60.これが、わたしのお仕事
海が茜に滲む夕。心優は溜め息をついて、艦長室を出る。
管制室には、もう紺色の指揮官服に着替えてしまった雅臣が、官制員と一緒にレーダーを監視しているところ。
そこへと心優は思いきって足を運ぶ。
雅臣も心優が一人で管制室に入ってきたことに気がつく。
「お疲れ、園田。もしかして、あれか」
インカムヘッドホンをしたままの雅臣が、展望窓の向こうへと視線を向ける。
心優も『そうです』とうなずいた。
夕の茜に染まりはじめた甲板。海の波が見渡せるキャットウォーク沿い、空母の縁には、紺の指揮官服に着替えたミセス准将と橘大佐が背中を並べている姿がある。
雅臣が官制員が監視しているレーダーの側に手をついて、展望窓へと身を乗り出す。
「あそこで、いい雰囲気で、一時間半。そりゃ、語り尽くせないことばかりだろうけどさ――」
雅臣も溜め息をついていた。撮影が終了し、指令室でのお祝いのランチも終え、通常業務に戻って暫くすると、橘大佐が艦長室を訪ねてきて、今度は正式に御園准将への感謝の言葉を延べにやってきた。
それから『ちょっとでかける』とミセス准将と橘大佐が艦長室を出て行った。二人は、甲板へ。そこで笑顔でいろいろと話し始めてから動かなくなってしまった。
「珈琲の一杯でも持っていけばどうかと俺達も思っているんだけどな。そうすれば話をやめてしまうだろうし、でも、そろそろ戻って欲しいし」
艦長と副艦長があの状態なので、いまは雅臣が一人で空母周辺を監視しているということらしい。
「なあ、園田。どうかな。珈琲を持っていったらどうだろうか」
「もうすぐ日没ですから、そろそろ帰ってきますよ。お二人が安心して今日のことを語り合っていられるのは、城戸大佐が管制室にいれば安心と信用して任せてくださっているからなのでしょう」
どうしてか雅臣が、目を丸くして心優を見下ろした。
「え、あの。なにか?」
「いやー。本当に園田は、艦長付きの秘書官になってきたなあと思って。いまのラングラー中佐ぽい言い方だったからさ」
「え、そうでしたか?」
「艦長の行動を大らかに捉えている余裕ってやつだなあ。あの人に慣れてきたんだな、すげえよ」
雅臣があまりにも感心してじろじろと見下ろすので、心優はちょっと気恥ずかしくなって頬を熱くしてしまう。
「あ、では、大佐に珈琲をお持ちしますね!」
「お、サンキュ。いいな、秘書官に労ってもらえるって」
「ですよねー。いままで労る側でしたものね、城戸大佐は。元部下として、恩返しで労らせて頂きます」
「口の利き方も、切り返しも、上官に負けない秘書官らしくなってきて」
どうあっても雅臣が立派な秘書官になりつつあるといいながらクスクスと笑ってばかりいるのが、逆にエリート秘書官だった先輩にからかわられているようで、心優はちょっとだけふて腐れながら『珈琲を持ってきます』と雅臣から離れた。
雅臣に珈琲を届けて、夕の業務の準備をしていると、空が薄暗くなる前に御園准将と橘大佐が揃って戻ってきた。
「心優。今夜は橘さんと一緒に夕食をとろうと思うの。シェフには前もって私から伝えているからね」
「では、わたしは本日はカフェテリアで食事をさせて頂きます」
「あら、心優も一緒でいいのよ」
でも心優は首を振る。
「お二人でごゆっくり。そろそろ私もカフェテリアの食事が恋しくなったので一度行かせてください」
「そう? それなら……」
「悪いな、心優ちゃん。艦長と今後の打ち合わせも兼ねているんだ。だから居ても良いんだけどね」
――と、言いつつも。今日は妙にいい雰囲気の二人は、やっぱり二人きりになりたそうだった。
食事の時間になると、心優は艦長室を出てカフェテリアに向かった。
空母には食事をするカフェテリアがいくつか存在する。各部署に隣接させて業務に滞りないよう点在させている。
鈴木少佐がいるパイロットエリアのカフェテリアで食事を済ませた。
雷神のパイロット達が心優を見つけてくれ、鈴木少佐もいたので、賑やかな男達の食事の輪に入れてもらえ楽しく過ごしてきた。
艦長室に戻ったが、御園准将と橘大佐が、是枝シェフのフルコースのようなご馳走をまだ楽しんでいた。
もうデザートも終えて、お互いに紅茶と珈琲を楽しんでいたが、心優がでかけた時と話し合っている雰囲気が異なる。
もう艦長と副艦長の顔で、なにか真剣に話し合っている。心優はその空気を見定めて、艦長室には入らず、そのまま指令室へとお邪魔する。
雅臣はまだ、管制室で監視を続けている。
「大佐。お食事は済みましたか」
「あ、うん。是枝さんがつまめるものを持ってきてくれたよ。艦長達の食事が終わったら、俺も夕食に行こうとは思っているけど……」
雅臣も二人の長い夕食に少し待ちくたびれているようだった。
「わたしも入りづらくて、まだ戻れません」
「そうか。でも、いまからだもんな」
「警備のことですか……?」
雅臣が無言でうなずいた。
「なにか持ってきましょうか」
「いいよ。いまは。今日はどこで食事をしてきたんだ」
「メインホール以外のカフェを体験したくて、パイロットのカフェテリアに行って来ました」
「へえ。懐かしいな。俺も一緒に行きたかったなあ。俺があそこで、いちパイロットとしてガツガツ食っていたのが数年前でも遠い昔に思えるよ」
もう現役パイロットを思い出してしまう様々なことも、雅臣にとっては過去として受け入れられているようで心優も安心する。
「これからの大佐は、キャプテンですものね」
「うん。俺も、感じた。ここに立っている時、コックピットと同じものを感じた。ミセスが事故後の俺にいってくれた言葉。今日、すごく良く判った」
「そうでしたか。新しい世界ですね――」
『うん』とうなずいた雅臣の顔が、急に可愛いお猿の愛嬌を醸し出したので、心優も微笑み返してしまう。
「それにしても、いつもは葉月さんのほうが橘大佐を警戒しているのに。今日は親密ですね。ちょっと気にした方がいいでしょうか」
護衛官として奥様としての艦長も護らねばならないのか、信頼はしているがそれでも橘大佐も男性、安心せずに慎重な護衛をするべきか心優は迷っていた。
「ああ、大丈夫だよ。今までなら橘大佐が熱くなっている時は、葉月さんから警戒して近づかないようにしていたみたいだからさ」
「そうなんですか。でも……。今日はいつも以上に親密なご様子なので」
「わかんないけど、もしかするとあれぐらいの年齢になると、男と女を越えたら『親友』みたいになるんじゃないか」
――『親友』!? 思わぬ表現だった。
「男性と女性って友情は成立しないってよく聞きます。経験が少ないわたしには、それが本当かどうかわかりませんけれど。でも……。もしそれが出来るなら、本当の親友ですね」
「今日の撮影で、フライトで。あのお二人は本当の意味での『信頼関係』を仕上げたんだと思った。大丈夫だよ」
「なんか、いいですね……。戦友みたいな親友だなんて」
四十を超えた男女が最後に得る尊い関係なんて、心優には到底届かない世界。
「でもさ。独身の俺達が『もし、恋をしたなら』、男と女で絡まりあっていけばいいんだよ。あの人達のような達観した男女関係は、そのまた向こうの話な」
「絡まりあって……て」
またお猿が急激に色めいたことを言いだしたと心優は眉をひそめる。しかも一般論のような言い方をしていたが、心優に向けて『俺とおまえは、これから男と女で絡まりあっていけばいいんだ』と心優に投げかけて楽しんでいるのもわかってしまう。
「あー、こうして仕事ばっかしていると、艦を降りたら女を抱きたくて抱きたくて仕方がなくなるんだよなー。俺、若い時は空母を降りたら、先輩達とナンパばっかしてたし……」
ナンパばっかしていた――と?
若い時の話でも、それは心優を目の前に言って良いことなのかと、再び眉をひそめてしまう。
だからなのか。雅臣がはっと我に返った。
「えーっと。だから、そのー。若い時、園田がまだ小学生か中学生ぐらいで、俺がめちゃくちゃ若い時。今より更に猿……」
と自分でそこまで言って、また雅臣が周りを気にするようにすぐさま口を閉ざし、慌てる姿。心優が大人には届かない子供の時の話だから見逃してとでも言いたそうだが、見逃さない。
「いまよりお猿――だったんですね。大佐」
『それ言うな』と、流石の雅臣も他の官制員達に聞こえないかと小声になった。
もうそうして慌てる次期艦長がおかしくなって、心優は許してしまう。が、ちょっとだけお返し。
「はあ。わたしも艦を降りたら、恋でもしたいです。他のカフェに行けば、出会いもあるかと思って……」
雅臣のやり方を逆手にとって、心優も『一般論的』にお返しをしてみた。
「へ、へえ~。園田なら、付き合って欲しいって男、今はいっぱいいるだろうなあー」
お猿の頬がちょっと引きつったのを見てしまう。
「大佐みたいに、たくさんの異性とお付き合いした方が、勉強になりそうですしねえ」
とうとう雅臣が黙ってしまう。ものすごく不機嫌な顔になってしまった。
「なんか最近、生意気だな」
「そうですか? ボサ子のままですよ」
「駄目だからな。絶対に駄目だからな」
拗ねた顔が大佐ではなくて、またお猿になっていた。
「艦を降りたら……、一緒になるんだからな……」
心優にしか聞こえない小声で雅臣が呟いた。管制室の大事な場所で指揮をしている大佐殿が、心優の前ではお猿になってそう言ってくれる。
「はい……、大佐……。ごめんなさい」
「俺もふざけすぎた。ごめんな」
雅臣の大きな手が、心優の頭をポンポンと撫でてくれる。
そこはもう官制員がいても、自然になってしまっていた。
艦を降りたら、一緒になる――。
その言葉だけで、心優の胸は熱く焦がれて、切なさで泣きたくなる。
愛してる、大佐殿。私のお猿さん……。
―◆・◆・◆・◆・◆―
翌朝、艦長室に指令室のメンバーと、警備隊隊長が呼ばれて集まった。
今朝の艦長デスクには、御園准将の側に、橘大佐も控えていた。
「おはようございます。昨日は広報撮影、お疲れ様でした」
昨日の労いをすると、御園艦長が橘大佐と顔を見合わせて、厳しい表情で頷きあう。
「広報撮影を終えたらと、橘副艦長と決めていたことがあります」
昨夜、二人だけで『ラストフライト』のお祝いの夕食をしていたはずなのに、やはり長い食事時間は『今後について』を話していたようだった。
そして艦長が、唐突に告げる。
「本日より、警備隊と護衛官には『警棒』の所持を命じます。さらに、警備隊の一部には『拳銃』の携帯も許可します」
指令室の幹部と警備隊長が一気に緊張感を露わにした。
「さらに、明後日より、空母電波の遮断を決行します。一般隊員には極秘で実行。ここにいる者だけに周知になります。口外はしないように。その際に、航路の変更をするので、関係者をミーティング室に本日の十四時までに招集するようにしてください」
――イエス、マム。
空母の電波を遮断して航行をするのは、業務上よくあることだった。そうして、空母の位置を不規則なものにして外周へ情報を把握させずハッキングなどの防御も兼ねており、航海を守る業務のひとつだった。
電波が遮断されると、外との連絡が取りづらくなる。外部からの攻撃を守るメリットもあるが、隊員達は家族への電話も出来なくなるし、メールも送れなくなる、届かなくもなる。それを艦長の一存でやられるので、隊員もびっくりする。しかしそれも事前に承諾されていることで、隊員達はそれも仕事の内と承知している。
一般隊員にも知らせないのは、情報を漏らされないか、或いは既にスパイがいないか、万が一の防御策でもある。
「警備隊長、かねてより、許可をしている隊員数名に拳銃の所持を指示してください。そして、それは極秘で、周囲に悟られないようにお願いします」
「了解です。艦長」
幹部達は驚きながらも落ち着いてた。それは空母が航行する中ではたまにある指示でもあって、でも、それがいつ発令されるかわからない。しかし、その指示が出たならば、そこからこの空母は『機密の箱』となって動くことになる。
幹部達が解散をすると、ミセス准将はいつもの冷たい顔になって心優に言う。
「心優、アドルフのところに行って、警棒をもらってきなさい。貴女はまだ拳銃を携帯しなくても大丈夫よ」
「はい、艦長」
久しぶりの警棒。三段ロッドを腰に付けることになる。
雅臣が言っていたとおりになった。これからは警戒区域。これからは本当に艦長の護衛として集中しなくてはならない。
でも。腰にロッドをつけた心優を見た雅臣が、ちょっと心配そうな顔をしたのが意外だった。
「ほんとうに、そういう姿になっちゃうんだな」
雅臣が側に来た時に、そう話しかけてきた。
「小笠原ですごく訓練をしたんですよ。艦長を絶対に守ると、父とも約束しています」
「そ、そっか……」
「そんな顔……しないで。これがわたしの仕事ですから」
「そうだな」
「わたしが本当は強いって、知っています?」
心優は安心してもらうためにここで自信を持って、笑って見せた。
「知ってるよ。俺を簡単に投げたもんな。塚田もだよ」
懐かしいことをお互いに思い出して、やっと一緒に微笑んだ。
でも。フロリダから来た『若き海兵王子』にめちゃくちゃ鍛えられた。それを言いたいけれど、雅臣にはシドのことが言えない。
「そうだな。あるわけ、ないよな。ないようにしなくちゃな」
でも警戒はしなくてはならない。だから、このスタイルをしているだけ。雅臣はそう飲み込んでくれた。
「電波を遮断するって言っていただろう。他の隊員達には知らせないで実行する指令部しか知らない極秘の業務だけど、その前に親父さんにメールをしておけよ」
「わかりました。そういたします」
「俺も母ちゃんにメールしておかないといけないな。久しぶりの航海ですごく心配していたんだよ」
初めて雅臣が家族のことを話したので、心優は密かに驚く。
でも彼の母親が事故に遭って以降、どれだけ心配していたかを心優も思う。本当はパイロットだった時から心配だったかもしれない。
そんな雅臣が、心優の耳元に密かに囁いた。
『母親にも紹介したいから、考えておいてくれ』――と。
彼の本気。それを日に日に感じている。でも、まだなんとなく実感が湧かない。心優の腰にあるロッドが重く感じる。まだそこで喜ぶことが出来ない。
心優は久しぶりに握りしめる。この艦に乗ってから首に下げている銀色のID認識票、ドッグタグ。
お父さん、絶対に帰るからね。
雅臣もきっと母を思うから、心優の父のことも思ってくれたのだろう。
心優も帰ったら、父に紹介……? お猿さんとデカい親父さんが対面? いまはちょっと想像できない!
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