54.夢で逢いましょう
「英太。話があるから、艦長室まで来て」
ミーティングが終わると、御園准将も席を立ち、鈴木少佐を伴って艦長室へ戻っていく。
心優もその後をついていった。
艦長室へ戻ると、准将は気が抜けたのか、疲れ切った様子で艦長の椅子に座った。
「葉月さん。大丈夫かよ。また眠っていないんだろ。何日目だよ……」
それでも御園准将は、弟分の彼にはそっと微笑みを見せる。
「私が貴方と橘さんを競演させようとした訳なんだけれど。ついに、橘さんが引退する決意をしたの」
「マジで」
鈴木少佐も信じられないと黙り込んでしまう。
「快く、送り出して欲しいの」
「もちろんっすよ。……でも、無理だと思うんだよな。いまの俺と橘大佐がシンクロしたように飛ぶだなんて」
「どうかしらね。そう思っていて、痛い目に遭わないように」
そんな余裕でいると、かえってやり返されるわよ――と言われ、鈴木少佐がムスッとした顔になった。
「あの『トレース』するって言い方が気になるのよね。おそらく、英太が言うとおりに『体力、持久力、耐久性』には自信がないと思うの」
「どういうこと、それって」
相手のおじさんは、英太の予想通りに体力がないことは認めているとわかると、鈴木少佐の態度が軟化した。
「英太の飛び方を見極めて、一発勝負でトレースしようと思っているんじゃないかしら。私も、もし橘さんと同じ立場だったらそうすると思う」
「い、一発勝負!? つまり、撮影の本番のみ俺と飛ぶってこと?」
『そうよ』と御園艦長が頷いたので、側で黙って聞いていた心優も驚いてしまう。
それってつまり、鈴木少佐との『リハーサル』はナシで、本番で同じ飛行をしようと考えているってこと? そんなこと出来るの? 心優もそれは無理のように思える。
だが御園艦長は真剣だった。
「英太とリハーサルするたびに体力は消耗するし、下手すると気絶して事故にもなりかねない。だから、貴方の飛び方を見極めて、それをコピーする。橘さんなら出来るわよ。彼がどれだけの後輩と部下に、スワローが得意な演目を指導してきたと思っているの。誰よりも多くアクロバットをこなしてきたのよ。いま、彼に足りなくなったのは、若さと体力。それだけ。英太、貴方は他のものではどれも橘さんには勝らない」
そこまで言われ、ついに鈴木少佐ががっくりと項垂れる。
「わかってるよ。俺の隊長だったんだから」
御園准将も弟分の気持ちに同調するように、深い息をついた。
「だからこそ、手加減しないこと。英太、貴方、橘さんにスワロー部隊を追い出されたでしょう。ここでしっかりと仕返ししてやりなさい」
今度は鈴木少佐も『はあ?』と目を丸くする。
「敵わなかった隊長に勝ってこそ、卒業というものじゃない。しかも、協調性のない悪ガキできかん坊だった貴方の素質を育て上げれなかった口惜しさをもって、橘大佐は貴方の前途を思って手放してくれたのよ。隊長の目に狂いはなかった。俺は最高のパイロットになった――。それを知らせることが出来て、初めて恩返しになるでしょう。シンクロのために手加減されるだなんて、それなら俺は現役エースの最大Gに敵わず気絶して墜落した方がマシだと橘さんなら怒るわよ。英太の飛行でシンクロが出来なかったなら、橘さんから今回の撮影を辞退すると思う。それならそれで私は良いと思っているし、それも彼への餞だと思っている」
『餞』はなにも記念撮影を成功させることではない。心優は艦長の想いを初めて知った。それは彼女にも雅臣にもきっと通じること。それは『コックピットと綺麗に別れる』、『未練を残さない』こと。だから徹底的に『いまの全力でやらせること』。
それは鈴木少佐にも通じたようだった。
「わかった。それなら遠慮なく俺のいまの力で飛んでみせる。そして、隊長ならきっと出来ると信じる」
御園艦長が、鈴木少佐には優しくにっこりと微笑む。
「そうね、英太。私も信じている。きっと、青空に二本の綺麗なループとコイル雲が出来るって」
「やってみせますよ。艦長。そして、葉月さんに絶対に見せてやるからな」
悪ガキが変な対抗心で熱くならないよう、ミセス准将が上手くクールダウンさせた手際に心優は唸る。
艦長も、聞き分けのよい悪ガキエースを確かめて、ホッとしたようだった。
「頼んだわよ、英太……、楽しみにしているから……」
ひと安心したせいか、力無く俯くとそのまま顔を上げなくなってしまう。
「葉月さん……?」
心配そうな鈴木少佐の声に気がつき、心優も御園艦長の側へ赴く。
「艦長、御園准将、大丈夫ですか」
俯いたままの彼女の顔を覗き込むと、もう今にも気を失いそうと言いたくなるほどの目つきで、そして顔色だった。でも、彼女の意識ははっきりしていて『大丈夫』と案ずる心優を制した。
「英太、ごめんね。ランチはまた……明日……」
「いいよ、またいつだって。眠いんだろ、いま眠っておいたほうがいいよ」
「……英太、少しの間でいいから、話し相手になってくれる? 側にいてくれる?」
いつになく弱々しい声に、心優は当惑する。いつものミセス准将ではなかった。でも、鈴木少佐は当たり前のようにして慌てていない。
「もちろんだよ。俺が側にいてやるよ」
そういうと、鈴木少佐は本当にお姉さんを労る弟のようにして、皮椅子に座る御園准将の側へと跪いてそっと彼女の顔を見つめている。
「眠ると、あいつが笑うの。おまえが艦に乗っていたせいで、非常事態が起きて、大惨事になるって……」
その言葉を聞いて、心優は青ざめる。准将がいうところの【あいつ】が誰か判ってしまったから。それはきっと、彼女を殺そうとした『幽霊』と呼ばれていた男、傭兵のこと。
「そんなの幻想だ。葉月さんと何度も空母に乗ったけれど、なにもなかった。むしろ葉月さんは完璧だ。だから海東司令が葉月さんを一番に使うだろう。俺も、雷神の兄貴達も葉月さんだから飛んでいけるんだ、帰ってこようと思って飛んでいる」
肘掛けに力無く乗っている手のひらを、鈴木少佐が臆面もなく握りしめた。
「眠った途端に、あいつが空母を襲う気がして」
「もしあいつが本当に襲ってきても、葉月さんが眠っていても、俺達がいるだろ。橘大佐もいる、ラングラー中佐もいる。葉月さんとずっと一緒だったクリストファー兄さんもいるじゃないか。それに俺も、城戸先輩も帰ってきたじゃないか。ほら、葉月さんがいて欲しいと願っていた園田さんだって今回はいる」
知らなかった――。艦長が眠らないのは、空母が正常に運航されたことを確かめるまで敏感になってしまうからだと思っていた。それもあるだろうけれど、奥深いところではもっと深刻なこと。
あいつが襲ってくる。あいつが、おまえがいたせいで空母に大惨事が起きる。そう暗示をかけられてしまっていたから?
心優も意を決して、御園の家族しか触れなかったところへと踏む込む。
「艦長。鈴木少佐と少しだけお部屋ですごされたらどうですか。お二人に飲み物を、是枝シェフに頼んで参りますから。小笠原のように、お姉さんと英太さんでお話ししてきてください」
心優もそっと艦長の手を握った。
「わかった……、そうする」
これで眠ってくれるかも。心優も必死だった。鈴木少佐と頷きあい、皮椅子から立ち上がった御園艦長は鈴木少佐に預けることにした。
「葉月さん。俺、子供達から、預かりものをしているんだ。准将ママが眠れなくなったら、渡してくれって――。あいつらも心配しているからさ。もっとリラックスして。あとで持ってくるから」
「そうだったの? 楽しみ」
ベッドルームに向かう二人を見ていると、ほんとうに『姉弟』だと心優は思った。鈴木少佐がミセス准将に叶わない恋をしていたのは、もう遠い日になったのだろう。
艦長専用のベッドルームは、ホテルの一室のように広くて綺麗に整えられている。
鈴木少佐も悪ガキではあっても本質は大人。艦長室で二人きりになるからと、ドアを開け放している。心優はそれもきちんと確かめ、あれこれと手配をする。
まずは冷たいミネラルウォーターを持っていき、是枝シェフに内線連絡をして『眠りそうなんです。もっとリラックスできる飲み物をお願いします』と頼んだ。
あとは艦長室に入ってきた幹部がきたら、静かにお引き取りしていただくこと。そう思って、心優はドアの側に椅子を置いてそこで待機する。
ドアからノックの音。さっそく誰かがやってきて心優は構える。
「艦長、いるか」
橘大佐だった。
心優は小さな声でそっと告げる。『いま鈴木少佐が付き添っていて、もうすぐ眠ってくれそうです』と。すると橘大佐も驚いて『わかった』と静かにドアを閉め出て行ってくれた。
暫くすると、ノックの音なしでドアが開く。
「お待たせいたしました。艦長と鈴木少佐の飲み物です」
是枝シェフが訪ねてくる。
「私はここで失礼いたします。園田さん、こちらをお願いしてもよろしいですか」
「はい。預からせて頂きます」
シェフからトレイを受け取る。心優は深呼吸をして、あそこで『小笠原の空間』を作ろうとしている空気を壊さないようにと、静かにベッドルームへと向かう。
開け放たれているドアを覗くと、鈴木少佐と目が合う。
御園准将がやっとベッドに横たわって、そして鈴木少佐をとろんとした眼差しで見つめていた。彼も心優を見たのは一瞬で、ベッドの側に座った状態で准将を見守っている。
「杏奈が、ママに渡す前に良い曲かどうか俺に聴いて欲しいと言うんで、先に聴かせてもらった。杏奈がママのために作ってくれた新曲。すごくよかったんだ」
音楽留学をしているチェロ奏者の娘が作った曲があるということらしい。
それを眠らないママのために作ったという子供達の心配。母親ならきっと嬉しいに決まっていると心優はその効果を期待する。
「そう……。早く聴きたい」
「コーヒーを一杯飲んだら取りに行ってくるな」
心優も声をかけず、気配を殺して、そっと艦長室のテーブルにホットミルクとホットコーヒーを置いて、静かに部屋を出る。
このまま、このまま、眠ってくれますように――。
家族の温かみをそばに眠れますように――。
一時間じゃない、二時間じゃない。半日でいいからぐっすり眠らせてあげてください。
悪魔を追い払ってください。
ひとり待機する艦長デスクの部屋で、心優は祈った。
―◆・◆・◆・◆・◆―
一時間ほどして、鈴木少佐がベッドルームから出てきた。
艦長室の出入り口で、人の出入りに気遣ってきた心優のところまで来てくれる。
「俺と少し話して暫くしたら眠ったよ。また目を覚ますかもしれないから暫く側にいたけれど、ぐっすり寝付いたみたいだから大丈夫だと思う」
「そうでしたか」
心優はほっと胸を撫で下ろす。
「子供達から預かってきたものを取りに行ってくるから、あとはよろしく」
「わかりました。少佐、ありがとうござました」
「いや、いつものことだから大丈夫。俺、隼人さんにも頼まれてんの。おまえ、葉月が警戒していない男のひとりで、この家の一員なんだから、いざというときは准将ママの側にいてやれって」
あの旦那さんが、妻に思慕を抱いていた青年にそこまで任せていたことを知り、心優は驚く。しかし、そこはもう『家族同然』なのだろう。
「子供達とも約束しているんだ。ママが、母さんが苦しそうな時は、英太がいちばん側にいるんだから助けてあげてって。俺もパイロットとしてやらなくてはいけないことがあるから、園田さんのように常に側にはいられない。だからこそ、」
パイロットとなると自信たっぷりふてぶてしいばかりの悪ガキエースが、心優に深々と頭を下げている。
「うちの姉貴のこと、よろしくお願いします」
「そ、そんな。やめてください。まだ新参者です」
だが鈴木少佐は真剣だった。
「そんなことないよ。俺のほうが、園田さんのことよく知っているんだから。隼人さんが、園田さんをスカウトしにいったと聞いた時は『よくやってくれた』と思ったほどだよ。葉月さんも以前から、園田さんのことは気に入っていたみたいだし。ただ隼人さんが興味はないというか、横須賀の人間だからって割り切っていただけで。隼人さんが動いたなら、絶対に小笠原に引き抜いてくれるって信じていた。俺も園田さんが来てくれて、ほんと嬉しかったんだ」
鈴木少佐は、未だに少年のようなところを残している。大人としての彼もいるけれど、御園准将が弟のように可愛がってしまうのは、こんな真っ直ぐでピュアな部分を残しているからなのだろう。
「こちらこそ。鈴木少佐が小笠原にいてくださったおかげで、すぐに馴染むことができました」
「うん。帰ったらまたダイナーで大食いしよう」
「そうですね!」
大食いしように、心優はつい笑ってしまった。
「じゃあ、取りに行ってくる」
「はい、いってらっしゃいませ」
鈴木少佐が出て行った後、心優の胸が少しだけ切なく疼いた。
「シド、どうしているのかな」
フロリダで過酷な訓練研修を受けていると聞いている。春になったら帰って来るとも。
もう、小笠原に帰ってきたのだろうか。今度、彼にあったら言わなくてはならない。
ケジメをつけなくてはいけなかった彼との思いが通じたと……。
―◆・◆・◆・◆・◆―
ついに御園准将が、翌朝までぐっすり眠ってくれた!
「おはよう……、寝過ぎた。頭が痛い……」
いつもスッとしたクールな佇まいでいるのに、その日、心優が待機していたデスクまでやってきた彼女はもっさりと乱れた姿で現れた。
「変な夢みちゃった」
心優はドッキリする。まさか、ミセス准将殿が恐れている『幽霊の夢』!?
「旦那が、私がまだ朝ご飯を食べているのに、腕時計を見せて『遅刻だ、やばい。葉月、急げ!』て急かすんだけれど、基地の准将室に行ったら、一時間早いの。『やられた』と思って怒ったら、あの人、眼鏡の顔でケラケラ笑っているの。すんごい腹立ったと思ったら、目が覚めて――」
え、旦那さんに意地悪された夢? 心優は呆気にとられる。でもでも、それって!
「意地悪な眼鏡のお兄さんに、お会いできたようですね」
あのミセス准将がちょっとムッとした顔になったので、心優は生意気だったかと焦る。だがムッとしたのは心優ではなく、夢の中の旦那様のよう。
「実は、あの人とマルセイユの航空部隊で出会って、一緒に仕事を始めた頃に、こういう悪戯を本当にされたことがあってね」
本当にあった話だったようだ。でも、彼女が『あの頃のあの人に会いたい』と思っていたからこそ、その夢を見られたのだと思う。
きっと、それは彼女には大切な想い出のひとつなのだと心優はちょっと感動……。いいな、奥様になっても『あの頃のあの人に会いたい』と思ったら会えるっていいな――と羨ましくもある。
「もうすぐ始業時間だけれど、シャワー浴びてくるわね。指令室の彼等にもそう伝えて」
「かしこまりました。ごゆっくり」
「心優。眠るまで、労ってくれてありがとう」
「いいえ。艦長がどれほどのお気持ちで、この空母を護ってくださっているのか良くわかりました。ですが、くつろいできてくださいませ」
ミセス艦長はやっと穏やかな笑みを見せてくれ、バスルームへと消えていった。
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