52.海燕の男たち

 流氷が沿岸から見て五割になると、船が航行できる『海明け』となる。


 その情報を得て、空母が少しだけの北上をはじめる。オホーツクを抜けるまで、この流氷が去っていくペースに合わせていくようになる。


「撮影は、日本海にはいってから、天気予報を参考に天候良い日を予測して、佐渡島の海域に行くまでの間を目安に撮影……と」


 雅臣が航海図と睨めっこしながら、書類を作りはじめていた。


「園田。これのコピーを頼む。あとプロジェクターで映像を見てもらえるようにセッティングを頼む」

「かしこまりました、城戸大佐」

 艦長室の心優のデスクが、雅臣の仕事場になっていた。……というのも、極秘なので、橘大佐も詰めている指令室では知られてしまうので、雅臣はこの件に関しては、艦長室で仕上げなくてはならない状態。


 雅臣が艦長室に籠もるのは、朝方や夜更けが多かった。心優も生活のリズムを狂わせない程度に、大佐殿の手伝いをする。


 雅臣が艦長室に籠もることもあるので、さすがに指令室にいるラングラー中佐も不審に思ったようだった。だが、そこは長年の側近としての勘なのか。

「艦長、今度はなにを思いつかれたのですか。城戸大佐を独占するのもほどほどに」

 たが御園准将はニンマリと側近に笑う。

「橘さんの引退飛行を、広報の撮影で残そうと思っているの。内緒よ、テッド。雅臣には、ファイルの整理をさせていると橘さんには告げておいて。艦長修行の一環ってね」

「そういうことでしたか。では、明日のミーティングで、そのお知らせをされるつもりなのですね」

「そうよ。橘さんを引きずり込もうと思うから、黙っていてね」

「勿論です。協力いたしますよ」

 ラングラー中佐も『そういうことならば』と、艦長と一緒にニンマリと微笑んでいる。


「お茶でも差し上げましょうか」

「ありがとう、テッド。ちょうど欲しかったところ」

 夕食時間が終わり、夜勤以外の隊員達は業務を終えたら就寝につく頃だった。


 指令室でも業務を終えた者から、側にある部屋へと男達が少しずつ消えていく。

 だが艦長室では、御園准将は相変わらずのやつれた目元でも資料動画を見入っていて、これぞというアクロバット飛行のシーンをカットしてはプリントアウトしたり、雅臣が使っているマシンにファイルを転送したりして参考にするように手渡す。


 雅臣はそれを確かめて、プログラムを組んでいる、書面でも、ファイル上でも、ミーティングの時に幹部が『魅入るようなもの』にしようと努めている。

 心優は二人のアシスタントに徹した。准将も雅臣も、同じ部屋にいるのにまったく関わらない様子で自身の仕事に没頭している。ものすごい集中力だった。ミーティングが明日に迫っているというのもあるが、それにしても、准将が提案すれば、雅臣がそれにすんなり応える。静かな企画作業が淡々と進められている。


「艦長、ここはこのようにされると『かっけぇぇ!』になると思うのですが」

 真面目な顔で『かっけぇぇ!』を混ぜ込んだ雅臣を見て、御園准将がきょとんとした顔。

「それ、うちの息子と海野の息子がよく言う」

「でしょ。これ、見てください。動画投稿サイトで広報がアップした広報映像に寄せられたコメントです」


 プリントアウトした一枚を雅臣が差し出す。


「雷神とマリンスワローの展示飛行のカットを並べた小笠原基地と横須賀基地の広報映像に対してです」

 艦長の側にいた心優も、雅臣が准将に渡したプリントを眺める。確かに『スゲー』『かっけぇぇ』の文字が乱舞していた。

 飛行マニアにいかに盛り上げてもらえるか。応援してもらえるか。それをお二人がいま模索している。しかも引退をするパイロットと、その教え子だった現エースパイロットの競演。さらに基地上空ではなく、空母での撮影。この企画のために、小笠原から心優の広報撮影をしてくれた駒沢少佐も乗船してきている。


「ふーん、こんなふうに言ってくれているんだ……。知らなかった」

 御園艦長が民間からの声を知って、いつにない穏やかな微笑みをみせた。

「ゆっくり見る間がないのよね。広報や、中佐や少佐から『こんな評判だった』という報告で済ませていたんだけれど。駄目ね。直接の声って、いいわね」

「艦長のことにも触れていますよ」

 雅臣が気を利かせて赤線を引いてるところを指さした。そこには『雷神の総指揮官は、小笠原の空部隊大隊長。元パイロットの女性、准将』ともあった。


 そういうことは、一般的にも知れてしまうもの。だからミセス准将には、プライベートでも護衛が必要なのだと心優は痛感する。


「彼等にまた『かっけぇぇ!』と絶賛してもらいたいわね」

「勿論です。もうプログラムは頭に描ききっています。作業もあと二時間ほどで終わります。お待ち頂けますか」

「どうせ起きているもの。出来上がるまで待っているわよ」

 雅臣も『イエス、マム』と応えて、元の仕事に集中してしまう。心優も雅臣のそばについて、懸命に手伝った。


「艦長。ロイヤルミルクティーをお持ちいたしました」

 ラングラー中佐が就寝で部屋に籠もる前に、艦長にいつもの一杯を置いていく。

「では、先に休ませて頂きます。おやすみなさいませ、御園准将」

「おやすみなさい、テッド。いつも有り難う」

 極上の一杯を手にとって、そこでも御園准将がほっとした顔をみせてくれる。

「テッドがミルクティーを煎れてくれるようになって、もう十七年かな……。夫より、彼が煎れてくれた一杯を誰よりもたくさんご馳走になったわね」

 ふと、いつにないそんな言葉を彼女が呟いた。心優と雅臣はつい、顔を見合わせる。


「はあ……。橘さんと懐かしい話をいっぱいしたせいか、いろいろと思い出しちゃう。だめね、歳だわ……」

 どんな時でもクールなミセス准将という構えもベールも取り払わない彼女が、今夜は本当に自分の自宅にいるかのように砕けた話し方になっている。


 それだけ、心優と雅臣のことも、自宅にいる家族のように感じてくれるようになったと言うことなのだろうか。

 心優はまだ慣れていなくて戸惑っているばかりだったが、こんな時は、どんな対応も慣れている雅臣が艦長へと微笑んだ。


「たくさんの想い出があることでしょうね。でも、俺達は、艦長や橘隊長、そしてラングラー中佐が前を行く背を見せてくれたから、こうして追いかけてこられたんですよ」

「そういえば、雅臣も横須賀で初めて見た時は、まだまだ怒鳴られてばっかりの初々しい新人パイロットだったわね。いがぐり坊主のくりくり頭の高校生ってかんじだったもの」

「え、いつの俺のことですか、それ! やめてくださいよ」

 御園准将が珍しく軽やかな笑い声をたてたり、雅臣が年上の女性にはまったく敵わない様子を見て、心優もつい笑ってしまっていた。


「そうおっしゃるのならば、俺だって艦長を初めて見た時のことを覚えていますよ」

「え、それっていつなの? 雅臣が本格的にホーネットに乗り始めた頃は、私はもう引退状態だったはずだけれど」

 今度は御園准将がちょっと焦った顔。雅臣も逆に彼女をからかうのかと思ったら、感慨深そうに視線を遠くに馳せ、でも懐かしそうに微笑んでいる。


「俺が横須賀で新人配属研修で小笠原の空母に行った時でしたね。そこで艦長が所属されていたビーストームが訓練している時でした」

 御園准将も『ああ……』と思い出したようだった。

「毎年来るから、いつのどこの新人研修に雅臣がいたのかはわからないけれど、新人の空母見学はよく見かけたわね」

「その時です。空母での訓練については、横須賀よりも国際化が進んでいた小笠原の方が配備が先でした。女性パイロットがいることは、もう既に俺達の間でも噂でしたから、小笠原の甲板で本当に貴女がいたのを見た時には、俺達すごいざわめいたもんです」


 艦長もうっすらと微笑むだけで、なにか思うところがあるのか黙っているだけになってしまう。


「明らかに、周りの男とは違う空気をまとっていて。その人が着艦したばかりのホーネットから降りてきて、それがとても細身の華奢な女性だとわかった時の驚き、いまでも覚えています。あとで教官が教えてくれました。彼女はエース級の過酷な操縦は身体的には無理だけれど、できないことはできないことで割り切って、できる操縦で全てをカバーしていると。つまり、力任せに操縦する男よりも技能がある。それを考えて訓練をしてきたから、飛べている――のだと」


 さらに雅臣は、続ける。


「そんな女性が、甲板に降りてきて、その綺麗な栗毛とか女性らしい顔が見えた時、風の匂いが変わったように思えました。俺達、既に大人の女性だった貴女を見て、すげえ……と静かになったのも覚えています」


 若い女性パイロット。きっとその頃から麗しい優雅さを漂わせていたのだろう。男ばかりの甲板に、いまのように雰囲気あるクールな面差しの、でもふんわりとした女性がそこに現れたなら、誰だって視線を奪われたに違いない。心優にも覚えがある。彼女の准将室に初めて入った時、風の匂いが違った。彼女が放つ、花と海の匂い。そんな彼女のパイロット姿、心優も見てみたかったと思う。


「わたしも、そんな艦長にお会いしたかったです」

「でも。その時の私は、人を傷つけるような女だったから……。同世代であなた達に出会っても、嫌われていたかも……」

 見間違いかと目をこすりたくなるほどに、ミセス准将が自信のなさそうな女の子に見えてしまい、心優は驚いてしまう。それは雅臣も? また心優と雅臣の視線が重なる。


 だが、今度は心優から。同じ女性として――。

「艦長だけではないと思います。わたしも……、傷つけるようなことをしたことがあります」

 心優だけではなかった。

「俺もです。艦長。艦長に酷いことを言い放ったことも含めて……。誰もがそうして人の大切さを知るのだと思います。俺は、そんな艦長が待っていてくれたから立ち直れたんですよ」

「うー……」

 いきなり艦長が目元を覆って、デスクの上で項垂れてしまう。


「うー……、駄目じゃない、おばさんを泣かせないでよ。涙腺崩壊する」

 え、艦長が泣いちゃった――。心優は唖然としそうになったが、横から眺めていると、その手のひらの下の目が悪戯っぽく笑っているのを見てしまう。

 そういうじゃじゃ馬嬢様らしい『おふざけ』。それに雅臣はとっくにそんな葉月さんであることはわかっているようで、俺は騙されませんよと笑っている。

「あはは。まず俺が期待に応えられてから、本当に泣いてくれたら嬉しいです」

「そこで、一緒に涙ぐんでくれたら可愛い男の子なのにねえ。英太ならころっと騙されるのに」

「ガキと一緒にしないでくださいよ」

 そこで艦長と雅臣が一緒に声を立てて笑っている。心優は元々はこんな二人だったのかなと感じた。こんな楽しそうにしている雅臣を見ると、本当にミセス准将を慕っていて、憧れだったのも仕方がないことかなと理解もできる。


 ひとしきりの談笑の後。また雅臣がじっと集中しはじめる。

 艦長室にあるコピー機で、サプライズで提示する企画書を人数分コピーしていると、雅臣が無言で心優を手招きしている。

 雅臣が指さした方を見ると、また御園准将が、今度は大きな皮椅子に背をぐったりと沈め、上を向いて眠っていた。こんなに無防備な姿勢を見せたのは初めてだった。


「どうする、心優」

 雅臣が息だけの声で心優の耳元に囁いた。

「ブランケット、持っていただろ。あれを」

 だが心優は無言で首を振る。囁くのではなく、雅臣の手元にあるメモ用紙に筆談で記す。

『ダメです。側に近づいただけで、気配を感じ取って目を覚まします。あのままの方がよろしいです。わたし達がいる上で眠られたので、気を許してくれたのでしょう。静かにそっとしておきましょう』

 さらに心優は付け加える。

『臣さんと楽しくお話しして、気持ちもほぐれたのでしょう。これからも、あのようにお話相手になってあげてください』

 それは御園艦長のすぐ側にいる護衛官としてのお願いだった。


 すると雅臣も秘書官時代から愛用している格好いいボールペンで、返事をくれる。

『承知いたしました。園田護衛官』

 心優の艦長に対する気持ちも雅臣には通じてくれていて、思わず嬉しくなって、彼ににっこりと微笑んでしまう。

『いまの顔、かわいいな。キスしたいけど……、我慢しておく』

 なんて、真面目な筆談の後にさらっと付け加えられていて、心優はギョッとしてしまった。


 でも雅臣はくすくすと笑って、そこだけ真っ黒に塗り潰してしまった。

 そして二人で静かにミセス艦長を見つめる。

 背もたれにぐったり身を任せてすやすやと眠っていた。それだけで心優は安堵する。

 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 雅臣の見積もり通りに、二時間もするとその企画書が出来上がった。

 御園艦長も、三十分ほどうとうとしただけで目を覚ましてしまい、今度は過去の艦長日誌を読み込みはじめていた。


「艦長。出来ました」

 ちょうど零時を過ぎた頃。雅臣が艦長デスクの前に立ち、御園艦長へとその企画書を差し出す。

「お疲れ様。いまから見させてもらうわ」

 早速、艦長がデスクの上に、雅臣が二日かけて作り上げた『展示飛行プログラム』のチェックをはじめる。


 艦長がピックアップした橘大佐の数々の飛行演技のカット。それを雅臣がいくつか選び、飛行軌道などの図形を並べたものを順を追って准将がチェックする。


 彼女の琥珀の目が、瞬きをやめてしまったかのような集中力。そして時々首を傾げたりして唸っている。その度に、待機している雅臣が緊張して顔を強ばらせている。


「ローアングルキューバンテイクオフに、タッククロス、そしてバーティカルクライムロール。マリンスワローの男なら得意技ばかりね」

 やっと、ミセス准将が微笑んだ。

「これを明日のミーティングで提案しましょう。私が事情を説明して幹部を説得するので、もしこれで決まったら、撮影のことは城戸大佐に一任します」

「ほんとうですか」

 緊張していた雅臣にも笑顔が広がった。


「あと、撮影日に合わせて各機体には、展示飛行用の白煙のスモーク装備をさせるように。特に英太の七号機をアクロバット用に装備させると、戦闘用ではなくなるからスクランブル発進はできなくなる。そのシフト調整も忘れずに」

「了解です」

「マリンスワローにいた男のことは、スワローの男に任せてよかった。私は燕ではなくて、スズメバチだったから。蜂はばーーと派手に音を立てて飛ぶけれど、燕は確かな軌道を描いて美麗に飛ぶ」

 そう呟いた御園准将を見つめていた心優はハッとする。それは雅臣も驚きで固まったままになる。


 今度は嘘ではない。琥珀の瞳が濡れたガラス玉にように見えたかと思うと、本当の涙が彼女の頬に伝っている。


「か、艦長。あの……」

「それがよくわかるプログラムになっている。スワローの男が得意とすること、こう見て欲しいというのが伝わってくるわよ。雅臣も、スワローのエースだったものね」


 空に戻れなくて、精神的に自分を追いつめていた男が、自分ではない他の男が空を飛ぶ栄光の手助けが出来るようになった。御園准将もこの企画書を作り上げた雅臣を確かめ、心より安堵した。そんな涙なのだと思うと、心優もちょっぴりもらい泣きをしてしまいそう……。


「ごめん、やっぱり歳かな。そう思って、許してね、雅臣」

「いえ。本当に俺も、心配かけたと思っています」

 少しだけ流してしまった涙を御園准将がハンカチで拭うと、いつものクールな横顔に瞬時に戻ってしまう。


「これで、橘さんが飛ぶのが楽しみよ」

「俺もです。隊長の飛行は、後輩、部下だった自分たちの目標で憧れでした」

「では、これで明日のミーティングまでの手配をお願いね」

「かしこまりました」


 そこで御園艦長がひと息。


「遅くなったけれど、あなた達も終わったら休みなさいよ」


 心優と雅臣は『はい』と揃って頷く。艦長はまた目を爛々とさせて、艦長日誌のデータに向きあうばかり……。ご自分は眠ろうとしなかった。


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