50.愛してる、大佐殿

 雅臣がドアを開けると、赤み帯びた水平線が丸窓から見えた。

 オホーツクは日本国内でも日の出の時間が早い。もう電灯をつけなくても、部屋はそれとなく明るかった。


「心優は、この展示飛行の資料をさがしてくれ。俺は、過去十年の艦長日誌データを探す」

「わかりました」

 もらったサンドは窓際の本棚に置いて、二人はファイル棚の種別プレートを見上げ、それぞれの棚へと向かう。


 艦長のご希望は、十年以上前の横須賀基地航空祭、展示飛行のものばかりだった。それをデータとして収めているディスクを探す。


 見つけた。でも、ものすごく高い位置にあった。背丈がある心優が手を伸ばしても届かないところ。どこかに脚立があるはずと心優は探し始める。

「どうした」

 逆に雅臣は低いところに見つけたようで、既に何枚かディスクを取り出していた。

「脚立はどこですか。手の届かないところにあって」

「わかった。俺が取ってやるよ」

 臣さんならきっと届く! と、先を行く雅臣の後を心優は嬉しくなってついていく。


「あそこなんです」

「あー、あれか。よし」

 背の高い人だから、手を伸ばしたら簡単に取れてしまう。

「お、隣のも艦長が欲しいとメモしている航空祭のものだな。ん、隣も?」

 探していたものが並んでいてごっそりと取ってくれる。

「ごめんなさい、臣さん」

 手分けして探すはずが、結局、心優が担当するはずだったものは雅臣が一度に見つけてしまった。

「いいよ。別に」

 心優の胸に、束ねたファイルを差し出してくれる。心優もそれを胸に抱いた。


「それ。俺がいたマリンスワロー部隊のものだ。ずいぶん前のものだな。橘隊長がエースだったころじゃないか」

「え、そうなんですか」

 でもそれを聞いて、心優ははっとする。昨夜の話……。橘大佐がコックピットを降りるという話を思い出してしまう。艦長はそれを思って、彼の最盛期の映像を見たくなったのだろうか。


「どうした。なにか気になることでも?」

 きっとまだ内密だろう。雅臣も知ったら驚くだろう。

「いえ、別に……」

 でも雅臣はため息をつきながらも、穏やかに微笑んでくれている。

「またか」

 言えないことがたくさん生じる。雅臣に話したくても話せないことばかりになっていく。

「あの、言えたらわたしだって、臣さんには教えたいですよ」

「秘書官らしくなったな。ボスの言葉は、軽々しく人に話したらいけない。心優はもう立派な秘書官だ」

 彼の指先が、心優の頬に触れる。ファイルを胸に抱いたまま、心優はそっと彼を見上げたのが、雅臣の眼差しが今度は切なく揺れているように見えてしまう。


「それに、大人っぽくなったな。綺麗になった」

 どうしたことか。雅臣が一歩、心優に迫ってきた。大きな身体の大佐殿とファイル棚との間に、心優は挟まれてしまう。

「お、臣さん」

 彼の男の指先が、心優の頬からくちびるに触れる。

「いい男、もういるのか」

 一瞬、心優は『シド』を思い浮かべてしまう……。すぐに否定しなかったせいか、雅臣が哀しそうな目をした。


「だよな。あれだけ華々しく昇進したら、どの男も放っておかなかっただろう」

 そうして、久しぶりだった彼の熱い指先が離れてしまう……。しかも、彼の肌の熱さが伝わりそうだったほどに近づいていた身体も離れていく。

「引き留めなかった俺も馬鹿だった。一度、別れたんだから、他の男に獲られても仕方がないと……覚悟してきた」

 他の男に獲られるかもと、案じてくれていた? 心優は驚いて、密かに目を見開いている。


「だが、引き留めていたら心優をここまでステップさせてもやれなかった。だから、これで良かったと……」

 雅臣が背を向けてしまう。

「良かったと……、諦めがつく……」

 突然。心優の足下に、ファイルディスクのケースがバラバラと音を立てて落ちていった。それは抱えていた心優自身が、手から離して落としてしまったから。


 その両手は、もう雅臣の身体に抱きついていた。


「イヤ、臣さん。諦めがつかなかったのは、わたし……なんだから! イヤ、臣さん。こっちを向いて!」

 もう二度と離さない。あなたが私を求めてくれていたのなら、わたしを愛して。わたしはずっと愛していたよ。夕日を見て思い出していた。心の隙間に入りそうになった人がいても、そこは臣さんしか入れなかった!


 そう叫んでいたのかどうかわからない。でも心優はもう泣いていた。

 彼が振り向いてくれる。あの大きなお猿さんの身体が心優にぶつかってくる。彼の胸に深く抱きしめられる。


「ほんとうか心優。ほんとうに誰のものでもないんだな」

 大きな手が心優の顔を探すようにして包みこみ、雅臣は心優の目を覗き込む。

 心優も力無く頷く。

「臣さんのことしか考えていなかったよ……。忘れられなかった……」

 そう告げると、心優のくちびるに熱いものが押しつけられた。

「心優、ミユ……」

 雅臣の熱い唇が、心優の口元を激しく何度も吸っていた。

「臣さん――」

 心優も深くくちびるを重ね、懐かしい男の舌先を求めた。

 朝焼けの水平線と、朝靄の海。その潮騒の中、二人は長く長くくちづけを繰り返す。



 好き、愛してる。大佐殿。もう離さないで。

 その熱い彼の唇に、心優は儚い吐息に混ぜて、そう呟いていた。

 接吻キスに夢中だった彼に伝わっているのか、聞こえていたのかは、もうわからない。

 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 お猿さんの獰猛な『取り戻す』という勢いに愛しぬかれ唇がまだ熱い。

 耳元や首元、頬にも。キスをされたところが、まだあちこちで疼いている。

 それでもまだお互いの顔と目を確かめるようにして、その余韻を噛みしめながらキスを繰り返した。


 その時、雅臣が大きな胸にすっぽりと心優を抱いたまま言った。

「心優。小笠原に帰ったら、一緒に暮らすか。俺の官舎の部屋で」

 宿舎を出てこい――と言われる。心優はびっくりして、でも、そこまで彼が心優のことを求めてくれたことが嬉しくて泣いてしまう。

「いいの、臣さん。ほんとうにいいの?」

「猿のような男と暮らせるか」

 心優はすぐに頷いていた。そして、雅臣の首に抱きついて、心優は彼の頬にキスをする。

「お猿な臣さんが好き」

 雅臣も嬉しそうに心優を抱きしめてくれた。

 雅臣が嬉しそうに微笑み、そっとキスで乱れ頬に貼りついた黒髪を、男の指先で直してくれる。

 この柔らかなひととき。彼のさりげない女性への気遣い。お猿のそんな優しさ。これからは、心優だけが知っていて、心優だけのもの。嬉しかった。


 その後は甘い余韻をすぐさま断ち切って、二人で残りの資料を集める。最後に艦長に頂いたサーモンサンドを日が昇る中、雅臣と一緒に微笑みながら食べた。


 ようやっと心優は、どうして御園大佐が突然に心優を欲しいとスカウトに来たのか、御園艦長が駐車場で倒れていたことから、告げることにした。


「あの日……。護衛部の帰りに、着替えを忘れて寄宿舎に寄ったんです。そうしたら、私服姿だったけれど彼女によく似た雰囲気の女性が、直行便ゲートから駐車場に行くのを見てしまったんです。彼女だとは確信できなかったけれど、駐車場のことは聴いたばかりだったので、胸騒ぎがして――」


 雅臣の顔が、驚愕の表情に変貌した。


「あの人、ほんとうに駐車場に行ったのか。心優が熱を出したと休んだ日のことか」

「その前日です。小雨の日で、気になってその人の後を追ったら……。おそらく現場だっただろう場所なのでしょう。一カ所だけ芝になっているところ……」

「そうだ。昔はそこに蘇鉄の木があったらしいが、それが影になっているせいで襲われやすかったと判断されて……。あと、けっこうな出血だったらしくて、血跡が酷かったことと横須賀の隊員がそこに駐車することを避けるようになったから、それならと緑地化させたんだ。でも見通しが悪くなる樹林は置かないとして」

「そこで……。痙攣を起こして、ひきつって倒れていたんです……。見つけたのが、事情をよく知っている部署にいたわたしでなければ、大騒ぎになっていたと思います」


 そこで雅臣が、スチールデスクの向かいでサンドを頬張っている心優へと身を乗り出してきた。

「どうして、上司だった俺に報告しなかった」

 それにも心優はきっぱり返答する。

「彼女の希望だったからです。室長ではない、大ボスの長沼准将に報告して欲しい。このことは旧友の彼しかしらないから、城戸君には知らせないでと――」


 血の気が失せたように、雅臣が茫然となった。


「そんなに俺は……、信用ならないと? 頼れないと……」

「見られたくなかったんだと思います。だって、臣さんと彼女にも、あなた達だけの入れない絆があったではないですか。ご自分がいちばんに認めたパイロット、期待をしているソニックには、こんな情けない姿は見られたくない。わたし、あの方のお側にいるようになって半年。今ならその気持ちが解ります。元より、彼女の症状のことはご存じの方も少数で極秘扱いですから……」


 口惜しそうに唇を噛んだ雅臣が、俯いた。


「そのまま、わたしが背負って宿舎の部屋にかくまいました。そこでも彼女はずっと吐いていました。強烈すぎるフラッシュバックがあったそうです。でも……、あそこに立てて、なにもなければ……。もう誰にも迷惑をかけなくていい。そうありたかったと……あの人が、あれだけの方が、か弱い女性のように涙をこぼしてずっと泣いていました」


 心優は雅臣を見上げる。


「同じ女性として、通じるものがありました。だから、言えませんでした。たとえ、『臣さん』でも」

 雅臣が大きな息を吐いて、前髪をかき上げた。額にうっすらと汗をかいている。それだけ感情が忙しく動いたらしい。


「一晩、一緒だったから……。俺のメールにも電話にも応じなかったのか。熱は、嘘か。ボスが承知済みの嘘か」

「違います。本当に、熱が出ました……。自分でもびっくりしました。小雨の中、身体が湿って、思いがけない方と一晩一緒にいたから気が抜けたんだと思います」

「熱は、本当に出たのか」

 心優はこっくり頷く。


「夜中に、ご主人が迎えに来ました。ものすごく怒られて……。あれだけの女性の頬を張り倒したものだから、わたし、本当に驚いて。なのに、あの奥様がご主人にすがって安心しきって抱きついて、ご主人も優しく抱きしめたんです。ああ、これが、間に誰も入れないご夫妻というもの。とても強烈なご関係。わたし、子供なんでしょうね。男と女の激しい愛情にびっくりして、知恵熱みたいなのがでちゃったのかと思ったほどです」

「……た、大佐、じゃない、ご主人が、奥さんを叩いて叱ったということか」

「初めてお会いした男性が、奥様をいつも笑顔で我慢強く支えているというイメージだった男性が、奥様より強かったのでそれもびっくりして。でも、わたしは、迷惑をかけたくないからもう大丈夫だという賭けで、恐ろしい場所に立ち向かった奥様の気持ちを知っていたので、その、叱りとばす旦那さんの前に立ちはだかって、奥様をかばってしまったんです」


 それが、御園大佐に気に入られてしまった理由。それを告げようしたら、雅臣からはたと気がついた顔なる。しかも、心優を指さしておののいている。


「あの旦那に、楯突いたのか! あの人は影にいるけれど、だからこそ恐ろしいと言われているほどの、じゃじゃ馬の手綱を握っている男なんだぞ」

「そうなんです……。でも、後先考えず、とにかく奥様の気持ちを知って欲しくて……」

「それだろ、それ!! だから自らスカウトに来ちゃったんじゃないか」

「はあ、そうみたいです。わたし自身もびっくりで……。でも、本当にあの時は、応じるつもりはなかったんです。ただ……臣さんが、」

「いや、もう言わなくていいから……」

 二人の間に波風が立ったあの日の出来事。その真相をやっと告げることが出来た。


★本日は次話『51.じゃじゃ馬は、突然に』も更新済み↓

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