそう言われるようになった。艦長の護衛に抜擢されるはずだと、誰もが言ってくれる。


 でも心優の中の不安は晴れない。この艦が無事に横須賀について、小笠原に帰るまでは、艦長の護衛のことしか考えられない。


 雅臣にもそれが伝わっていた。

 急に顔つきが変わった。護衛官の顔をしていて、近づけないよ――と、言われる。

 暫くは、こんなかんじだからごめんなさい――と言うと、雅臣はあの愛嬌ある爽やかな微笑みを見せてくれる。今はお互いにそれだけで、任務に集中している。


「なあ、葉月ちゃんの時はどうだったの。澤村君がさ、お嬢さんと結婚させてくださいって、御園元中将に申し込んだ時ってどんなだったのー」

 ピリピリしている空気の中でも、橘大佐は知ってか知らずか、いつもの調子で暇さえあれば御園准将のところにやってきて最近は『結婚の相談』をしている。


 応接ソファーに橘大佐が座って、ノートパソコンを持ってきて仕事をしているふりをして、御園准将と話したくてそこにいるのは心優もわかっている。


 でも御園准将はいつもの冷めた横顔で、こちらは艦長デスクにてきちんと仕事に集中している。

「なあ、聞いてる? 葉月ちゃん」

 心優から出て行ってください――と言った方がいいのかなと最近は思ってしまう。でもノリが軽いオジサンでも、橘大佐は副艦長。滅多な口出しは出来ない。しかもあのラングラー中佐が放置しているようだから、ご勝手にどうぞか、大佐の扱いは艦長に任せているのかとも思っているから心優は様子見。


「そんなに聞きたい? 私が結婚した時のこと。いままで聞きもしなかったじゃない」


「聞かねえよ。俺が結婚に興味なかったんだから。だからさあ、決意したはいいけどわかんないんだよ。その、余所様の家族に気に入られるさじ加減、とか。だってさ、俺と親父さんとのほうが年齢差近いんだもんな。ぶん殴られるよなあ。彼女の親父さん、横須賀の武闘隊員だぜ。空母の警備隊長を何度も歴任してきたほんまもんのネイビーシールズだぜ。それで娘の名前をマリン(真凛)てつけるほど、根っからのネイビー。娘の真凛もその影響で海軍の事務官になっちゃってさ。俺達が若い時、彼女のお父ちゃんと言ったら、めっちゃ怖い大人だったじゃんか」


「そうね。空母で何度かご一緒だったわね。でも、そういうお父様の愛娘を選んだんでしょ。覚悟決めなさいよ」

「澤村君だって相当な覚悟だったはずだよな。しかも婿養子になっちゃってさ。どうだったのかなあって」


「私が刺されて意識が戻ったら、もう彼と父との間で話はまとまっていたわね。家族が揃って今がその時って整えてくれたから、もう盛大な準備もなく、とにかく結婚しようってなったのよね。彼と婚姻届を書いたことが『結婚』した実感の瞬間かな。入院先で、ベッドの上で彼と一緒に記入した瞬間、いまでも覚えている。私、あの時は本当に命拾いしたからね――、生きてるならもう何も考えずにそうしようって流れだったわね」


 そんなことをサラサラっとミセス准将が話したので、心優はまた絶句してしまう。

 橘大佐も硬直していたし、『しまった』という顔に変貌した。


「わりい……。俺、なんかいっつも葉月ちゃんに余計なこと喋らせちゃうな」

「遠慮されても困るのよ。私と話すとそう言う話は普通に出てくるし、橘さんだから話しているし、上手い言葉を返そうとしなくてもかまわないからただ聞いてくれたらいいのよ。いちいち気にされる方がなにも話したくなくなる」


「ああ、もう、わかった。そうする――。えっと、やっぱ当たって砕けろで、俺も頑張るわ。チクショウ、元隊長さんにどつかれる覚悟決めるか!」

 命あって結婚をした人の話を聞けば、橘大佐も男ならこれぐらいのこと覚悟しろと肝に銘じたようだった。


 でも心優も他人事ではなくなるかも? 父と雅臣が対面して、雅臣がなにか言う時、父はどう反応するのだろう? そこは心優も考えるこの頃。そして、彼の母親に会う時、気に入ってもらえるかどうかも心配……。


 少し話が落ち着いたところで、心優はいつも珈琲と紅茶を二人に出すようにしている。


「もうすぐ日本海ともお別れね」

「だな。また正念場だな。さて、俺はスクランブルのアラート待機の体勢をチェックし直しておくか」

「お願いいたします、橘大佐」

 心優が入れた珈琲を一杯味わうと、橘大佐がやっとソファーから立ち上がり艦長室を出ていった。


「心優。橘さんもいろいろと緊張してきているのよ。ここでのお喋りぐらいは自由にさせてあげてね」

 心優が艦長を思って、この人ここで自由に喋らせていていいのかな――と案じていたことを見抜かれていた。


「私も彼とのお喋りは気晴らしだから。でも、気遣ってくれてありがとう」

「いいえ。艦長がそれでよろしければ、良いのです」

「逆に。貴女と雅臣は、最近はあまり会話をしていないようね」

「お互いの職務に集中しようという約束です。なのでもうお気遣いはなしにしてくださいね」

「そうなの? ちょっとした言葉のやり取りぐらい、あった方が良いと思うけど」

「それはしておりますよ。少しぐらいはプライベートの会話も交わしていますから心配しないでください」

「それならいいけれど……」


 姉心なのか母心なのか、心優と雅臣の関係を常に気にしてくれている。それはそれで有り難いけれど、なにかあれば二人きりにしようとしてくれるのも最近は困っている。


 いま雅臣と向きあっても、お互いに素直に甘くなれない。もし甘くなったとしたら、今度は我慢がきかない。こんなに彼を欲しているのに……。今度、雅臣にキスをされたら、心優から抱きついてしまう。心優からも深いキスをしてしまう。そして……。きっと心優から肌を見せたくなる。『抱いて、臣さん』。わたしのお猿さん。まっすぐに強く、わたしを抱いて。そうして想う火照りを冷ますことが出来なくなる。


 だからいま、二人は任務遂行を誓う。

 雅臣も時々言う。

『艦を降りたら、すぐに俺の官舎に行こう。一緒に眠ろう』

 きっとその夜、わたし達は眠らないほど抱き合う。あのアクアマリンの海の宵、カナリア色の月に照らされて愛しあえる。


 雅臣もその想いを描いていることが心優には通じていた。

 それまでは、彼は『大佐殿』。

 心優は『艦長付き、護衛官』。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 警戒区域を航行中。さらに、警戒を強めるべき海域へと向かう。

 艦は日本海を出て、対馬海峡、下関沖を通過し、五島列島へ――。

 そこでも電波を突然遮断し、ひと晩停泊などを繰り返し、ゆっくりと南下をはじめる。


 艦長も落ち着いていた。鈴木少佐が非番の日は、艦長室に呼んでランチをしたり、二人で子供達が気分転換にと渡してくれたという映画鑑賞をしたりしていた。


 そんな艦長の落ち着きが、艦のクルー達の中にも穏やかな空気として伝わり、滞りないいつもの航行を展開する日々が続いていた。


 ある日、激しい雨が夜中ずっと降った。

「南に来たってかんじね」

 ヴァイオリンを構えてしばし演奏をしていた御園准将が、溜め息をつきながらケースにしまう。


 雨の滴が伝う丸窓。外はレインコートを羽織っている甲板要員がホットスクランブルに備えて、いつだって準備を怠らない姿。


「冬ではないことが幸いね。西に来て南下をはじめたら、本当に暖かくなったわね」

「そうですね。オホーツクは寒かったですものね」


 あれから一ヶ月が経った。航行任務もあと半分。停泊しながら、ゆっくりと進みながらの航行はとても時間がかかる。ただ一周するだけなら数日で済むところを、防衛を目的とした空母を『基地』と見立てて動かすので航海は長いものになる。


「本州はそろそろ桜の時期ね。今年は花見ができなくて残念だわ」

「小笠原では咲いていましたよね。冬に咲いたので、わたしもなんだか春が来たという実感がなかったです」

「そうねえ。若い時はパイロット兄様達と桜が咲いたらバカ騒ぎをしたもんだけれど。今は両親や叔父がいる横須賀か鎌倉で花見をするようになってしまったわ」

「鎌倉ですか。いいですね」

 艦長はよく『兄様』と言う。たまにご両親のことを『パパ、ママ』と言ってうっかりしたという顔をする。その時のお顔がちょっと可愛らしい。本当のお嬢様なんだなと感じている。


「心優は沼津に帰って花見をしたりするの。お母様とお兄様のご家族、そしてお父様と」

「そうですね。帰省ができた時はそうしていました」

「そう、今年は心優も残念ね……」

「いいえ。帰ったり帰らなかったりその年によります」

 でも、去年は中佐で上司だった雅臣と桜を見ていたな……と一年前を思い返してしまう。随分と時が経った気がする。激変の一年だった。


「貴女、横須賀に転属する前は、浜松の航空基地にいたのでしょう」

「はい」

「雅臣の実家が浜松だって知っているの?」

「はい……」

 浜松にいたから航空機に憧れて入隊したということは、付き合い始めた頃に聞かせてもらっていた。


 でも。雅臣にとって『浜松』は事故と繋がっている場所なので、心優からは話せないし、地元のこともあれこれ聞けない。


「雅臣は、ご実家に帰ることも避けているみたいね。事故のことを、思い出してしまうのでしょう。ご実家に顔を見せたりはするけれど、すぐに帰るとか滞在ができないらしいのよ。心優とだったら帰れるかも……と最近は思っているの」


 心優は硬直する。おつきあいする女性として会うだけでも緊張するのに、そんな大役――とも思う。でも他の人に任せたくないことも本当のところだった。


「はい。航海が終わってすぐは無理かもしれませんが、タイミングを見て、彼さえ良ければそばに付いていたいと思っております」

「ほんと? 良かった。安心したわ。心優がそう言ってくれて……。私も覚えがあるのよ。辛いことがあって、両親に心配かけていることもわかっているし、でも、両親に会うと辛いことがあったということを感じずにいられないから……。雅臣自身が『帰りたい』と思ってくれるようにならないと、このままの気もして……ね」


「わかりました。心がけておきます」

 御園准将が安心したように微笑んでくれる。


「では。今夜はもう休みましょう。この大雨ならなにもなさそうね。こんな日にしっかり眠りましょう」

「はい。艦長」

 御園准将もヴァイオリンケース片手に、ベッドルームに消えていく。ここのところ、睡眠も順調に取れているようで本当に穏やかだった。


 心優も小部屋に入り、ショーツとタンクトップだけになってベッドに横になった。ひとつだけ丸窓がある。そこにも雨の滴、雨音。それを眺めているだけで眠気がやってくる……。


 臣さん、無理しなくて良いよ。でもいつか一緒に浜松に帰ろうね。


 浜松の基地には、戦闘機よりも『練習機』が多い。パイロット候補生を育てる基地でもあった。


 川崎T-4が並ぶ滑走路。中等練習機。広報アクロバットでも使われている機体。臣さんもあの練習機で空を飛んで、パイロットに……。



 ―― ホットスクランブル!

 ハッと目覚める。どれぐらい眠ったのだろう? でも心優は反射的に毛布をはね除け起きあがっていた。


 すぐさま紺のアーマーパンツをはいて、上着を羽織る。その時、白いはずのシーツが茜に染まっていることに気がついた。


 夜明け前? もう朝? 丸窓に見える雲が真っ赤に染まっている。

 三段ロッドの警棒を手にとってそのまま小部屋を飛び出す。


 小部屋を出ると、御園艦長も白いタンクトップの上に紺の上着を羽織るだけの姿で艦長室を飛び出したところ。


 心優も艦長室を飛び出すが、そこで雅臣と鉢合わせた。雅臣は逆で、夜間のシフト監視をしていた管制室から飛び出して指令室の幹部が眠る部屋へ向かうところ。


「大佐」

「十機の編隊が、二隊。こちらに向かっている。俺は艦長と指揮につくから、橘大佐とラングラー中佐を起こしてきてくれ」

 十機の編隊が二隊? 全部で二十機――!?

 心優は真っ青になり震え上がる。身体が動かなくなった。


「心優、しっかりしろ。艦長の側についているんだ。大丈夫だ。あんなの派手な脅しだ。北方の奴等もそうだっただろ。俺達が近づいてきたからの警戒にすぎない。こっちはお国柄派手なだけだ」


 『おちつけ』。雅臣が心優の頬を軽くはたいた。初めての航行で、様々なことが全て『初めての出来事』である心優は、いつだって茫然としてしまう。そんな心優を雅臣が律しようとしてくれる。


「了解です、大佐。起こして参ります」

「頼んだぞ」


 雅臣も御園艦長の側へと管制室へ戻っていく。二人が指揮台で無線のインカムヘッドセットをしたのが見えた。心優も男性幹部が眠る部屋へと急いだ。でもこちらも心優が開けるまでもなく、橘大佐を先頭に飛び出してきた。


「橘大佐。十機編成が、二隊接近だそうです」

 心優の報告に、さすがの橘大佐も『なんだって』と表情を強ばらせる。

 それぞれが持ち場に散っていく。心優とハワード大尉は艦長の下へと管制室へ急ぐ。


「キャプテン、雷神3号、5号、発進OKです」

「侵犯措置対応に行かせて」

 ――ラジャー。

「雷神6号と7号も行かせて。偵察と撮影をさせてちょうだい」

 ――イエス、マムー!

 艦長が次々と対応に追われる。官制員達の英語の通信で管制室がざわめく。甲板でも甲板要員が忙しく行き来をはじめる。


 艦長は落ち着いて指揮を出しているが、彼女が一時だけブリッジの外を見て喫驚する。

「なんなの、これ」

 あのアイスドールの彼女が、驚きを隠せない顔。そして彼女の白い肌が紅く染まっている。


 それは彼女だけではなく、この管制室も甲板も、海も空もすべてが朝焼けに染まって、薔薇色になっている。


 心優もただただ朝焼けに染まる光景に唖然とするしかない。むしろ、すべてを薔薇色に染めているその色が今朝は禍々しく見えてしかたがない。


「艦長、この空はやばいぞ」

 橘大佐の表情も強ばっている。

「艦長、一面この色はパイロットには……。水平線も雲で隠れています」

 雅臣もなにか危機感を拭えない焦りようだったが、心優にはなんの危機が迫っているのかわからない。


「そうね。この空はまずいわ……」

 真っ赤に染まる不吉な空。艦長が唇を噛みしめた。

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